柔らかなふたりのあいだ
まだ六月のはじめだというのに、最近はまるで真夏みたいに暑い日が続いている。全部の窓を開けても入ってくる風はちっとも冷たくなくて、体育館は汗と熱気と部員の声が混ぜこぜになって篭っている。そこにコーチの怒鳴り声が加わると体育館はまるで地獄のようだが、及川はそんな夏の体育館がひそかに好きだった。
額に浮かぶ汗を手の甲で拭った時、ちょうど休憩を知らせるブザーの音が体育館に鳴り響いた。部員はみんな肩の力をふっと抜いて、スポーツドリンクを手に取ったりストレッチをしたりと各々好きに体を休めている。 及川が次のメニューを頭の中で確認していると、突然顔に何かが飛んできて視界が真っ暗になった。驚いて顔をあげると、少し離れた所で岩泉が立っている。練習着の袖をまくっていて、腕と肩の境目にくっきり日焼け跡が見えた。
「なにすんのさ!」 「何回呼んでも気付かないお前が悪い」 「え、呼んでた? ごめん気付かなかった」
もう何度目かも分からないこのやり取りに岩泉は呆れるでもなく怒るでもなく、あっそ、と一言返した。 及川は、今度はちゃんと手渡しでもらったスポーツドリンクを喉に流し込んでからタオルで汗を拭いた。稀にコートに落ちた汗で滑ってしまう事がある。それで怪我をしては大変だろう。小さな事だけれど、これも試合に勝つために大切なひとつだ。 目指している場所は高く、ただひたすらに練習をするだけではそこへ到達する事は出来ない。
「それにしても暑いな……。 室温計見たか?」 「怖くて俺には見れないよ」 「俺もだ」
二人で困ったような顔で笑い合った後、及川はもう一口スポーツドリンクをごくりと飲んだ。 もうすぐ休憩時間が終わる。熱中症になってはかなわないと、部員にしっかり水分を取るよう呼びかけてから、休憩時間の終わりを知らせるブザーの音と共にコートに足を踏み出した。
部活終わり、練習着を取り替えてもなお体にまとわりつく鬱陶しい暑さを連れて岩泉と及川は体育館を出た。流石に夕方になると日中に比べて少しだけ涼しくなるが、それでもまだ歩いているだけで汗が首筋を流れていく程には暑かった。
「ねぇ岩ちゃん、涼しい所行きたくない?」 「……スーパーの食品コーナとか?」 「スーパーの食品コーナに涼みに行く高校生カップルなんて滅多にいないよ!?」 「じゃあどこ行きたいんだよ」 「うーん……あ、海!」
海に着いた時にはもう時刻は六時を過ぎた頃だった。いまの時期になるとこの時間でも十分明るくて、オレンジ色の海やそこに沈む太陽、夕陽に照らされたお互いの顔もしっかり見ることが出来る。 途中でコンビニにも寄ったため海に来るまでだいぶ時間がかかってしまったのだが、時間をかけて来たにも関わらず他の場所とあまり変わらずに蒸し暑い。当たり前だがコンビニの方がずっと涼しかったため、岩泉はやっぱりスーパーの食品コーナへ行った方が良かったのではないかと考えていた。しかしそんな岩泉の気持ちを知ってか知らずか、及川は久しぶりの海にすっかり気分が上がってしまい、さっそく靴と靴下を脱いでいる。
「まさかお前、海に入る気か?」 「だってせっかく来たんだもん。 少しだけ、足だけだよ。さぁ岩ちゃんも早く靴脱いで!」
岩泉には全くその気は無かったのだが、あまりに及川がしつこいためしぶしぶ靴と靴下を脱いだ。 「岩ちゃん早く!」と急かす声を遠くに聞きながら、及川がバラバラに脱ぎ散らした靴下を靴の中に突っ込んで、それを自分の靴の隣に並べる。少し舞い上がりすぎだと注意しようとしたが、及川は馬鹿みたいに笑いながら波と追いかけっこをしていて、それを見た岩泉の口は無意識に緩んでしまう。
