幻月に結ぶ邂逅


※こちらの作品は、相互サイト『雪消月』の管理人、小雨さんとの共同作品です。一部内容が重複しておりますが、プロローグ、エピローグは、こちらとあちらで異なります。二つで一つのお話になっておりますので、よろしければ、どちらもご覧ください。


零は目の前の光景をじっと見つめた後、目を閉じて大きく肩で息を吐いた。

どこを見渡しても白、白、白。
触れられる見えない壁はあるものの、斬撃を放ってみても、何の手応えもない。
元々任務で疲れていた体は、このどうしようもない状況でよりいっそう疲労感を増していた。

無駄な悪足掻きは一旦中止して、どかっと崩れるようにその場に腰を下ろし、目を細めて頬杖を膝につく。

『あぁ、慣れない事をしたせいで油断した自分が情けない……』

情けない独り言が思わず零れつつも、こんな状況に陥ってしまった経緯を振り返った。

***

夜もすっかり更けた頃。
零は市街の巡回でたまたま捕えた敵を引渡しに、警視庁へと足を運んでいた。

用事を済ませ、そのまま直ぐに帰りを待ってくれている相澤の元へ向かおうと踵を返す。
しかし通路の途中にある一室のドアの隙間から、馴染みのある塚内警部が机の上に打ち伏して疲れきった表情を浮かべている光景を目にし、どうにも見過ごせなくて足を止めた。

『あの…塚内警部。』

恐る恐る声をかけると、ようやくこちらの存在に気付いたのか、彼はガタン、と音を立てながら慌てて体を起こした。

「す、すまない!随分見苦しい所をお見せしてしまったようだ!!」

『いえ…。あの、余計なお世話かもしれませんが。随分お疲れなご様子に伺えます。なにか私に出来ることがあれば、微力ながらお力添えをさせて頂きますが…』

塚内はそんな零の発言に驚くと同時に、じんと心打たれた。
関係上零とは付き合いが長い方だが、感情を持たないせいか“公安人形”とまで噂されていたあの彼女が、ここまで相手の事を配慮した言葉が出せるようになったという著しい成長に、親心のような妙な感動を抱いた。
そして同時に、今抱えている難関に心が折れそうになっていたからこそ、その優しい言葉は目頭を熱くさせるには充分な効果を齎していた。

「いやぁ…ありがとう…君からそんな事を言って貰えるなんて…。何だか本当に嬉しいな。…じゃあお言葉に甘えて…他のヒーロー達よりも数多くの個性を見てきた隠密ヒーローの君に、少しだけ話を聞いてもらってもいいかい?」

塚内の嬉しそうな顔を見て、零は自分の言葉に効果があった事にほっと安堵し、今日この瞬間の喜びを帰ったら真っ先に相澤に話そう…と、密かに心に決めて小さく笑った。



――『なるほど、個性の性質の解析…ですか。』

塚内の事情を聞いた零が零した言葉に、彼はため息と共に大きく頷いた。

「一通り過去の個性データとかを漁ってみたんだが、さっぱり分からなくてね…完全にお手上げ状態なんだ。」

塚内は机の上に視線を戻し、“それ”を見た。
一見なんら変哲もない40cm前後の紙製の箱。
これがデパートやショッピングモール等で並んでいるのを目撃すれば、なんの違和感もなく気にもならなかった。

しかし、実際にこの箱が置かれていたのは都内にあるとある小さな公園のベンチ。一目見たときからどうにも嫌な予感がした塚内は、そのまま署へと持ち帰らざるを得なかった。

落し物の登録無し。少しだけ揺さぶってみたが反応もない。
他にも何かと試してみたが特に何も起きず、唯一反応したのは“個性により作られたもの”かどうかがわかる分析機器だけだった。

「ただの俺の思い過ごしならいいんだが、見つけた状況といい、どうにも嫌な予感が抜けきれなくてね…。万が一市民に危険が及ぶ物かもしれないと思うと、どうしても放置できないんだ…。君はこれを見て、どう思う?」

僅かに眉を顰めている彼女に尋ねる。
すると零は口元に添えていた指を離し、静かに口を開いた。

『あくまで私の見解ですが…確かに塚内さんの仰る通り、その箱…私から見ても何やら嫌な気配を感じます。放っておくのは少し気が引けますね。』

淡々と声に出すと、彼は“そうか…”と呟いてまたしても大きく肩で息を吐いた。
零は少し先にある箱に近づき、そっと手を触れてみる。

塚内は彼女の躊躇なくとった大胆な行動に驚いては、慌てて名を呼んだ。

「ちょっ、朧くん?!」

『見ているだけではさすがに何の情報も得られませんからね。…大丈夫。何か起きても、私も全力を持って対処しますから。』

零のその言葉に、塚内は酷く頼もしいと感じる反面、自分よりも随分年下の彼女が手を貸してくれることに、こうも安心感を抱いた自分に情けなさを感じた。

零はその箱を両手で掴み、ゆっくりと角度を変えながら観察する。
見たことの無い個性。ただの箱にしか見えないのに、何処と無く“それ”から漂う嫌な気配。
彼は覚悟を決めて一度だけ蓋を開けてみたというが、何の反応もなく中身も入っていなかったと言っていた。

