大空にはばたいて 少女は今日も、天井に描かれた無機質な空を眺める。少女のいる白い病室には小さな窓しかなく、外の景色を見るためではなく単に日光を取り入れたり換気の目的で作られたものと伺える。 いつまでたっても表情の変わらない空にうんざりし、何度目かもわからない溜息をついた。 ━━いつか、あの大空の下で皆と走ることができるのかな……。 夕方になり空が橙色に染まった頃、週に二回だけ、少女の母がパートの合間を縫って少女に会いに来てくれる。彼女はそれが唯一の楽しみだった。 なにしろ、母が夕焼けの写真を何枚も撮って来てくれるからだ。先週はマンションの屋上から、その前はパート先近くの交差点から。 雨の日は撮ってきてはくれないけれど、色々な面白い話を教えてくれたりもした。 「エミ、今日は五保(イツホ)の駅前から撮ったのよ」 「お母さん、私はいつになったら一緒に夕焼け見られるの?」 エミと呼ばれたその少女は何度も何度も問いかける。その度に母はごめんね、もうちょっとだからね、と呟く。 もうちょっと。エミにそのもうちょっとが来ないとはわかっていた。聞くたびに母を困らせてしまうという事も、この管を外して外に出れば母にはもう二度と会えないということも。 病院内なら自由に出歩けるのだが、病のせいで寝たきりだったため歩くことすらままならないのだ。 彼女にとって自由というのはとても羨ましい事だった。 ああ、どうして神様は私の邪魔をするの? 私はただ、みんなと走りたいだけなのに。 ただ、夕焼け空が見たいだけなのに。 エミはいつしか夢を見るようになっていた。毎日、毎日、同じ夢を。それが夢なのか現なのかわからなくなるほどに鮮明で、美しい青空。 見上げると何層にも重なった薄い雲が綺麗な模様を作り上げている。 周りを見回しても障害物などどこにもなく、360度、いやそれ以上の空を見る事ができるのだ。 たまには場所を変えてみようと一歩踏み出すと、まるでプラネタリウムで早送りされたように空がどんどん暗くなり、太陽はどんどん沈んでいった。さっきとは一転、満天の星空が一面に広がっている。 真っ黒より少し青いキャンバスに、白や赤や黄色の宝石を散りばめた、そんな空。 そしていつも、満足感とともに目覚めるのだ。 とても心地よい。 今日は、何処からか声がする。なんだか懐かしくて、ホッとする声。誰のものかは思い出せないけれど、エミはその声を知っていた。 ────エミ、外に出たい? 「出たい」 自分の声は空間にこだまする。ここは、病室? 周りを見渡せば、さっきまで星空が広がっていたのに、またいつもの無機質な青空に戻っていた。 ────外に出たいなら、窓の外を見てご覧。 また声がした、気がした。もしかしたら、さっきの声は自分の声なのかもしれない。 それでもなお、希望を無くしたくなくて、窓の外を覗いてみる。 いつもならばただの芝生が生い茂った中庭が見えるだけなのだが、窓の外には白いスーツを着た青年が立っていた。銀色の髪に、引き込まれそうなくらい透き通った蒼い目。彼は一目で日本人ではないと分かる風貌だった。 エミは反射的に窓を開ける。 「エミ、待ってたよ」 「貴方はだあれ?」 エミがそう聞くと、彼は優しく微笑んだ。 「僕はカナト。ほら、早くおいで」 「どうして?知らない人にはついていっちゃダメなんだって、お母さんが」 「エミは僕のことを知ってるよ」 そう言われても分からない。知らないものは仕方がない。もしかしたら自分自身が忘れているだけかもしれない。でもやはり、声は聞いたことがある。カナトとは何者なんだろうか。 それでもカナトの演説(という名の説得)を聞き続けていると、どんどん外に出たいという願望が強くなっていった。 「でも私っ、歩けない」 カナトは、大丈夫と言ってどこからか車椅子を出した。彼は魔法使いか。 エミは窓から身を乗り出す。カナトはエミを引きずり出すかのように、しかし優しくしっかりと受け止めた。 カナトの押す車椅子に座りながらぼーっと空を眺めていた。今日は上空の風が強いのか、雲がすぐに流れて次々と空模様がかわっている。 ちなみに今は明け方だ。夢に見たあの星空は全く見れなくて、エミは少しがっかりした。 暫くして、人気のすくない開けた場所へとついた。もう日も登っている。 見渡す限りの青空と、次々と姿形を変える雲。夢にまで見た360度、パノラマ写真のように見渡せる空。 「うわああああ!すごいすごい!」 空を見てはしゃぐエミを見て、カナトは少し悲しそうな顔をした。 「本当はね、星空とか、夕焼けとかも見せたかったんだけど。僕にはこれくらいしかできないから……」 「ううん、全然構わない!」 「そう、それなら良かった」 そう言ってカナトは笑った。 