及川は制汗剤をよりいっそう冷たく感じさせてくれる潮風を胸いっぱいに吸い込んでみたり、海水の中でばしゃばしゃと足踏みをしてみたりとまだ少し早い海を思いっきり楽しんでいる。岩泉もそれにならって、思いっきり海水を蹴飛ばした。飛沫はもちろん及川にかかる。
「ちょっと岩ちゃん! 水かかったんだけど!」 「あぁ、わざと。それより買ってきた飯食おうぜ。腹減った」 「もう! 仕方ないなぁ……」
岩泉が及川に背を向けて砂の上に足を伸ばすと、背中に冷たさを感じた。振り向くと及川がしたり顏で口の端を上げ笑っている。まるで勝ち誇ったような表情で、そんな顔をされたら岩泉も黙っていられない。足の裏にくっついた砂の気持ち悪さを感じながら、その足をもう一度海水に沈める。 夕陽はいつの間にか見えなくなっていて、ぼんやりとした夜闇が辺りを包んでいた。岩泉が及川へ足を動かす。何も言わない岩泉に、及川もだんまりしてしまう。 波の音しか聞こえない夜の海で、いつの間にか岩泉と及川の距離は鼻と鼻がぶつかってしまいそうなくらい近付いた。岩泉はそのまま及川を抱きしめる。及川も岩泉の背中に手を回す。その背中は少し濡れていた。
「岩ちゃん?」 「俺がやり返すと思っただろ」 「うん。びしょ濡れになる覚悟してたよ、俺」 「きっとそうだと思ってな、不意をついてみた」 「あはは、なにそれ」
及川の肩越しに見た水平線は境目が分からないくらい夜空と同化してた。灯りが無いから星がよく見えてとても綺麗だ。俺の肩越しには砂浜しか見えないから、及川にはこの景色が見えないだろう。こんなに素晴らしいものを見ることが出来ないなんて、可哀想だと思う。さっきの仕返しだ。 岩泉がそんな事を考えている時、及川は岩泉の体温に触れながら、まっすぐ前を見つめていた。 及川には確かに砂浜しか見えていなかったが、その目線の先にはきちんと並べられている自分の靴と岩泉の靴があった。俺がはしゃいで脱ぎ散らした靴を、岩ちゃんは何も言わずに揃えてくれたのだ。そんな所が本当に格好よくて、たまらなく大好きだなあと改めて思う。 岩泉が抱き締めていた腕を緩めて最初と同じように向かい合うと、及川は嬉しさと湧き上がる幸福感に声を出さずに笑っていた。
「なに笑ってんだよ、お前」 「ん? いやぁ、愛されてるなぁと思いまして」 「今更?」 「ううん、改めてそう思ったの!」
及川は静かに目を閉じて岩泉の唇にキスをすると、「もう帰ろ? 風邪引いたら大変だよ」と岩泉の手を引いて砂浜に向かった。岩泉は少し驚きながらも、帰るという意見には賛成だったので黙って手を引かれていく。 靴を履きながら及川は小さくお礼を言ったが、岩泉は聞こえなかったのか、それとも聞こえないふりか何も言わなかった。
コンビニの袋を片手に持って、岩泉と及川は普段よりだいぶ暗い帰り道を歩いた。袋の中には結局食べなかったコンビニ弁当と飲みかけのジュースがふたつずつ入っている。弁当はもう冷たくなっているだろう。やっぱり海で食べてきたらよかったと及川は言ったが、岩泉はお前のせいだろうと心の中で小さくつっこんだ。
「明日もあの体育館で部活だね」 「あぁ、楽しみだな」 「え、岩ちゃん暑いの好きだっけ?」 「お前好きだろ、あの熱の篭った地獄みたいな体育館」 「うん」 「そういう事」 「えー? なにそれどういう事ー?」
岩泉は「さあな」とはぐらかして夜空を見上げたが、ここは灯りが多すぎて星はあまり見えなかった。 二人はまだ少し濡れた脚を風に晒して、コンビニ袋を持つ手とは反対側の手を繋いで家路を急ぐ。
. お題はache
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