朧月


彼女が雄英高校の警護という任務を承諾してから数日後。

相澤は職員全員と生徒たちに顔を合わせるため、朝から彼女と校門前で合流した。

こちらへ歩いてくる姿勢のいい姿は先日の着流しとは違い、今日はしっかりとヒーローコスチュームを着用していて、その上には腕を通さず羽織を肩にかけていた。
彼女のヒーロー姿の特徴でもある狐の仮面を被っていたら、今この場に現れたことに間違いなく驚く人物はいるだろう。

しかし……。

「…お前、こんな時期にそんなに着込んで暑くないのか。」

『消太さんこそ、この真夏の時期に黒の長袖じゃないですか。人の事言えませんよ。』

不覚にもその通りだ、と納得してしまい口を尖らせる。
零はクスリと笑って、目の前にある校舎の方に目を向けた。

『なんか…高校に転校してきた生徒みたいですね。』

「生徒感覚になってどうする。お前がこの学校で学べる事はもう何もないだろ。」

『そんな事ないですよ。』

「せいぜい人とコミュニケーションをとれるようにするくらいだろ。ほら、時間がない。さっさと行くぞ。」

『はい、消…』

「…?」

背を向けて歩き始めようとした瞬間、彼女の声は不自然にそこで止まる。
くるりと振り返ると、しばらく何かを考えたようにしていた零は、ふっとこちらを見上げて微かに笑みを浮かべた。

『よろしくお願いします、“相澤先生”。』

ド肝を抜かれるその一言に目を見開き、数秒間硬直した。
最初の頃は何度やめろと言っても消太さん≠ニ呼んできた零が。
雄英高校の敷地内に一歩踏み込んだところで立場を理解したのか、あれだけ嫌がっていた名字で呼んだ事に、衝撃を受けた。

それと同時に、もう以前のように愛らしい子供のような表情では呼んでもらえないという事実に、少しばかり寂しさを感じた。

そんな女々しい感情を悟られないようにポーカーフェイスを保ちつつ、複雑な心境のまま職員室へと向かい、彼女の紹介を行ったのであった。

ーーー

職員室での教師たちへの初対面の挨拶は、存外スムーズなものだった。
仕事上で何度か顔を合わせた事があるのか、迎える側も歓迎している姿勢を見せ、少し強張っていた彼女の表情も和らいだような気がした。

そのままの流れで1-Aの教室の前へと行くと、彼女は一度足を止めた。

「…どうした?」

『いえ…相澤先生からしたら、歳の離れた生徒たちですが、私はさほど変わりませんし、教師でもない。実際どんな顔であいさつしたらいいのか、ふと考えてしまって。』

「副担任って考えておけばいいだろ。」

『副担任?!それじゃ教師として一緒じゃないですか!私にはそんな重役…』

「じゃあ、俺のサポート係として来たっていう単純な内容でいいだろ。第一、今お前が言った通り歳はそこまで違わないんだ。そこまでかしこまるような相手じゃない。」

『でも…』

どうやら酷く緊張しているようだ。
零は目線を下げ、ぎゅっと静かに拳を握る。
彼女は山育ちで、あまり人と交流していないせいか全くもって擦れていない。
こういう純粋で真面目な気持ちが貴重に思いつつも、今はそんな事を言っている場合でもない。

「腹をくくれ、零。」

そう放った一言に、彼女はすっと顔を上げ小さく頷いた。

タイミングよく、ホームルームのチャイムが鳴る。
未だ不安げな表情を浮かべている彼女の頭に軽く手を乗せ、いくぞ。と呟いてから進み始めた。

その一言が、どれだけ優しさを伝えていたのかは分からないが、言った張本人が驚くほど穏やかで、温かみがあったような気がした。



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