背中
小刻みに揺れる眠気を誘うような心地いい振動。
全身が包み込まれるような温かい体温。
酷く落ち着く懐かしい香りがした。
零はゆっくりと目を開けて、虚ろな目に映る酷く見覚えのある後ろ姿にはっと我に返り、驚きの声を上げた。
『えっ、消太さん?!』
「……ん?目が覚めたか。」
前方には、チラリとこちらを横目で見る相澤の姿。
普段は見上げなければ届かない身長差のはずが、今日は彼より頭一つ分上にある目線。
最後に記憶があったのは、確かエンデヴァーにたらふく昼食をご馳走になった後、飛行機に乗ったあたりまでだ。
不思議に思う零の頭の中を察したのか、相澤は今に至るための経緯を簡単に説明した。
どうやら飛行機の中で眠りについてしまった後、こっちに到着してエンデヴァーが何度起こそうとしても起きなかったらしい。
そんな自分に困り果てた後、彼は仕方なしに相澤に連絡をとって、迎えに来てもらうよう頼んだということだった。
ちなみになぜおんぶされて帰っているのか尋ねてみれば、“ただでさえ疲れて乗り物酔いにあった後に、また苦手乗り物を利用するのは気が引ける”という配慮と、“せっかく眠っているのにあまり起こしたくない。”という考えがが浮かんだからだそうだ。
零はそこまで気を遣ってくれる相澤の優しさを身に染みながらも、同時に申し訳なさでいっぱいになった。
『あ、あの…!もう目も覚めたので降ろしていいですよ?』
しかし彼はそれを聞いて前に目線を戻しながら、足を止めることなく拒んだ。
「いや、このままでいい。」
『いや、でも……』
「前にも言ったが、別に俺はお前を重いなんて思わん。それに……」
『それに?』
「……もう少しこのまま、“お前が生きてる”って証を、直に感じてたいからな。」
『……っ、』
零は自分の顔が耳まで熱をともすのを感じた。なんて返したら分からないこの状況に狼狽えていると、そんな彼女の心境を他所に、相澤は再び静かに口を開いた。
「正直あのテレビ中継を見た時、サッと血の気が引いて行ったよ…。何度電話をかけても繋がらないし、お前の性格の事だ。十中八九あの人のサポートに回ってると思ってな…」
少しだけ、彼の声が寂しそうに感じた。
ポツポツと漏らすその言葉に、零は困惑の表情を浮かべる。
「しかもやっと連絡が着いたかと思えば、個性の使いすぎで発作が起きたから、“リカバリーガールに薬を渡して欲しい”っていう要件だけ伝えて切るしな。…全く、俺がどんな心境だったかも知らないで。」
『ご、ごめんなさい……』
「…エンデヴァーさんからいろいろ聞いたよ。お前、人命救助に回ったらしいな。」
『……はい。』
情けない声で短く返事をする。
しかし相澤は後方にある零の落ち込んだ様子を横目で見て、ふっと小さく笑みを浮かべた。
「零は自分の口から、事情をあまり話さない。実際連絡を貰った時は、なんで個性を使いすぎたのかも分からなかったから、俺はてっきり敵との交戦でお前も前線に立ってると思ってたんだが…。まさか隠密ヒーローのお前が、率先して人命救助に回るとは意外だったよ。」
『それは…、あくまでも隠密ヒーローという立場を弁えて、あまり敵と接触しないよう、人命救助のサポートに回っただけです。』
「まぁ実際その考えは正しかったと思う。零の個性を連中に知られると何かとリスクを伴うからな。」
彼の言うことは正しかったし、自分でもそう思う。
ただ結果として、人々を助けて自分が倒れるようでは、何も良かったとは言えないのではないかとさえ考える部分があった。
相澤は難しそうな顔をしている零を横目で見ては、今回の件で彼女が何かと変化をもたらしていることを悟る。
この華奢な身体と精神は、任務遂行のためにただ目的だけを果たす行動をとれる訓練を叩きつけられてきた。
しかし今回零はあの土壇場で、自分がなにか他にできることは無いか?という考えを持ち、慣れない人命救助へと回った。
“人を助けたい”と露骨に現れ始めた彼女の感情に、相澤は嬉しさを感じられずにはいられなかったのだ。
最初は確かに、また無茶ばかりした零に怒鳴りつけてやろうとも考えたが、今回ばかりはそんな表面的な言葉を吐いてはやりたくなかった。
だからこそ、いつもより優しい声を意識してこう呟いた。
「…慣れない人命救助だったはずなのに、死者は0。ホークスの協力があったとはいえ、お前自身が自ら考えて行動をとった、初めての“ヒーロー”としての結果だ。
……よく頑張ったな、零。」
『……っ、』
零はそのたった一言が、頭の中を駆け回るように強く響いた。
“零が傷ついたのは俺のせいだ。”と自身を責め立てていたエンデヴァー達からは聞けなかった。
涙腺が緩み、視界が揺れる。
ーーずっと言われたかった言葉。
人の命を犠牲して任務を遂行してきた自分は、例え成果を上げたとしても褒められていいものでは無いと思っていた。
初めて行った人命救助。
不安と緊張感が募る中、必死になって…がむしゃらになって駆け回った。
そして初めて、“ヒーロー”と呼ばれるに相応しい行動を取り、その行為を認めて貰えたような気がした。
『消太さっ……、』
気づけば堪えていた涙が意志とは関係なく溢れ出てきた。
相澤は振り返って大粒の涙を零す零の顔を見ては、ははっと小さく笑った。
「…なんだ、最近涙脆くなったな。もしかしてあれか。今まで泣かなかった分、急に涙腺が弱くなったとかか?」
『ち、ちがいますよ!…消太さんが、珍しく優しすぎる事言うから……!』
「珍しくって、お前な…。ていうか、俺のせいにするな。」
相澤は素っ気ない言葉を返したが、心の中では彼女がこうして感情を露骨に出してくれることに、密かに嬉しさを感じていた。
そして同時に、このどうしようも無い手のかかる零を、改めて支え続けてやりたいと思った。
暫く沈黙が続く中、零はようやく落ち着いた涙を拭って、目の前にある大きな背中を改めて見つめた。
着痩せしてはいるが、こうして触れるとわかる鍛え上げた逞しい体つき。
そばに居て欲しいと思った時や心細い時は、こうしてさり気なく支えてくれるような優しさ。
子供の頃から見ていたそれを物語る大きな背中が、今はとても身近にさえ感じる。
零は起こしていた身体をピタリと相澤の背中にくっ付け、目を閉じて彼の温かさをもう一度直に感じた。
「……零?」
相澤は彼女のとった行動を不思議に思い、その名を呼ぶ。
すると零は、耳元で小さな声でこう囁いた。
『私にとって何よりも安心できるのは……たぶん、この消太さんの背中だけです。』
相澤はその衝撃な発言に一瞬足を止めてしまいそうになりつつも、“そうか”と静かに零した。
彼女はきっと知らないだろう。
たったその一言が、どれだけ心をかき乱すほど嬉しいと感させる言葉だという事を。
相澤は何も語らぬまま、彼女に見えないように静かに口角を上げ、足を動かし続けた。
そして零は彼の背中に安心して、再び疲れた体を癒すため、深い眠りにつくのだった。