ーーもしかしたら、個性を引き出すのに何か条件がいるのだろうか。

零はふとそんな考えか過ぎり、念の為彼が試した事を自分も一度やってみようと試みた。

すると、まだ開けようとした訳でも無いのに、突然何かの引力で手は蓋へと導かれる。あっと驚く間もなく、蓋はすんなり開いてしまった。

『なっ……、塚内さん、離れて下さい!!』』

「朧くんッ!?」

なぜか自分の意志を無視して動いた手に、酷く焦りを抱く零。

一方塚内は零が箱を開けた瞬間、自分の時とは異なる反応をみせた箱に焦りを感じた。
眩しい光が視界を覆う中、必死に彼女の名を叫ぶ。

しかし、瞬く間の速さに事態は一変した。
零は箱の中から強く眩しい光を目の当たりにすると同時に、全身の力がふわりと抜け、あっという間に引き込まれていく感覚に溺れた。

塚内ようやく光が収まったのを確認して視線を戻してみると、そこに居たはずの零が忽然と姿を消してしまった事に、サッと血の気が引いていく感覚がした。

「た、大変だぁぁッ!!」

何とも情けなく動揺した声をあげながらも、一先ず彼女が最も慕い、彼女の身に何かあった時に連絡を入れるよう登録されている相澤消太を思い浮かべては、慌てて部屋を飛び出してスマホを取りにへと向かった。

※※※

そして話は冒頭に遡る。

零はどうしよも出来ない事態に諦めかけていた心を打ち消すように、勢いよく自身の両頬を叩いた。

あの場に残された塚内が、責任を感じて思い詰めているかもしれない。
もしかしたら、帰りを待っている相澤が酷く心配しているかもしれない。

ただ誰かに助けを求めてじっと待つような性分ではなはないだろう、と自身に言い聞かせながら、再びもがいてみようと立ち上がった。

するとその時突然、近くにあるはずもない人の気配を感じた。
この箱を生み出した者かもしれない、と零は立ち上がって警戒心を強め、腰にある刀に手を添え、姿勢を低く保つ。

神経を尖らして徐々に強まる気配に集中すると、敵とは思えぬほど悪意のない温かさを感じ取る。あまりにも意外だったその気配に、零は無意識に警戒を緩めた。

そしてその直後、頭上に渦のようなものが現れ、そこから重力に身を任せて落ちてくる一人の小さな背中を目の当たりにした。

***

 短いような長いような、おかしな感覚とともに落ちてきた桜はやっと見えた地面にぶつかる直前で個性を使い、ふわりと体を浮かせる。落ちている間、使えなかった個性がなんとか使えたことに、ほっと胸を撫で下ろしたとき、こちらに向けられている視線に気が付いた。

 ぽかんと口を開けている少女を桜もフードの下できょとんと見つめる。見つめ合ったまま、ゆっくりと地面だと思っていた床に下り立った桜は、えっと、と考え始めた。
 見覚えはないが、和装をモチーフにしたヒーローコスチュームに身を包んでる様子から、彼女もヒーローのようだ。

「えっと、初めまして、ですよね? 私はこの辺りで活動をしています、サイキッカーです」

零は突然現れたサイキッカーと明かす一人の姿に、暫く空いた口が塞がらなかった。

数秒間呆然と見つめた後、ハッと我に返り慌てて何か返そうと必死に言葉を探した。

『は、初めまして…。“朧”といいます。 私もこの辺りで活動してるヒーローなん、ですけど…。』

初めて目の当たりにするヒーローに聞きたい事は山ほどあるのに、上手く言葉が出てこない。

それは零の目に映る少女から、純粋な人の温かさを表す気配を強く感じるからだった。そんな姿に魅入る零の心はつられて和んだのか、妙にぽかぽかと温かい気持ちになる。もはや今、頭の中は真白同然と言ってもいいくらいだ。

 何か言いたげに見える零の様子に桜は、にこっと口元に笑みを引いて見せる。

「同じ地区の担当だったんですね。私、メディアとか苦手で露出してないので、ご存じないかもしれません」

『わ、私もなんです。訳あって、メディアとかは控えてて…。同じ、ですね。』

緊張しているのか、それとも違う理由なのか分からないが、零の目はなかなかこちらを向かない。なんとか緊張を解いてあげられないものかと考えた桜は目深にかぶっていたフードを外した。

「じゃあ、ここで知り合えたのは凄い偶然なんですね」

“改めて、よろしくお願いします”と頭を下げると、高く結った黒髪がさらりと流れる。顔を上げてフード越しではなく、直接、零へ微笑みかけた。

零は自分に向けられた優しげな表情に吸い込まれるように、目を合わせた。
自分とは対称的な綺麗な艶のある黒い髪と、ごく自然に浮かべる柔らかい笑み。
それを見た瞬間ふと、以前どこかの女子達がきゃっきゃと話していた、ある内容を思い出した。一目惚れをする瞬間は、ドキッと心臓が飛び跳ねて、身体中に熱をともしているような感覚になる、と。

それと近いしいものを体感した零は頬を真っ赤に染めては首を左右に振り、冷静さを強引に取り戻す。
そしていつもの調子を装って、桜に言葉を返した。

『偶然とはいえ、自分と同じようにここへやってきたのが貴方のような方で良かったです。…でも正直、呑気に喜んでいる場合でもないんですよね…。』

 それもそうだと、桜は目の前の彼女から視線を周囲へと向ける。どこもかしこも真っ白な空間に手を伸ばしてみれば、何の変哲もない壁に触れた。

「これ、何か個性を試してみたりしたんですか?」

『えぇ、しました。直接的な攻撃も加えてみましたが…何の効果も得られませんでした。』

零はそう答えて、腰にある刀に手を添えながら視線を下ろした。

 自分と同じように左腰にある刀を見ている零を横目に、桜は顎に手を添えて考え始める。彼女がどんな個性を持ち、どんな攻撃を加えたのか分からないが、プロヒーローの攻撃が通じないのであれば、攻撃以外の脱出方法を考えた方がよさそうだ。

「……とりあえず、座りましょうか。それから考えましょう」

その場にそっと腰を降ろした桜は、立ち尽くしている零にも座るようにと勧める。

零は戸惑いながら、桜の向かいに腰を下ろす。
しかし、立っていた時よりいっそう距離が縮まったような気がして、またしても緊張感が走る。零は気を紛らわすように、何か考え込んでいるように窺える桜に恐る恐る訊ねた。

『あの、聞いてもいいですか…? 』

「ええ、もちろん」

 一体何を訊かれるのだろうと、桜はこれまで考えていたことを一旦止めて零へと顔を向ける。

零は彼女の目線がこちらに向いたことでさらに体が強張るも、ぐっと紡いだ口を解いた。

『ここに来たきっかけって、どんな感じでした? 実は私、個性で作られた奇妙な箱の蓋を開けて、気付いたらこの状況だったんですけど…。』

「私もこのくらいの紙製の箱に吸い込まれるようにして、ここに来てしまったんです」

手で箱の大きさを表した桜は、ふと気付いてポケットに入れている物に触れる。あまり期待せずに取り出したスマホはやはり圏外だった。

「ダメですね。私はここに来る直前、周囲に人がいたので他のヒーローへ連絡が行くと思うんですが、貴女は?」

『私も、ここにくる直前まで人と一緒にいました。個性に吸い込まれていった瞬間を見た彼なら、恐らく今頃慌てて何か動いて下さっているとは思います…』

零は頭の中でもう一度塚内の事を思い出し、彼の心境を察しては眉を下げた。

彼女の申し訳なさそうな表情に、目を伏せた桜はフッと微かに笑う。

「なら、心配することはないですよ。必ずその人が助けてくれます。だから、そんな顔をしないで。助けてもらったら、次は私たちが返せばいいだけです」

そうでしょう?と零に同意を求めて目を向けた桜は、頭の隅で彼にまで連絡が言ったのだろうかとぼんやりと思った。

零は小さく笑って、“そうですね”と答える。反面、本来“助けを待つ”という思考には至らないものの、桜に言われるとなぜか妙に素直に受け入れられる事。そしてやんわりとした口調と表情で話す桜と、もっといろんな話がしてみたい、という珍しい欲が生まれた自分を不思議に思いながら、自然と声に出した。

『あの…サイキッカーさんがもしよければなんですけど…。その助けが来るまで、時間潰しと言うのも何ですが、少しお話しをしませんか?』

勇気を振り絞って、提案を持ち掛ける。

 思わぬ申し出にきょとんとした桜は、もじもじとした様子の零に目を瞬く。不安そうな金の目に、彼女が精一杯の勇気を持って聞いてくれたのだと分かると、微笑ましくなってしまう。

「もちろんです。私も朧さんとお話したいなと思っていたんです」

何から話しましょうかと考え出した桜は、ハッとして零を見た。

「あの、お腹空きませんか?」

そう聞かれた零は、ふとお腹に手を当てて最後に何か食べたのがいつだったかを振り返ってみる。
そういえば、今日は任務につくため夕食を取っている暇はなかった。
言われてようやくその事を思い出すと、何だか本当にお腹が空いた感覚になり、恥ずかしながら正直に返した。

『…空いてます…』

「よかった。私もここに来る前、ちょうど昼時だったのでお腹が空いてきちゃって」

 普段から非常食を入れている腰のポーチから、取り出した一つを零へ差し出す。それはいつも桜の想い人である彼が愛飲しているゼリー飲料だった。

零は“ありがとうございます”と丁寧にそれを受け取って、頭の中である人物を連想させた。

今日帰りを待つと言っていた“彼”は、今頃どうしているだろうか。もしかしたら塚内が連絡して現状を知り、この箱の向こうに来ているかもしれない。
何気なく受け取ったゼリー飲料に口を付けながらそう考えると、何だか妙に安心感を覚え、自然と頬が緩んだ。

ふと、向かいに座る桜の顔に目を向ける。彼女もゼリー飲料を見て何かを連想しているのか、苦笑いを浮かべている様子だった。

『…どうかしたんですか?』

不思議に思った零は、彼女にそう訊ねた。

小さく首を傾げている零に、ああ、と桜はこれまで思い起こしていたことを話し出す。

「これをくれた人、その人もプロヒーローなんですけど、今頃怒ってるだろうなって思って」

 愛想のない顔を顰めている様子を思い浮かべて、また桜は苦笑いをするが、その目には他人には向けられないものがあった。
そんな桜の柔らかい表情を見て、零はこれを彼女に授けたヒーローは、彼女にとって大切な存在なのだろう、と悟る。

かく言う自分も、このゼリー飲料からどうしよもなく大切な人を連想してしまう。
普段から“ちゃんと食事を取れ”といつも口癖のように叱る彼がもしこの状況を見たら、やっぱり怒るんだろうな…と考えると、彼の顰めっ面が自然と思い浮かび、フッと小さく微笑んだ。

「お好きですか? このゼリー」

 ゼリー飲料を見つめている零の眼差しが、これまで見てきたものとは違うことが分かる桜は、彼女の視線を意味を理解していた。このゼリー飲料を通して零が見ているのは、きっと彼女にとって特別な相手なのだろう。無理やり聞きたいわけではないが、その相手がどんな人なのか興味はあった。

『えぇ。…というか正直言うと、これを口にしたのは今が初めてなんです。…でも、私のよく知っている人は、これを主食のように飲む人で。今までは、“こんなんじゃお腹膨れないし、栄養も偏りますよ!”って、どちらかと言うと否定してたんですけど…まさかそんな事を彼に言っていた自分が飲む日が来るなんて、思ってもみなくて。』

頭の中で思い浮かべる人物のせいか、咄嗟に“彼”と呼んでしまう零は、しばらく余韻に浸った後、ハッと我に返る。

『…って、私出会ったばかりのサイキッカーさんに、何て恥ずかしい事を話してるんでしょうね…』

そう小さく零して顔を真っ赤に染めては、恥ずかしさ故に目を背けた。

「好きな人なんですね、朧さんの」

真っ赤に染まり切った彼女が可愛らしくて、桜の目は柔らかに弧を描く。

「これをくれた人も、これをしょっちゅう飲んでて、”便秘になっちゃいますよ”って言ったら、凄く怒った顔したんですよ」

あの時の相澤の顔を思い出した桜は堪らなくなって、肩を震わせて笑い出す。一しきり笑ってから、彼女は目元の涙を拭って零の方へ顔を上げた。

「もしよろしかったら、朧さんの好きな方がどんな方か聞かせてもらってもいいですか?」

零はそう言われて、最初は恥ずかしくて戸惑った。それでも何故か桜には素直に話せそうな気がして、意外にもその質問に返す答えは自然と声に出た。

『愛想がなくて、不器用で…でもそれでいて、誰よりも些細な事に気づいてくれる優しい人、ですかね。普段は面倒くさがりな素振りを見せるのに、何だかんだ面倒みがとても良くて。……あの、良ければサイキッカーさんの好きな方の事も、教えて頂けませんか?』

頭の中で相澤をイメージしていた零は、視線を桜へと戻す。すると、それまで、うんうんと頷いて聞いていた彼女は目を大きく開いて驚いた様子を見せていた。

「え? へっ!?」

唐突に言われたことに全身が動かなくなる。顔中に熱が集まるのを感じた桜は零を見たまま瞬きも出来ずにいる。

「な、なんで、分かりました? その、好きな人がいるって……」

隠していたわけではないが、他人から簡単に見抜かれてしまうほど分かりやすい顔をしていたのかと桜は両頬を手で覆った。

零はそう言われて、いつもの癖で無意識に表情から心を読み取ってしまった事に気づく。サッと顔は青ざめていき、慌てて両手を前に出しては何度も左右に振った。

『ごごご、ごめんなさい!その…さっきサイキッカーさんが話していた時の表情があまりにも愛おしそうな雰囲気をしていたもので、そうかなぁって。…私、昔から人の感情や気配に敏感で。…気を悪くさてれしまいましたか?』

桜と少しだけ近づけたと思った距離感を、まさか自分の無意識な発言で遠ざけてしまったらどうしよう、と零は必死に謝った。
 あまりに必死に謝る彼女に違和感を抱いた桜は、静かに零へ近寄る。

