平穏な休日
零が告げた噴水のあるフロアまでかかることおよそ五分。
ようやくその場所が見え、速度を落として歩み寄ると、早くも零の姿が視界に映った。
しかし彼女は随分困った表情で、目の前に立ち塞がる男らしく三人組と向き合っていたのだ。
『あの、ですから私ここで人と待ち合わせしてて……』
「いやいや、だからそんな相手の気配全然ないじゃん?」
「見栄張っちゃって、可愛いねぇ。」
「ま、そんな事はいいからさ。俺らと一緒に行こうぜ、お姉さん。」
微かに聞き取れる会話からして、自分を不安げに待っていた零の隙をついて、男達が絡み始めたのだろう。
半ば強引に彼女の腕を掴み、その場から連行しようと動き出す男たちを前に、大きくため息を吐き出した。
よりにもよってアイツをナンパしたのが運の尽きだ。
一見その容姿も完璧、控えめな性格にもとれる彼女は実際、とてもじゃないがそこらの男が適うような相手ではない。
どのみち今あの場に行っても、自分はお役御免。
今に返り討ちにされる男どもを拝もうと、少し様子を見るために足を止めた。
『……ッ、離してください!私は……!』
「あぁもう、くどい女だなぁ。」
「まぁいいじゃん。早く行こうよ。」
『ちょっ……、』
「……?」
どういう訳か、普段なら自分さえ一捻りしかねない零が、奴らの意のままに身体を引きずられていくかのようにその場から連れていかれそうになっている。
「あいつ、なんで……」
ーーなんで抵抗しない?
隠密ヒーローは表の世界で目立ってはいけないからか?
いや、零の実力はよく知っているし、あんな連中から逃れる程度の攻撃、人目につかぬようとるくらい容易い行為だろう。
しかしどれだけ様子を伺っていても、彼女がその腕から逃れる様子はない。
そしてとうとうこの人混みの中で、消えそうな程弱々しい声を上げたのだ。
『……ッ、消太さんッ!!』
「……ッ!」
全身が震えるような感覚になった。
彼女が名を呼ぶ声が、一瞬にして周囲の騒音をかき消したような気さえした。
面倒事は嫌いだ。
人の視線を浴びるのも苦手で、こういうThe ヒーローっぽい行為は正直できればやりたくない。
それでもなぜかその時、気づけば足は勝手に動いて零の元へと歩み寄り、彼女の腕を強く掴んでいる男の腕を掴み返した。
「なっ……!」
男は突然掴まれた感触に振り返り、ぎょっと目を見開ける。
零を背後に回すように前に立ち、奴に地を這うような低い声でこう言った。
「悪いな、コイツ俺の連れなんだ。離してやってくれ。」
「……ッ、」
『消太、さん……?』
「なっ、なんだよお前!」
「お前らこそなんだ。こっちは迷子になったコイツを必死で探してたんだ。そう易々とまた別の場所に連れてかれちゃたまらん。探す俺の身にもなって貰いたいもんだな。」
「はぁ?!こいつ何言って……!」
何故だろう。彼女が助けを呼ぶような声を耳にしてから、珍しく心の底から沸騰するような苛立ちが全身を覆っているような感覚だ。
未だ反抗する奴らにもう一度鋭い視線と、掴んだ腕の力を強めた。
「いっ、……!」
男の筋肉はこちらの腕力で軋む音を出し、表情は徐々に青ざめていく。
痛みに耐えきれず、ようやく彼女の腕から手を離したところで、自分も素早く解いた。
「な、なんだこいつッ……!」
「お前らみたいなクソ野郎にコイツは扱えん。他所を当たれ。」
もう一度奴らにそう告げると、周囲にいた客が騒ぎを聞きつけ、野次馬のようにその場に集まり始めた。
すると連中はようやく諦めが着いたのか、大きな舌打ちや悪態をついて、その場から全速力で姿を消して行った。
「はぁ……。全く、お前はなんで早々トラブルに巻き込まれ…、…ッ?!」
大きく肩で息を吐きながら彼女の方に身体を向けると、なぜか今にも泣き出しそうな零の俯いた顔が映った。
「ちょっ……お前、どうした、なんでそんな泣きそうなんだ……」
『お、怒ってますよね…ごっ、ごめんなさい……私、また消太さんに迷惑かけて……』
「は?いやそれはアイツらを追っ払うために多少演技はしてたが…」
彼女の予想外の状況に頭が回らず、上手く言葉が出てこない。
どうしたものかと後頭部をかいていると、微かに身体を震えさせた彼女が再び声を上げた。
『わ、私…こういう所普通に来たことないし、一般人にどう対処していいのか分からないから…もし捻り潰してもし騒ぎになったらと思ったら、なんかいつもみたいに体動かなくて…』
「捻り潰してって、お前な……」
か弱い様子でパンチのあるボキャブラリーに思わず呆れた表情をうかべる。
しかし、やっと分かった。先程彼女がなぜ自分で対処しなかったのか。
零がここ最近、あまりにも自然に自分のいる世界に溶け込んでいるように見えるせいで、すっかり忘れてしまっていた。
この子はまだ、“普通”を知らない。
山から出て生活を送るこの環境においては、彼女はまだ赤子同然だ。
当然どう対処していいのかも分からないし、何が正解なのかも不安なのだろう。
ーー今日一日、お前は闘うことなんて忘れてとにかく楽しめ。
ここに来る前に彼女に行った言葉がふと頭に浮かんだ。
そして同時に悟った。
あぁ…彼女をこんな風にしてしまったのは、他でもない俺自身だ、と。
「…悪かったな、零。嫌な思いさせた。」
『……え?』
俯く零の頭に、優しく手のひらを乗せる。
少しだけ自分に怯えているようにも見えた彼女が、何だか妙に愛らしくさえ思えてきて、口元が緩んだ。
「そもそもここに来る前、お前に偉そうなこと言ったのは俺だ。なら当然、俺がお前を守るのが筋だし、お前がとった行動は何も間違っちゃいねぇよ。」
『……でも、』
「それに、お前ともう何年関わってきてると思ってるんだ。別に俺は、お前が俺に何しようと何されようと、今までもこの先も、迷惑だと思うことなんて一つもない。」
『消太さん……』
「だからお前が気にすることなんて、何も無いんだ。……ま、むしろ迷惑くらいかけてくれた方が俺も少しは気が休まるかもしれんしな。」
『え?』
「……いや、何でもない。」
思わぬ独り言に、慌てて口を塞いだ。
迷惑をかけてくれるうちは、彼女の中の圏内に入っていられるだろうから……なんて女々しい発言を、いい大人のどの口が出せるものか。
必死にその感情をもみ消しては、再び零の頭を優しく撫でて、彼女の前に手を差し出した。
「ほら、行くぞ。時間は有限だ。せっかくここまで来たんだから、満足するまで回らないとな。」
『……ッ、はい。消太さん。ありがとうございます。』
その手を取った零は、頬を赤らめて酷く嬉しそうに笑顔を浮かべ、そう返事をしたのだった。