名前のない関係


一瞬、何が起きたのか状況を理解するのに時間がかかった。

抱きかかえていたはずの少女は、気づけば距離をとって向かい合うように立ち、鋭い目をこちらに向けて警戒態勢をとっていた。

痛みが走った頬に手で触れてみると、細い傷口から僅かに血が流れ始めていた。


ーー見えなかった。

ほんの一瞬の間に腕の中からすり抜けて、今しがた手に握りしめている小刀でこの頬に傷を負わせ、間合いをとるために距離をとった彼女の動きが。
とてもじゃないが、体中に傷を負った者の動きとは思えぬほどの速さだった。

もう一度彼女の方に視線を戻し、容態を確認する。
腹部に刺された深い傷、手足や頬にある無数の切り傷。額からは血を流し、呼吸は肩が上下に揺れるほど荒々しい。
しかしこれだけの傷を負ってなおあのような動きができるとなると、それが彼女の個性なのだろうか。

わずかな時間で必死に思考を凝らしつつも、ようやくその容姿をはっきり見た時、思わず息を呑んだ。
雪のような真っ白の髪。金色の光を灯す大きな瞳。
透き通るような色の白い肌。そして、全身紺色で纏った忍装束のコスチューム。
まだ形は子供だが、そのオーラは間違いなく大人と変わらぬ威圧感を持ち合わせていた。
そこで、一つの仮説が浮かびあがる。

「お前…まさか…」

ヒーローなのか?と言いたくも、その言葉は彼女の声により遮られた。

『…っ、このタイミングの悪い時にっ…!何の用だ!侵入者か?!』

「落ち着け。俺は敵じゃない。この屋敷のヒーローに用があってだな…」

彼女が何者かという問題はひとまず後回しだ。
とりあえずあの傷だらけの状態を何とかしなければ、この屋敷にいるヒーローに手紙を渡す指名も果たせそうにない。

交戦する意思がないのを示すため、両手を上げて彼女に目線を送る。
するとその金色の目は細くなり、眉をしかめてじっとこちらを見つめては、僅かに警戒を緩めた。

『その顔…イレイザーヘッドか…?』

「…!俺の事を知っているのか…?」

『あんたみたいな人がうちに何の用…ぐっ…!!』

「おいおい、いいから喋るな。俺の要件は後だ。君の手当を先に…」

その場で跪いて倒れそうになる彼女に慌てて駆け寄り、手を差し伸べる。
しかし触れようとしたその瞬間、突然勢いよく彼女の手に、パシンッと大きな音を立てて振り払われた。

『…っ、触るなっ!』

「なっ…」

『無暗に私に触るな…!ケガの手当なら、あんたの手を借りなくても自分でする…』

「どう考えても無理だろ。他にこの屋敷に住人はいないのか?なんなら俺が呼んできてやるから、君はひとまずここで安静に…」

『…住人?もしかして何も知らないのか?』

傷の痛みで苦しそうな顔をあげては、少しばかり目を見開いてこちらを見る。
何かおかしな発言をしたのだろうか、と今しがた自分が言った言葉を頭の中でもう一度振り返るも、特に思い当たる節はない。

そんな唖然としている様子を見兼ねてか、彼女は大きくため息を吐き出して渋々口を開いた。

『何を勘違いしているか知らんが、ここの屋敷に住んでいるのは私だけだ。他に誰もいない。』

「…子供が…ここに一人で?」

『だからあんたの言う要件は私宛だ。なんの用かは分からないが、さっさと要件を済ませて帰ってくれ…っ、!』

口では強がるものの、やはり傷口が酷く痛むようで何度も辛そうに顔を顰める。
無理もない。大人でも悲鳴をあげて体が動かせなくなるほどの傷だ。
それをこんな小さい体で我慢し、尚且つ自分が敵だと勘違いして攻撃をしかけたくらいなのだから、とてもじゃないが正気とは思えなかった。

「ひとまず君の手当が先だ。そんなんじゃ家ん中にも入れんだろ。ほら、支えてやるから中を案内して…」

再び手を差し伸べれば、先ほどと同じように手を払われる。
そして彼女も再び警戒心をむき出しにし、奥歯を噛みしめて威嚇するように荒々しい声を上げた。

『だから触るなって言ってるだろ…!』

「触らなきゃ中へ運べないだろ。…潔癖症かなんかか、お前。」

さすがに二度も手を払われると、大人げないが穏やかではいられない。
最初は初対面という事もあり気を使って言葉を選んで話していたものの、彼女のあまりにもの口の悪さと目上の人へのなってない話し方に、思わず自分も素で返す。