「どうして、そんなに申し訳なさそうな顔をするんですか?」

どこか怯えているようにも見える零の両手を取った桜は、見上げてきた彼女の顔を見つめた。

「私が分かりやすかっただけかもしれませんが、朧さんにとって、その観察眼は武器の一つでしょう? 誇れるものじゃないですか」

謝ったら勿体ないですよと、躊躇なく触れてくる桜に零は激しく動揺し、印象的な金色の瞳を揺らす。
この時、“読心”の個性が発動しなかった事に密かにほっとしては、彼女の言動に心打たれた。
何も知らないとはいえ、引け目に感じているこの眼を“誇れるもの”と言ってくれた事。そして当たり前のように触れてくれたその手のひらから伝わった体温は、感じたもの以上に温かだった。

『…ありがとう、ございます。』

少し気を抜けば涙が零れそうな状態を必死に悟られぬよう、零は微かに震えた声でそう返した。
小さな返事は彼女の心境をしっかりと桜に伝える。その気持ちを汲み取って桜は何も気付かないふりをすることにして、僅かに視線を下げる。そして、小さく空気を吸い込んで、彼女の訊いてきたことを考え始めた。

「……私の好きな人は、朧さんの好きな方に似ているように思います」

顔を見られたくなさそうな零の方へ目を向けないようにしながら、桜は片手を放さず、すぐ隣へと座り直す。俯きがちな隣を感じながら、顔を上げた彼女はこれまで見てきた相澤の姿を思い浮かべた。

「誰よりも細かなところに気が付く人です。愛想はないけど、本当は誰よりも優しくて。でも、考えすぎて優しさが不器用なんです。だから、他人にはその優しさが伝わりにくくって」

勿体ないなって思うんですけど、と言葉を切った桜は、くすっと一つ笑う。

「私は彼のその優しさをとても愛おしく思ってます。誰も気付いていないなら、私だけがその優しさを一人占めにできているようにさえ感じられるんです。おかしいでしょう?」

眉を下げて困ったような笑みを零へと向ける。すると彼女はいつの間にか俯いていた顔を上げ、何度も瞬きを繰り返していた。

桜の好きな人の話が自分の中で想う相澤ととても似ている事にも勿論驚いたが、彼女が躊躇なく零した“愛おしい”という言葉は、零にとってあまりにも聞き慣れないもので、また自分が彼を想うこの名前の知らない不思議な気持ちに、妙にしっくりきたような気がしたからだ。

そして数秒間桜を見つめた後、零も小さく笑みを浮かべて左右に首を振った。

『“おかしい”だなんて、全然思いません。むしろ、その考えが少し分かるような気がして、そんな自分に驚いてしまったくらいです。』

この時零は初めて、桜が繋いでくれている手のひらを少しだけ力を込めて優しく握り返した。

 弱弱しくも感じられる握り返してきた手に目を軽く見開いた桜は嬉しそうに頬を緩める。

「不思議ですね。初めて会ったのに朧さんはとても話しやすくて、素直に言葉が出てきてしまいます」

零から時折窺える、何かに怯えるような表情や、動揺している様子。それらは零が想い人のことを話す間だけ鳴りを潜めることに気付いていた桜は、軽く目を伏せる。

 彼女の心を救う存在がいてくれたことに安堵した。そして、自分も同じように想い人の存在に救われているのだと、髪を結ぶそれにそっと触れた。

(貴方が助けてくれると信じてますから、私は私のままでいられていますよ)

そう心の中で相澤に話しかけた桜は、そっと目を開く。

『私も、不思議な気持ちです。初めてお会いしたはずなのに…サイキッカーさんといると、安心してとても心が落ち着くんです。』

零は、桜と繋いでいる手から伝わってくる体温をを確かめるように、目を閉じた。
つい先程までは一刻も早くここを出たいと思っていたのに、今や傍に居てくれる桜と離れがたいとも思ってしまう。

そんな考えを抱く一方、ふと零の頭の中に一つの不安が浮かび上がり、小さな声で“あの……”と声を漏らした。

『ここって、個性で作られた空間ですよね?よくありがちな話ですけど…例えば、この場から脱出できた時に、この場での記憶が残らない…なんて可能性はあるんでしょうか。』

不安そうな声で訊ねられたことに、桜も”あっ……”と目を見開く。安心すると言ってくれた零にこんな顔をさせたくはない。

どうしたものかと考えていると、彼女の刀に目が留まった。

「確かに、この空間で起きていたことを覚えていられる保証はありません。だから……」

 脇に置いていた自分の刀を取った桜は慣れた手つきで鞘から下げ緒を外す。捕縛にも使う為、普通よりもずっと長い紺の下げ緒を零に差し出した。

「持っていてください。私の刀の下げ緒です。この長さで使われている方は、あまりいないので、もし、忘れてしまっても、話しかけるきっかけにはなってくれるはずです」

零の繋いでいた方の手を取り、紺の下げ緒を乗せる。少し体温の低い両手で、下げを持たせた手を包むようにして握らせた。にこっと笑ってから桜は両手を彼女から離す。

零は両手で壊れ物のようにそっと包んだ“それ”を見て、数秒間ポカンと口を開けたまま固まる。

無意識に受け取った下げ緒を見つめる金の瞳には潤いがあり、頬は軽く赤くなっていた。
初めて知り合った日に、その人の大切な物を受け取る…それがどれだけ貴重な事かを、零は身をもって感動していた。

