拝啓、天国より。 | ナノ


拝啓、天国より。


 とある一室の窓の外。そこは春になると淡いピンク色に染まるのだ。いつからそこに生えているのかは分からないけれど、気がついたら生えてきた、とベテランの看護師はみな口をそろえて言う。

「児玉さん、お食事全部食べられましたね」
「この部屋にいるとね、前よりなんだか気分がいいのよ」

 きっとこの桜のおかげね、とおばあちゃんはしわくちゃな顔をもっとくしゃっとさせて、とても可愛らしく笑う。
 実際、ここの病室にいた患者さんはだいたいの人が元気になって、退院していった。中にはもう回復の見込みがないとされていた患者さんも元気になり、余命が一年以上伸びたという事例もある。科学的にはまったく考え難い話だが、とあるベテランの先輩看護師には心当たりがあるらしい。

「妙子ちゃん、あそこの病室の、桜のお話知ってる?」
「いいえ、でも昔からの言い伝えがあるということを聞きました」
「言い伝えじゃないわ、本当にあった話なの。ただ、少し不思議な話だから、信じるかどうかは妙子ちゃん次第」

 先輩の看護師は、そういいながら昔のことを思い出すように目を細めた。



 トシ江さんは今年で98歳。大往生した女性だった。よく笑う明るいおばあちゃんで、お見舞いに来た家族から貰ったお菓子をこっそりと分けていたため、病院の子供たちにも好かれていた。

「トシ江さん、窓の外を見て、何かいるんですか?」
「ここは味気ないねぇ。この窓から桜が見えたら、他の患者さんもよろこぶだろうに」

 トシ江さんは桜が好きだった。いつも急に思い立ったように、看護師に桜が欲しいねと話していたものだ。
 あるときトシ江さんが少し嬉しそうに窓の外を見ていた。看護師も気になって窓の外をのぞく。すると、段ボールと折り紙で作られた、りっぱな桜の木が立っている。それはまるで子供が作ったかのように不細工で、どうにも桜の木とは言えないようなものだったが、それでもトシ江さんは「りっぱな桜が咲いたねぇ」と喜んでいた。

「これは子供たちに、お小遣いをあげなくちゃね」

 トシ江さんは作りものの桜だということに気がついてはいるようだったので、その器の大きさと優しさに、看護師は感銘を受けた事をよく覚えている。
 それから看護師たちは、どうにかして大きな桜の木を植えることができないものかと考え、試行錯誤して、さまざまな業者に桜の木を移植できないかと尋ねて回ったが、そう簡単な問題ではなかった。
 そんなこんなしているうちに、とある冬の日、トシ江さんが亡くなった。どうやらがんだったらしい。大往生のおばあちゃんに深い敬意を表するとともに、強い後悔の念が沸き起こった。看護師たちはとうとう、トシ江さんに立派な桜の木を見せてあげることができなかったのだ。それが悔しくて悔しくて、随分と長いこと凹んでいた。

 それから何年か経ったある日のこと。トシ江さんのいた病室に新しく入院してきた作業員の男性が看護師に声をかけた。

「この部屋はいいですね、きっと数十年かすれば、立派な桜の木が見えますね」

 桜の木、という単語に、今まで忘れかけていた懐かしくて暖かくて苦い記憶が蘇る。まさか、そんなはずは。
 外を見ると、全長5,6メートル程の桜の木が生えていた。はじめからそこにあったかのように、堂々と。他の看護師や医師に聞いてもみな首を横に振る。
 きっと、トシ江さんからの贈り物だな、と看護師は勝手に納得した。



「そんなことがあったんですか」
「今からもう何十年も前の話よ。たぶんもう、ここでは私しか知らない伝説ね」

 看護師はそういってふふっと笑った。
 そんなとても不思議でロマンチックな話を聞いた妙子は、桜の木に触れて「トシ江さん、とても素敵な春の便りをありがとう」と呟いた。


小説のはこに戻る
Copyright (C) 2015 あじさい色の創作ばこ All Rights Reserved.
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -