朧月


服部零は身支度を整えて、家を後にした。
もうすぐこの長い間生活を送ってきた屋敷とも離れるとなると、少しばかり寂しささえも感じる。
しかし、自分が産まれ育ったこの場所を…恐怖でしかなかったこの場所を、こんな風に思えるようにさせてくれたのは、間違いなく相澤だ。

零は彼と出会った当初の事をにわかに思い出しては小さく笑い、山を降りて行った。


ーーーー


ヒーロー活動の時以外には滅多に訪れない街中の、ある喫茶店にて待ち合わせをしていた。
店内に入るとすぐに手をあげて、こっちだよ。と言う彼の姿を見て、安堵の笑みをこぼした。

何年も顔を合わせていない根津は相変わらず可愛らしく、手前にあるティーカップと合わせてみると、本当に鼠の人形なのではないかと思える程、不思議な光景だ。

「やぁ、久しぶりだね。零くん。」

『お久しぶりです。根津さん。お忙しいのにわざわざ時間を作って頂いてすみません。』

向かいの席に腰を下ろし、すぐさまやってきた店員に珈琲を注文する。
根津はそれが去っていったあと、こちらを見つめて陽気な声で話し始めた。

「そんな事は気にしなくていい。それより相澤先生から聞いた時は驚いたよ。まさか、三つ条件を出すうちの一つに、僕と一度二人で話がしたい。なんて条件をつけてきたんだから。」

彼の言葉に、苦笑いを浮かべる。
先日相澤が雄英高校の護衛任務の依頼をしに訪ねてきた時、彼に言い渡した条件の三つはこうだった。

一つは、自分も守るべき対象である1-Aと同じ寮にする事。
二つ目は、プロヒーローとして独自に依頼された任務があった場合は、そちらの活動を優先させる事。
そして三つ目が、今向かいに座る根津、雄英高校を束ねる者との対話がしたい。
という条件だ。

「君が出した三つの条件には、私は必ず理由があると思っている。もし可能ならば、私と話すという条件だけでなく、三つの条件を出した理由をそれぞれ教えてはくれないかい?」

ただの好奇心だけどね。と付け足した彼に、小さく肩をすくめる。
根津とは相澤よりも後に接点があり、何度か雄英高校で講師のサポートとして来ないか、という勧誘を受けていた事があった。
もちろんすべて断ってきたのは、自分が誰かに何かを教えられるとは、到底思えないからである。

その時から思ってはいたが、彼は自分を過大評価していると思う。
“ハイスペック”の個性を持つ彼ならば、三つの条件の意味を薄々感じているような気さえするのだが…。
と考えつつも、彼からの要望を快く受け入れた。

『一つ目の、1-Aと同じ寮にする。という点については、守るべき対象がどんなものかを自分の目と感覚で理解するためです。コミュニケーションをとる、というのとはまた違いますが…この目で見て、何を守らなければいけないのか、常に視界に入れておきたいという理由です。』

「ほぅほぅ。君らしい考えだ。ちなみに二つ目の条件は、私はもともとそのつもりだけれど、敢えて聞かせてほしい。君が今、自身に来るヒーローの仕事について、どのように思っているのか、を。」

『…ご存じの通り、私に依頼がくる仕事は、私の個性ならではのものが多い。それゆえに、今は代用がきかない。と言っても、他のプロヒーローの方々と違い、そんな隠密活動など滅多に来ないわけですけど。』

「そんな事ないさ。君の活躍っぷりは私もよく知っているからね。それに……我が校の先生方は知らないだろうが、今回の件は君が動いてくれなければ、あんなにも早く誘拐された生徒を救出にはいけなかっただろう。これは君が普段からいかなる難儀な任務でも成功させて、密かにこの国の平和を守っている証拠さ。」

彼の言葉にどう返していいかわからぬまま、情けなく笑みを浮かべる。
目立ってなんぼ、名を売ってなんぼのヒーローたちとは少し違う立ち位置にいる自分にとって、有名になるような事はそうない。
なぜなら自分のヒーローとしての存在が公に広がれば広がるほど、仕事がしにくくなる。と断言できるほど、極秘捜査や隠密活動に携わっている事が圧倒的に多いからだ。

『そして三つ目ですが。今回は根津さんに、あるお願いとどうしても話しておかなければならない事があって、お時間を作って頂きました。』

「…ふむふむ。聞かせてくれよ。君がうちの高校を守ってくれるというなら、ある程度の要望は飲み込むつもりでいるよ。」

優しくそう言ってくれる彼に、敬服する。
ここから先の話は、ヒーローとしての話ではない。一個人として彼にお願いをする事になる話だ。

零は珈琲を喉に流し込み、一息ついてから本題へと入った。

『根津さん。これはまだ確信を得た話ではないですが…私にはあまりもう、時間がないのかもしれません。』

そう始めた話の内容を、彼は最後まで驚いた表情で黙ったまま聞き続けてくれたのであった。


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