しかし彼女も、それに負ける事なく返してきた。

『違うけど…余計なお世話だ!自分で動けるから、放っておいて…!』

「いやでも…無理だろ。強がってる場合じゃないぞ。」

『それでも…今触れられるわけには…』

突然容態が悪化したのか、彼女は腹を抑えて蹲る。
なんとも強情な奴だろう、と内心思いつつも大きくため息を零してもう一度手を差し伸べた。

しかし今度は振り払う気力もなかったのか、こちらに目を向けずとも彼女は言葉で拒絶したのだ。

『触るなって、言ってるだろ…!』

「なんでだ。」

平行線なやり取りに、段々苛立ちが増して自然と口調に強みが出る。

『なんでって…それは…』

「お前がどういう理屈で俺の手を拒んでいるかは知らんが、俺としてもまだガキのお前をこのまま見放して帰るわけにはいかんのでな。悪いがどうしてもいやだと言うのなら、強行突破させてもらうぞ。」

首元に巻いた捕縛用武器に手をかけると、彼女は「まずい…」と今にも口から洩れそうな表情を浮かべた。
そしてようやく観念したのか、俯いて大人しくなった。

『…頼むから、やめてくれ。今個性が暴走しているんだ。触れられると…私が自我を保てなくなる…』

「…!」

震えた弱々しいその声と、彼女が零した真実に驚きのあまり言葉を詰まらせた。
少女が一体どんな個性を抱えているのかも分からないが、外観上特になんの違和感もなかったため、今現状個性が発動している事すらも全くもって目では確認できなかった。

しかし、彼女がそれを止めたいのであれば。
自分がとるべき行動は、決まっている。

「なんだ…そんな事なら早く言え。」

『え…?』

「お前、俺の名前は知っていて俺の個性は知らないのか。全く…どういう偏った知識だか知らんが…とにかく今のお前にはうってつけの個性だ。」

『うってつけの…個性?』

「俺の個性は“抹消”。この目で見た奴の個性を一時的に止める事ができる。」

そう簡潔に説明したとほぼ同時に個性を発動させ、驚いた表情を向けている少女を見つめた。

彼女は不思議そうにぽかんと口をあけたまま、自らの頭に手を添える。
そしてそのまま、情けない小さな声を零した。

『…ほんとだ、聞こえない。』

「…聞こえない?何の話だ。」

『…悪かった、イレイザーヘッド。助かっ…』

「…っておい!しっかりしろ!!」

個性が消えてようやく安堵したのか、彼女の意識はそこでプツンと途絶えてしまった。
雪の中に埋もれそうになる体をぎりぎりの所で何とか受け止め、大きくため息を零す。

「…ったく、なんだってこんな面倒ごとに…」

本日何度目の悪態だろう、と思いながらも吐かずにはいられず、ひとまず小さな少女の体を抱きかかえた。

腕の中に納まっている顔を見れば、完全に気を失っている彼女の表情は警戒心がないせいか、先ほどとは別人のように幼い表情をしていた。

こんなまだ幼い子供が、なぜこんな深手を追っているのだろう。
ふとそんな疑問を浮かべては、ついさっきした彼女との会話を思い出した。

ーーここの屋敷に住んでいるのは私だけだ。

もしそれが本当だとしたら、この懐にある手紙は彼女宛てという事になる。
だが、あの人はこの屋敷に住むヒーローの卵に渡してくれと、確かに言っていたはずだ。

こんな幼い子供が、ヒーローなわけがない。
そもそも外見からするに、大人びては見えるがまだ中学生…下手をしたら小学生に近い年齢だ。
では、あの手紙を渡すべき人物はとうに亡くなってしまったとでもいうのだろうか。

自分だけでは解決しようもない疑問を頭の中で考えつつも、それよりもふと目先の問題に気づき、大きく息を吐き出した。

「せめて気を失う前に…寝室と救急箱くらいのありかくらい教えてくれよな…」

そうして彼女を抱えたまま、このただっ広い屋敷中を歩き回る羽目になったのだった。


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