小説 | ナノ

あなたを著すインクがない

 雨の音で目が覚めた休日は、なんだか贅沢な気持ちになる。遠くでかすかに雷の音が聞こえてきて、雨の激しさがいやでも分かった。雨の日は嫌いではないのだが、こう毎日続くと流石に憂鬱な気持ちになる。この豪雨はあとどれ位続くのだろうか。
 気だるい体で無理矢理ベットを出る。フローリングが足の裏に冷たくて気持ち良い。あぁ、どうして夏の雨は家の中をこんなに気持ちの悪い空気にするのだろう。気持ち良く起きたはずなのに、深呼吸ひとつで憂鬱な気分に早変わりだ。

 こんな日は、ブチャラティの隣で目を覚ませたらと思った。ベッドから出たら白いカップでぬるいコーヒーを飲んで、雨音を聞きながら他愛のない話をしたい。会いたい時に側に居てくれないブチャラティは、なんて酷い恋人だろう。
 いつでも僕の隣にいれば良いのに、なんて。どうせ口に出さないんだから、これくらいの我儘は許して欲しい。

 白いレースのカーテンを開けようと窓に近寄ると、玄関の前に誰かが立っているのが見えた。僕の寝室は二階にあって、玄関はそのちょうど真下にあるので訪問者の顔は見えない。けれど、真っ黒なおかっぱ頭でそれが誰だかすぐ分かった。
 ブチャラティ、と呟くのと同時に家中に控えめなチャイムの音が響く。僕の恋人は会いたい時に会いに来てくれる素敵な恋人だ。僕はカーディガンを羽織ると急ぎ足で部屋を出た。



 下に降りると、ブチャラティはずぶ濡れのままリビングのソファに腰を下ろしていた。玄関からリビングまで、ブチャラティの歩いたであろう所は水滴で濡れている。元から黒い髪は夜の海みたいに深く、黒く輝いている。手を伸ばしても触れられないような気がした。

「おはよう、ジョルノ」

 おはよう、と片手をあげたブチャラティの声はなんだか懐かしい音だった。その手でおでこに張り付いた髪をいじる様子がなんだかとても色っぽい。

「傘もささずに来るなんて」
「あぁ、忘れたんだ」
「こんな大雨なのに?」
「いいだろう、そんな事はどうでも。 それより何か飲みたくないか? 黒くて、暖かくて、苦いヤツ」

 まったく、こっちは寝起きだというのに。自分で淹れろと言いたい所だが、僕も飲みたいから仕方なく台所へ向かう。途中、適当なタオルを放ると「グラッツェ」という声と新聞を捲る音がした。新聞を読む前に髪を乾かしてくれたらいいのだけれど。家主の僕がまだ読んでいない新聞が、ブチャラティのせいで濡れて読めなくなったら大変だ。


 淹れたてのコーヒーを、ことり、ことりと二つ分テーブルに置く。ブチャラティは今日二度目のありがとうを言って新聞を畳んだ。
  ソファに座る。ブチャラティの隣。二人が並ぶには少し狭いこのソファは、肩と肩がぶつかって窮屈だがそこが良かった。僕はこのソファに座るたびにそのうち買い替えようと口癖のように言うが、実のところその気は全くないのだ。

「雨、止みませんね」
「雨は嫌いか?」
「まぁ、好きではないです。けど、」

 雨の日はブチャラティに会いたくなる。こうやってコーヒーを飲みながら少し高い肩に頭を預けると、嫌な事も、良い事だって忘れてしまう。ブチャラティの事だけ考えられるから、僕はとても幸せな気持ちでいっぱいになるんだ。

「けど?」
「いえ……なんでもないです」
「そうか」

 おかしな奴だ、とくつくつ笑うブチャラティの、まだ少し濡れている横顔を美しいなと思った。揃えられた前髪も、長い睫毛も高い鼻も、全部が作りものみたいだ。例えるなら、飴細工とかステンドグラス。美しくて神聖で、でもどこか儚げだから触れるのをためらってしまう。
 そんなブチャラティに、黒いコーヒーはひどく似合った。

「ブチャラティ、キスしてください」
「構わないが、良いのか?」
「なにが?」
「……コーヒーを飲んだばかりだ。苦いぜ?

