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きれいな話

 今日はいつもより気だるい朝。最近は毎朝早く起きて、前の日に考えておいたバランスの良い朝食を作って、それを食べ終わった浩作さんと早人をキスで送り出すのが日常になっていたのに。どうしてかしら?今日は体が重くて何もしたくない。このままずっとシーツにくるまって、ベッドに沈んでいたい気分なの。別に眠たくなんてないのに、おかしいわ。隣にはもうあの人の姿は無くて、きっと顔を洗いに行ってしまったのね。私より早く起きたなら、一言声をかけてくれたら良かったのに。まぁ、寡黙な所もあの人の魅力のひとつなのだけど。

 そういえば、夢を見た気がするわ。どんな内容だったかしら。幸せだった気もするし、悲しかったような気もする。もやがかかってはっきりとしない記憶をなんとか覗こうとするけれど、どうしたって思い出せない。
 その時、部屋の外から私の名前を呼ぶ声がした。私の事を"しのぶ"と、そう呼ぶのはこの家に一人しかいない。

「しのぶ? 体調でも悪いのか?」
「あなた! ごめんなさい、なんだか今日は体が重くって。今すぐご飯作るわね。本当にごめんなさい」
「風邪じゃないのか? 朝食は僕が簡単に作っておいたから心配するな。早人はもう食べた」

 浩作さんが料理を作ってくれるのは二度目だわ。ずっと、頭が良い所と仕事が出来る所くらいしか取り柄がない男だと思っていたけれど、料理も出来たなんて。その上味も普通に美味しくて、本当に驚いたわ。もっと早く言ってくれたら良かったのに。でも、妻より夫の方が料理が上手だなんて、私の立つ瀬が無いからあまり料理はしないでほしいかも。一緒に台所に立つのは憧れちゃうけどね。
 ……あれ、そんな事より、いま浩作さんは「早人はもう食べた」と言ったの?一体いま何時……?

「まぁ! もうこんな時間だったの?! あなた、会社は?」
「具合が悪いんだろう? 今日は会社は休む」
「い、良いわよ! 全然平気! 別に頭が痛い訳でも、吐き気がする訳でもないもの。あなたは会社に行ってちょうだい」
「大丈夫だ。僕は毎日真面目に働いていて、上司からそれなりの評価も貰っている。 一日くらい休んだって給料が減ったりはしないさ」
「でも……」
「会社に電話をしてくる。ついでに朝食も持ってくるからお前は寝ていろ」

 起き上がろうとする私の肩をベッドに押して、浩作さんは部屋を出て行ってしまった。少しだけ強引に押された肩がじんじん熱い。痛みじゃないの、この熱さは。なんだか恥ずかしくなって、毛布を引っ張って口元を隠す。
 浩作さんは勘違いしているようだけど、会社を休むと言った時私が引き止めたのはお給料のためなんかじゃないわ。私のために会社まで休んでくれるなんて、今までのあの人から考えたらありえない事だったから驚いたというか、少し不気味にすら思えたの。でも、人の好意を不気味に思うなんて失礼よね。それに私たちは夫婦で、結婚する時に"お互いに助け合って生きていく"って神様に誓った仲なのよ。 ……あの時の私が浩作さんの事をどう思っていたかなんて、言わなくてもわかるわよね?

 毛布をかぶり直して少ししたら、部屋の扉が控えめに開かれて浩作さんが帰ってきた。手には良い匂いのするお粥と体温計を持っている。

「わざわざお粥を作ってくれたの? 別に食欲が無い訳じゃないから、早人と同じ物でも良かったのに」
「風邪なら消化に良いものを食べた方がいい。熱は……」

 浩作さんの大きな手がずいっと伸びてきて、私のおでこに当てられる。この手が人より少し冷たく感じるのは、私に熱があるからかしら。もっと恥ずかしい事だってしているのに、最近はこんな些細な事で心臓が速くなってしまう。おでこから離れていく手を名残惜しく思うけど、その手を引き止める言葉は何も出てこなかった。
 「熱はないみたいだが、一応」そう言って渡された体温計を受け取ると、ぎこちない動作で熱を測る。少ししてからきこえた機械音を合図に体温計の数字を見ると、平熱より少し高い程度だった。

「ほら、熱はないわ」
「そうか。じゃあ今日は大人しく寝てろ」
「ちょっと、熱はないってば!」
「何かあったら呼んでくれ。 俺は下で食器を洗っているから」

 有無を言わせない瞳で私を一瞥した後、体温計を枕元に置いて浩作さんは部屋を出て行ってしまった。仕方ないので私は大人しくベッドに沈む。
 もしもっと熱が高かったら、今日一日ずっと側にいてくれたのかな。私の寝顔にキスのひとつでもしてくれたり……なんて、あの人に限ってそれはないか。
 作ってもらって申し訳ないけれど、今更お粥を食べる気にもなれなかったからそっと瞼を閉じた。



 名前を呼ばれて目が覚めた。ベッドのすぐ側には浩作さんが座っていて、私の顔を覗き込んでいる。寝ぼけ眼で時計を見るとお昼はもうとっくにすぎていて、針は三時を指していた。
 浩作さんに起こされていなかったら、私はいつまで寝ていたのかしら。お昼ご飯も作れなかったわ。

「体調はどうだ?」
「えぇ、大分良くなったわ」
「そうか。 夕飯の材料を買いにスーパーに行くが、何か欲しい物は?」
「えっ、私も行くわ!」
「風邪引きはゆっくり寝ていればいい」
「嫌よ! せっかく浩作さんが休みなんだもの、大人しく寝てなんかいられない」