その様子が、泣き出してしまいそうに見えた桜は、ぎょっとして慌てだす。

「お、朧さん? あの、ごめんなさい……! な、泣かないでください」

無理に持っていて欲しいわけではないんです!と慌てふためく桜に、零はハッと我に返って必死で誤解を解いた。

『ちっ、違うんです!ごめんなさい…人から物を貰うという経験があまりなくて…知り合ってまもないサイキッカーさんから、まさかこんな大切な物を頂けるなんて思ってもみなかったから…感動のあまりつい…。』

零は早口でそう話しては、恐る恐る桜の顔を見つめ、消えそうな声でもう一度だけ訊ねた。

『本当にこれ……私が受け取ってもいいんですか…?』

「……もちろんです。朧さんに持っていてほしいんです」

 訳あってメディアに出られなかったり、妙に自分に自信がなかったり、物をもらうことにここまでの反応を見せたりする彼女の背景には他人には簡単に話せない理由があるのかも知れない。

こんなただの下げ緒一つが彼女の救いになることはないだろう。しかし、何か些細な助けになればと、もう一度、零の手を両手で取った桜は、穏やかな表情を向ける。

「受け取ってもらえますか?」

桜の声、表情から伝わってくる優しさに、零は目から涙が零れ落ちそうになるのをぐっと下唇を噛んで堪えつつ、それなら…と自分の刀に手をかけ、素早く白の下げ緒を解く。そして同じように、桜に差し出した。

『私の下げ緒、サイキッカーさんと同じで通常より長めなんです。だからこれなら、勝手が変わらず使って頂けると思うんですが……。受け取って頂けますか?』

恐る恐る下げ緒を差し出してきた零の目には強い緊張が見えた。下げ緒の乗った手も強張っているようだ。目を丸くさせていた桜は彼女の気持ちを思うと、自然に笑みが込み上げた。

「ありがとうございます。とっても嬉しいです」

受け取ってすぐに下げ緒を結んだ彼女は零に見えるように鞘を持ち上げる。

「とても綺麗な白ですね。なんだか使うのが勿体ないくらいです」

『気に入って頂けたようで良かったです。サイキッカーさんから頂いた紺の下げ緒も、とても素敵です!』

零は桜から受け取った下げ緒を素早く結んで、彼女と同じように鞘を持ち上げ、きらきらと目を輝かせて見つめながらそう返した。

喜んでくれている零と同じように、桜も嬉しさで頬が緩む。

「これで、何があっても私たちは友人でいられますね」

嬉しさで、ふふっと小さく笑った桜は零からもらったばかりの下げ緒を見た。

『…そうですね。これを見る度に、友人であるサイキッカーさんとの繋がりを感じられると思うと、何だかとても心強いです。』

そう言った零は、桜に“友人”と言われた事があまりにも嬉しくて、はにかんだ笑みを浮かべた。

 やっと見られた零のちゃんとした笑みに、桜は目を細めたまま見入っていた。

「やっと笑ってくれましたね」

嬉しいと思う気持ちもあるが、彼女のはにかんだ笑みはとても可愛らしいと桜は強く思う。この笑みが、いつでも自然に出せるようになることを心の中で誰にでもなく祈っていた。

 お互いの顔を見ていると、不意に空間がぐにゃりと歪み始めた。驚く間もなく、だんだんと歪みが強くなっていく。

「うわっ!」

『わっ、!』

その場に座っていることすらできないほど床だったところが、大きく波打つように曲がり、二人の間に距離が出来る。

「朧さん!」

伸ばしたところで届かないことは分かっていたがそうせずにはいられず、桜は零に向かって手を伸ばす。

『サイキッカーさん…!』

桜が精一杯伸ばした手を取りたくて、零もできる限り腕を伸ばす。触れていた彼女の体温が一瞬で離れてしまった事に不安が押し寄せた。

 しかし、二人の手が触れることはなかった。ぐにゃぐにゃと形が変わっていく空間の中で桜も零も、その気配に気が付いた。そして、お互いが違う世界からここへ迷い込んだことも同時に理解する。

「朧さん! 私、桜っていうんです!!」

 せっかく友人になれたのに、名前も知らないだなんてあんまりだと思った桜は零に向かって叫んだ。

『…っ、桜さん! 私は零です!』

自分にこんな大きな声が出せたのかと驚くほど、零も桜に届くように叫んだ。

 どんどんと引き離されていった二人の体が背後から何かに引き寄せられる。桜の体に絡まるように巻き付いたのは、彼女の髪を結っている物と同じ。そして、その捕縛武器に染みついた彼の匂いが桜の胸に安心感を広げた。
信じていた彼が助けに来てくれたのだと体に巻き付く捕縛武器に触れた桜は、向かいにいる零の体を力強く抱き寄せようとしている腕に気付く。