 僕が何も言わずに微笑むと、ブチャラティも優しく笑ってみせた。
 キスをしている間は雨の音しか聞こえない。ざあざあとうるさい雨音とブチャラティの甘いキス。なんにも苦くないけれど、心がぎゅうとくるしかった。


「ブチャラティは好きなんですか? 雨」

 砂糖とクリームのたっぷり入ったコーヒーを啜りながら問う。ブチャラティは僕の質問を聞くと、少し考え込んだあと困ったように笑った。僕の嫌いな笑い方だ。こんな風に笑った後、ブチャラティはいつも難しい事を言う。僕が理解できないように、わざと難しい言葉を選ぶんだ。

「雨は好きだが嫌いだな」

 ほら、やっぱり。僕が困った顔すると、「でもお前は大好きだぞ」なんて言って誤魔化した。僕はブチャラティと同じように笑う。
 僕も大好きですよ。ずっと、いつまでも。

 ブチャラティはコーヒーを飲み干して、手持ち無沙汰にキッチンに目線を向けた。おかわりが欲しいのだろう。でも、僕はそれを許さない。
 飲んでも良いですよ、と自分のコーヒーカップに目線をやると、ブチャラティは苦笑いで首を横に振った。さらさらと黒髪が揺れる。甘いコーヒーも美味しいのに。
 ブチャラティがキッチンへと立ち上がるより早く肩に全体重を預けると、む、と小さく唸り声が聞こえた。僕はそれが面白くてくすくす笑ってしまう。

「行かないでください。僕は今から二度寝をするんです」
「休日だからって怠けすぎじゃあないか?」
「休日だからじゃなくて、ブチャラティが居るからですよ」

 ブチャラティはコーヒーのおかわりを諦めたようで、やれやれといった風に近くにあった毛布を手繰り寄せる。僕はそれに包まれて、睡魔がやってくるまで雨の音を聞いていた。
 ブチャラティは自分の家のように僕の家でくつろぐ。いっそ一緒に住めばいい。そうだ、そうしたら雨の日も濡れなくてすむし、コーヒーだっていつでも一緒に飲めるんだ。

「ねぇブチャラティ、」
「寝ろよ、ジョルノ。話なら後で聞いてやるから」

 まるで何を言おうとしたか分かっていたように、ブチャラティは僕の言葉を遮った。少しむっとしたが、瞼がもうくっついて開かないから仕方ない。
 おやすみのキスをねだると、唇にきちんと優しいキスをしてくれた。ブチャラティの「おやすみ」と、弱くなった雨音を遠くで聞きながら僕は眠りに落ちた。



 目が覚めると、僕は不自然な格好でソファに横になっていた。どうしてこんな所で寝ていたんだっけ? 少しだけ痛む体を気にしながら、ゆっくりと体を起こすとばさりと毛布が床に落ちる。その床からは、小さな水滴が玄関まで続いていた。早く拭かなくては、フローリングが痛んでしまったら大変だ。
 テーブルには、飲みかけのコーヒーが入ったカップと空っぽのカップが置いてある。これは僕が自分で置いたのか? 思い出そうとすると頭が割れるように痛くなった。

 それにしても、こんな風にどんよりと薄暗い日はブチャラティに会いたくなる。いつもあの人は目が覚めた時に隣に居てくれない。会いたい時に側に居てくれないブチャラティは、なんて酷い恋人だろう。
 いつでも僕の隣にいれば良いのに、なんて。これくらいの我儘は許して欲しい。口に出した所で、聞き入れてくれる人はもういないんだから。

 ひとりで座るには少し広いソファで、ぬるくなったコーヒーを啜った。窓の外はもう晴れている。

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タイトルはさよならの惑星

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