この笑顔を見るのは何年ぶりだろう。大好きだったカナトの…… エミは途端に思い出した。カナトはエミのいとこで、小さい頃によく遊んでもらったりした。そんなカナトのことをエミは"カナト兄ちゃん"と読んで慕っていた事を思い出した。 しかし、記憶の中のカナトと今ここにいるカナトは少し違う。第一、彼の髪は銀色なんかではなく焦げ茶で、真面目な会社員だったはずだ。 しかし、エミはここ数年カナトに会った記憶がなかった。もしかしたらその数年間の間に何かあって染めたりしたんだろう。 一人で納得したところで、エミは違和感を覚えた。何かがおかしい。何か足りない。 ふと腕を見れば、点滴の管は既になかった。 それは少し昔の事。 午後8時を過ぎた頃、彼は仕事帰りの家路についていた。いつも通り、帰宅ラッシュの駅を抜け大通りへと出る。夜だというのに街はネオンで明るく、人も大勢いる。中には学校帰りと思しき制服の子供たちもいる。彼らの親は心配しないのだろうか。そんな事を考えつつ横を素通りする。 たまには路地でも通ってやろうか。あそこは人も少ないし、大通りを通って帰るより少しばかり近いのだ。実際には近く感じるだけなのだが。そのかわり灯りは街頭のみでネオンがギラつく大通りとは違う世界が広がっていた。 道一本でもこんなに違うのか。 彼は得体の知れない喜びと恐怖を覚え、早く家に帰ろうと足を速めた。それが災難の始まりだった。 公園を抜け、団地のそばを通り過ぎ、どんどん人気のない暗い方へと足を進めていく。突き当りを右に曲がって大通りへと戻った時、そこは先程とはまた違う景色だった。散々通っていたはずなのに、知らない街に来てしまったようで、なんだかわくわくした。なのに家は直ぐそこだ。なんだか変な感じがする。 彼は周りを見渡した。 向こう側に渡りたいのに横断歩道はなく、信号まで歩いていくと家を通り越してしまう。しかも道路を渡ろうにもカーブになっているため見通しが悪く危険だ。 少し顔を覗かせる。あまりはっきりとは見えないが、車は来ていないようだ。今のうちに渡ろう。 そう走りだした途端。 横から聞こえるクラクション、自分を照らし出すヘッドライト、耳を裂くようなブレーキの音。 彼の身体は弾き飛ばされ、あたりにはタイヤの焦げた臭いと吐き気を催すような鉄の臭いが立ち込めた。 「飲酒運転による事故だってさ……」 祖母は暗く沈んだ顔で話す。いんしゅうんてん。エミにはその言葉は聞き慣れなくて、意味もさっぱりわからなかった。 ただひとつ分かったこと。それは、大好きだったいとこが死んじゃったこと。 それからというもの、祖母は仏壇の、祖父の写真の隣に彼の写真を置き、毎日のように同じ言葉を呟いていた。 「爺さんや、カナトを宜しく頼むよ」 「カナト、私もう、帰らなきゃ」 エミがそう言うと、カナトは笑って答えた。 「そうか、それは残念。じゃあ、お別れしなきゃだね。病院まで送ってくよ。」 「うん」 そう言葉を交わしてからは、二人は終始無言だった。エミは何度も頭の中でお別れの言葉を探していたがうまく見つからない。次第に何を考えていたのかもわからなくなるほど、頭の中はぐちゃぐちゃだった。なんでだろう。 病院につくと、病室が何やら騒がしい。きっとこっそり抜け出したことがばれたのだろう。どういう言い訳をしようか考えながら、白い服の大人たちの間をすりぬけて病室に戻ると、ベッドには既に誰か知らない女の子がいた。 違う。知らない子じゃない。今まで幾度となく見てきた、自分の顔。うれしそうな顔をして目をつぶるその少女は紛れもない自分だった。 「カナト、ねえ、どういうこと!」 「ほら、みんなにお別れを言うんだろう?」 カナトを思い出したあたりから薄々感じてはいた。自分は死ぬのか。急に実感が湧いて、エミの大きな瞳から次々と涙が溢れ出る。私はここだよと叫んでも、誰にも自分とカナトの姿は見えないらしく、大好きだった母親もエミの体に駆け寄って泣き崩れている。 お母さん、私はここだよ。あのね、カナトに会ったんだ。そう、私が小さい頃に事故で死んだ従兄のカナト。カナトは私を外に連れ出してくれたよ。パノラマ写真のような空を見せてくれたよ。念願がかなったの。私は今幸せよ。死んでもあの空を忘れない。さようなら、お母さん。 エミがさようなら、と言うと異常を告げていた心電図の日本の線が一本になった。お別れの言葉は、きちんと届いただろうか。 「エミ、行こう。君はもう自由だ」 エミは大きく頷くと、大好きだった噴水のある中庭へと走っていった。 大空に羽ばたいて fin. 小説のはこに戻る Copyright (C) 2015 あじさい色の創作ばこ All Rights Reserved. |