 その腕を見間違えたりはしない桜が大きく目を見開くと、零も向こうで同じように目を見開いていた。

くすっと笑った桜は口元にかかっていた捕縛武器を強引に下げると、大きく息を吸い込んで零に向かって大きな声をかける。

「零さんっ!! そっちの消太さんのこと、お願いしますね!!」

聞こえたかどうか分からないけれど、相手のことばかりに気にかける優しい彼女であれば向こうの世界の相澤を幸せにしてくれるだろう。そして、向こうの相澤も零のことを支え、幸せになってくれるだろうと、桜は直感的に信じていた。

零は見慣れた捕縛武器に身を包む桜の姿を見つめては、彼女が想っていた相手が相澤だったことに妙に納得して、安堵の笑みを浮かべた。
そして桜に届きもしない小さな声で、彼女に語りかけた。

『桜さん…例え記憶が無くなったとしても、貴方の温かさだけは絶対に忘れません。ありがとう。』

このまま桜を名残惜しく見つめていては、彼女が心配してしまうと思った零は、そっと静かに目を閉じた。

 閉じ込められていた空間が目も開けられないほど白く発光するなか、二人は互いに知らないまま笑顔を交わし合っていた。


***

途切れた意識の中、必死になって自分の名を呼ぶ声を耳にした零は、重い瞼をゆっくりと開けた。

「おい、零ッ!大丈夫か?!」

目の前に、血相を変えて顔を覗き込む相澤と塚内の姿がぼんやり見える。
零はようやく箱の外に出られたことに安堵の笑みを浮かべては、力のない声で二人に零した。

『…心配かけてすみません。助けてくださって、ありがとうございます。』

「……っ、このバカ野郎!寿命が縮まるかと思ったぞ。」

相澤は今すぐにでもその弱々しく微笑む彼女を抱きしめたい衝動にかられるも、塚内がいる手前、ぐっと拳を握って堪えた。

「あぁ、良かった…本当に心配したんだ。」

塚内も気の抜けた声を零して苦笑いを浮かべる。
零は二人の安堵した表情を見て、また一つふふっと笑った。

「怪我は無いのかい?」

『ええ、大丈夫です。…それよりあの箱は?』

「ちょうどお前がトラブルに巻き込まれた後、別の場所に同じような箱を置いている敵の姿を他のヒーローがたまたま目撃してな…すぐに捕まって、お前を助ける方法を俺が聞きだしたんだ。」

『そう、ですか…』

そんな会話をする二人を前に、塚内は密かに当時の事を思い出しては、苦笑いを浮かべる。敵の取調室で彼女を助ける方法を聞き出していた時の相澤は、自分の知る彼とはまた違い、酷く恐ろしくも感じた。
そして普段何かと無頓着そうにも見えるイレイザーヘッドをあそこまで感情的にさせるのは、今目の前にいる少女くらいだろうな、と悟ったからだ。

そしてそれを知らない零は、意識がまだ朦朧としているせいかぼんやりと遠くを見つめている。
相澤はこの数時間の間にいったい彼女の身に何があったのか不安になり、訊ねた。

「…なぁ、本当に箱の中にいる間、何も無かったのか?」

『…………』

零は相澤の質問に、少し戸惑った。

長いようで短く感じた箱の中での時間は、何故かぼんやりとした記憶しかない。
一体何があったのか、と朧気な記憶を辿っても、そう簡単には思い出せない。

「…零?」

一向に答えない零が心配のあまり、相澤の眉が下がる。まさか個性にその身ごと飲み込まれたせいで、後遺症でも残ってしまったのだろうか。

そんな相澤の不安げな様子を悟った塚内は、彼女にある提案を持ちかけた。

「朧くん、緊急で診てもらうかい?」

『…いえ、本当に大丈夫です。少し休めば、元に戻りますから。』

零はそう言って、自身の力で身体を起こそうとした。
しかし相澤は流石にそれを許さない。まだ本来の力が戻っていない彼女の身体を強い力で引き寄せては、有無を言わさず背中に回しておぶさった。

『あ、あの…』

「…とりあえず、今日は様子見も兼ねてこのまま連れて帰ります。」

「あぁ…何か容態に変化が起きたら言ってくれ。すぐに検査の手配をするよ。」

塚内は相澤に任せるのが一番だと悟り、それ以上のことは口にせず二人の背中を微笑みながら見送った。

***

帰り道。
相澤は背負い込んだ零をどうしてももう一度向かい合って抱きしめたくなり、人気のない道で彼女を降ろした。

「おい、」

『はい?』

きょとんとした顔を見せる零に、片方は腰へ、もう片方は小さな後頭部へ手を回し、自身の胸の中へ押し込んだ。

「…お前は俺をどれだけ心配かけさせれば気がすむんだ。」

『…すみません。私も軽率だったと反省してます。』

申し訳なさが伝わる声に、相澤はゆっくりと身体を離してもう一度目を合わせた。

零の様子は既にいつも通りだが、どうしても彼女の言う“大丈夫”は、過去からの経験上信用ならない相澤は、口説いと思いながらももう一度訊ねた。

「…本当に、何ともないのか。」

『もう、本当に心配性ですね。怪我も何も無いですよ。何なら、全身チェックでもしてみます?』

「…あぁ。」

『えっ、』

いつもなら断るはずの相澤が、今日は顰めっ面のままじっと視線を送ってくる。
その表情に不覚にもドキッとした零は、自分で言ったにも関わらず、撤回しようと慌てふためいた。