 それに、熱はないから風邪引きなんかじゃあないわ。
 浩作さんは躾のなってない犬を見るような、怖い瞳で私を見つめている。睨んでいる、と言っても過言じゃあないくらい怖い視線。でも、私だってこればっかりは譲れないわ。浩作さんと二人で買い物なんて、もう何年も行ってないもの。
 瞬きも忘れてしまうくらい睨み合って、先に折れたのは浩作さんだった。大きな溜息をついて、「暖かい格好するんだぞ」ですって!
 最近の浩作さんはやっぱり優しいわ。いいえ、もしかしたら今までこの優しさに気付かなかっただけかもしれない。ろくに向き合ってこなかったものね、私たち。




 私の体を心配してか、買い物はすぐに終わった。私はレジに並ぶ浩作さんを眺めながら、買い忘れが無いかを考える。
 もう体の怠さはすっかり消えていて、やっぱりたくさん寝たのが良かったのかも。もしかしたら日頃の疲れが溜まっていたのかもしれないわね。浩作さんと早人に美味しい物を食べてほしくって、夜遅くまで料理の本を読んだりしていたから。だってこの間、早人が私の作った料理を美味しいって言ってくれたのよ。それがとっても嬉しくて、つい無理もしたくなるわ。
 浩作さんが別人のようになってから、早人にも変化が見られたわ。浩作さんに似て無口で根暗な気味の悪い子だと思っていたけど、そんな事なかった。真っ正面から向き合ってみたら、優しくて、頭の良い普通の子よ。
 少し浩作さんとは距離があるように思えるけれど、きっとそのうち仲良くなれるわ。だって、二人は親子なんですもの。

 スーパーからの帰り道。大きめの買い物袋を片手に持って、浩作さんは大きな歩幅で私を置いて行く。こういう所よ、嫌いだったのは。でも、今は許せちゃうの。おかしいわよね、恋は盲目ってやつなのかしら。もしそうなら、とても今更な話ね。

「半分持つわ」
「いや、大丈夫だ」

 断らないでよ。私は袋を持ちたいんじゃあなくて、あなたの隣を歩きたいって言ってるんだから。こういう鈍い所も嫌いだったわ。

「えいっ」

 袋を持つ手とは反対側に回って、浩作さんの腕を自分の腕に絡ませた。だって浩作さん、鈍いんですもの。女からこういう事をするのはがっついてるみたいで少し気が引けるけれど、この人にはこれくらいが丁度良いのよね。
 浩作さんは少し驚いた顔で私を見た後、何事も無かったように前を向いた。私がしがみついているから、自然に歩くスピードは遅くなる。少しだけ一緒に居られる時間が長くなるわね。
 なんて思っていたら、するりと腕をほどかれてしまった。残念。そうやって一歩が大きなあなたは私を置いて先に行ってしまうんでしょう?このままずっと遠く、私の知らない所へあなただけ一人で行ってしまいそう。それが怖いのよ。
 浩作さんの居ない家で私と早人の二人だけで暮らす想像をして、立ち止まりそうになる。突然、俯く私の手を大きな手が包んだ。

「こっちの方が歩きやすい」

 そのまま私の手を掴んで、相変わらずの大きな歩幅でずんずんと進んでいく。浩作さんの冷たい手が私の熱で温かくなりそう。初めてキスした時よりもドキドキしてるわ、私。まるで、浩作さんとの恋を最初からやり直したみたいな気持ち。
 もしあなたと出会った時からやり直せるなら、どれだけ良いかしら。私はあなたの事を全然知らないし、あなただってそうでしょう?もっとお互いを知って、ゆっくり家族になりたかったわ。今はもうこれで満足しているから、もしもの話よ。


 そういえば。ねえ、あなたは本当に浩作さん?夢を見たの。実はあなたは浩作さんじゃなくて、何人も人を殺してきた、こわーい殺人鬼だったって夢。この前テレビでやっていたB級ホラー映画の影響かしら?
 でね、その人はこう言ったの。『僕は殺人鬼だけど、君だけは殺さない』って。それがどういう意味かは分からないけれどね。

「ねぇ、あの言葉ってどういう意味だったと思う? 私のこと好きだったって事かしら?」
「さぁ。それは分からないが……俺は、お前を殺したりはしない」
「ふふ、そっか。ありがとう」

 私は別に、今のあなたになら殺されても良いんだけどね。少しだけ浮かんだそんな気持ちを胸に閉まって、浩作さんの手を強く握った。
 いま私、とっても幸せだわ。浩作さんも同じ気持ちだったらいいな。ずっとこんな気持ちのまま二人で年をとって、早人もいつか結婚して、可愛い孫を抱きながら幸せねって笑い合いたいの。ずっと一緒よね、浩作さん?

 夕陽が眩しく光っていて、そろそろ早人も帰ってくる時間ね。今朝は朝食を作れなかったから、夕飯はいつもより少し豪華な物を作るの。浩作さんも手伝ってくれるかしら?そう言いたくて横顔を見上げたら、浩作さんの視線の先にはランドセルを背負った早人が歩いていた。
 いつだったか、「パパは本当のパパじゃない」なんて言っていたわよね、早人。でも、あなたのパパはちゃんとパパよ。だって、赤の他人がこんなに優しい目であなたの事を見たりする? 浩作さんはあなたのパパで、私の大切な夫よ。私たちはちゃんと家族だわ。

 早人の名前を呼んで手を振ったら、振り向いて控えめに手を振りかえしてくれた。浩作さんの両手は買い物袋と私で塞がっているから手を振ることは出来ないけれど、きっと両手が自由でも手を振ったりはしないのね。無愛想さん。にこりとでも笑ったらいいのに。
 さぁ、三人で我が家に帰りましょう。美味しい夕飯を囲んで、今日の出来事をたくさん話すの。幸せだわ、私たち。

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タイトルはさよならの惑星

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