『じょ、冗談ですって!何で本気にしてるんですか!?』

「言っとくが、俺は本気だ。」

こういう時の真剣な相澤の目線に、零は酷く弱かった。
心臓の鼓動が大きく、速く波を打つ。
互いの体がくっついてしまいそうな程至近距離にいる彼に、どうかその鼓動が聞こえませんように、と切に願いながら背筋を伸ばしてピンと立つ。

相澤は零に心配をかけられた腹癒せに、少しだけいつもと違う意地の悪い返しをしただけのつもりだった。しかし、ぎゅっと目を閉じて硬直している零のあまりにも可愛らしい行動に、自然と笑みが零れる。

さて、どうしたものか。
相澤は次の一手を考えながら零をじっと見つめていると、ふと彼女の姿に違和感を覚え、一箇所に目を留めた。

「…おい零。それ、どうした?」

『…え、ど、どれですか?』

零は恐る恐る目を開けては、相澤の視線の先へと顔を向ける。
すると腰にさした刀の下げ緒の色が、白から紺に変わっているのに気がついた。

「お前、今日出かける時まではいつもの白だっただろ。なんで色が変わってる?」

『……』

零はその質問に答えることなく、腰の刀を手に取り、大切そうに両手で持ち抱える。

何度も瞬きをしながらじっと見つめる彼女の頭の中で、走馬灯のように誰かの声が駆け巡った。

ー“朧さんに持っていてほしいんです”

ー“ とても綺麗な白ですね。なんだか使うのが勿体ないくらいです”

ー“ これで、何があっても私たちは友人でいられますね”

ー“ 朧さん! 私、ーーっていうんです!!”

叫ぶように教えてくれた名前も…その姿すらぼんやりとしか思い出せない。
ただ、頭の中で無意識に流れたその凛とした通る声がどうしても大切で、かけがえのない人のものだという事だけは理解する。なにか大切な事を忘れてしまった零は、無意識にポロポロと涙を零し始めた。

「お、おい…」

相澤は零の涙に酷く弱い。
下げ緒の色が変わった事にどれだけ深い事情があったのか見当もつかない相澤は、どう声を掛けていいか必死に言葉を探す。

しかしその瞬間、今まで見てきたどの表情よりも自然で、嬉しそうに微笑む零を目の当たりにした。

「……っ、」

弧を描く金の瞳は、誰かを思いやる優しい眼差しで。
口元の笑みは、その相手に好意があるように思えるほど、艶がある。
そんな零の表情に、相澤は密かに息を呑んだ。

『なんだろう…殆ど思い出せないのに、箱の中ですり変わったこの下げ緒を見るだけで、凄く心がポカポカするんです。これ、とても大切な人に貰った気がします。……私、この下げ緒、一生大事にしようと思います。』

「…………そうか。」

それ以上に返せる言葉が見つからなかった相澤は、くしゃりと自身の髪を掴んでは、零の優しい笑顔につられて笑った。

“帰るぞ”と背中を向けられた相澤に、零は慌てて刀を腰にさし直し、先に歩き始めた相澤の背中を追いかける。

暫く肩を歩いて並べては、ふと相澤が彼女に訊ねた。

「…それを授けた相手、まさか男じゃないだろうな。」

零はポカンと口を開けて隣の彼を見つめては、くすっと小さく笑って、わざと“さぁ?”と答える。

相澤は途端に面白くなくなり、ムスッと膨れた顔をしては不機嫌そうな声で、更に促した。

「おい、思い出せ。何が何でも思い出せ。」

『無理ですよ。もう忘れちゃいましたし。』

今度はそれから逃げるように走り出す零の後を、相澤が追いかける。再び隣を歩く中、零はまた突然、なんの突拍子もない話題を持ち出した。

『…ねぇ、消太さん。そういえば、消太さんってこの世に二人存在してるんですか?箱の中で助けて貰ったあの瞬間、全く同じ気配を二つ感じた気がしたんですよ…』

「……はぁ?何また訳の分からない事言ってる。…仮にもし俺が二人いたら、もう一人の俺にも面倒を見て欲しいくらいだ。」

相澤はいつものように呆れた様子で彼女を見つめる。彼女は目線を上にあげながら、“…そうですよね。”と独り言を零し、ぼんやりとした記憶を思い出しては、もう一度微笑んだ。


この日を境に、零はその紺の下げ緒を見る度、柔らかで自然な笑顔を浮かべられるようになったという。



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