「…零ッ!!」

『…消太、さん…?』

どうして彼がこの場にいるのだろう。
驚くあまり気を取られているも、身体は降下し続けた。そんな自分に彼は無我夢中で駆け寄り、地面に落ちるギリギリの位置で見事なまでに体を抱きかかえた。

「あ…ぶね…」

相当切羽詰まった様子が、無意識のうちに零れた彼の声色と表情から容易に窺えた。

『ど…どうして、消太さんがここに…?』

「たまたまだ。…今日一日中都内を探し回ってた。そしたら偶然にもお前がいきなり空から落ちてくるから…全く、昔から俺をハラハラさせる天才だな。」

彼はいつものようにじとりと細い目を向けて皮肉を零す。しかしどうしても今、彼の腕の中に抱かれているこの状況がなかなか受け入れられず、呆然と彼を見つめた。

「…零?」

もう一度彼の声で名を呼ばれて、ハッと我に返る。

『も、もう大丈夫です…!おろしてください!』

「…あ、あぁ。すまん…」

突然目の前に現れた事に酷く動揺したせいで、咄嗟に強い口調でそんな返し方をしてしまった。

本当なら、“助けてくださってありがとうございます。”と言うべき場面のはずなのに、どうしてもその言葉が声に出せない。

昨日ホークスに話を聞いてもらって、彼と話し合わなければいけないという事を頭では理解していても、いざ目の前に現れるとどう話していいのかすら、混乱してわからなくなる。
今にも逃げ出したくなるこの現状に、冷や汗が頬を伝った。

そんな複雑な想いが絡まる中、彼は一度足を地に下ろした後、物凄い速さと力で腕を掴み上げた。

『なっ、何す…!』

「離したらお前、また俺から逃げるだろ。」

『…』

見事なまでに先手を打たれ、ぐうの音も出ず、せめてもの抵抗で彼の目から視線を逸らした。

「俺はお前と昨日のこと、もう一度ちゃんと話したい。」

凛とした声に、視線が無意識に戻された。
曇りのない真っ直ぐな瞳。普段なら面倒事を嫌がるような人なのに、そんな気配すら感じず、まるで別人のような顔つきをしていた。

不謹慎にもその顔に見とれて、直視出来なくなって再び目を逸らす。
そしてその場しのぎの言葉を、思わずこぼしてしまった。

『わ、忘れてくれって言ったじゃないですか…』

「……あぁ、言った。」

『魔が差しただけで、間違いだって言ったじゃないですか…』

「……あぁ、確かに言ったな。」

『言ってること、滅茶苦茶じゃないですか…』

「……全く、お前の言う通りだよ。」

違う。全然違う。
本当はこんな事が言いたかったんじゃない。
そう頭では理解しているのにいざ目の前に彼がいると、本当の気持ちすら声に出せなくなる。

声は震え、気を緩めれば今にも泣き出しそうだ。
こんな弱い自分の一面があったことにすら初めて気づき、同時に情けなくも思った。
しかし彼は一切責めることなく、まるで全ては自分が元凶だと言わんばかりの悲しげな声で、静かに話した。

「…悪かったな。いろいろ考えさせて、嫌な思いをさせたと思う。今回ばかりは、俺がお前への配慮が足りなかった。」

『……っ、』

「情けないとも思ったよ。俺自身の欲を抑え込めなかった事に。でも零が俺の事をどう考えてるのか考えても、正直全く検討もつかん。こういう時、お前の個性が俺にもあったらな…って思うよ。」

顔彼の静かな物言いと声色は、自身を情けなく思う気持ちが徐に出ていた。
何か言葉を返さなければ…と思うのに、ただ彼の言葉を聞くので精一杯で、何も口に出せなかった。

そして相澤はしばらく様子を見た後、今度は強い意志を感じる力強い声でこう言った。

「だが、俺は決めた。昨日はさすがに気が動転して、咄嗟に無かったことにしようとしたが…お前に俺の気持ちが伝わった以上、それを取り消すつもりはない。ましてや、今は後悔もしてない。」

『……えっ、』

彼の言葉に、もう一度顔を上げた。
サッと冷たい風が吹き、靡いた髪が相澤を映す視界を遮る。
片手でかきあげて視界を開けた瞬間、目が合った彼の瞳に吸い込まれそうになった。

「俺はもう、例えお前からどんな返事をされようとも、例え一方通行だとしても、お前のそばに居る限り、今まで通り気持ちを抑える事なんて器用なことはできない。…勝手で悪いな。」

『なっ、……』

「だがせめてお前が今、俺をどう思ってるかくらいは知りたい。また一人で考え込んで、俺の元から急にいなくなるのだけは勘弁して欲しいしな。」

『……私は、』

圧倒されるほど真っ直ぐな心に、どう答えていいのか悩んだ。
本当は、どうあっても彼の気持ちに応えてはならない。
しかし、彼がありのままの気持ちを伝えてくれているというのに、それから逃げるのが本当に最善なのだろうか。
ずっと昔から傍に寄り添い、色んなことを教えてくれて、どれだけ優しくしてくれたかも数えきれないこの人に、向き合わなくていいのだろうか。

心に迷いのある中、ふと彼の優しい笑顔を目の当たりにした。
今までと同じ、どんな自分でも受け入れてくれるような、いつもの優しい目をしていた。

ーーあぁ、なんでずっと気づかなかったんだろう。
この人は、今も昔も変わってなんかいなかった…。ずっと、同じ目で見守ってきてくれたんだ。

そう思うと自然と心が穏やかになり、ようやく自分の気持ちを吐き出すように、声が零れ始めた。

『…隠密ヒーローという立場は、必要以上には人を馴れ合うことをできるだけ避け、邪魔になる感情は排除しなければならない…。それは、重要な任務につけばつくほど足枷になりがちで、判断力が鈍ると言われているからです。』

「…あぁ、言ってたな。」

『なによりも、私が誰かを大切に思う気持を敵に悟られれば、その人を危険な目に巻き込むかもしれない。そんな状況だけは、作りたくない。だから本来ならば、感情を持つことすら許されない存在なんです。』

「……」

その言葉は、彼に笑顔を教えられる前からよく口にしていたものだった。

そもそも自分のような幼子が隠密ヒーローとして認められたのは、元々そういう感情が欠けていたという点を見込まれていた部分もあっての採用だった。

隠密ヒーローは、他人に執着してはならない。誰かを特別に思う事はできない。
なぜなら、いつ誰を欺いて調査するかも分からない立場であり、いつ裏切る行為を働かなければならないか分からないからだ。
そして同時に、自分の弱みとして敵に付け込まれ、危険な目に合わせてしまう場合だってある。
自分の身勝手な行動でそんな危険な事に巻き込ませてしまうのは、誰がなんと言おうと嫌だった。

しかし彼はこの言葉を口にする度、声に出さなくとも“なんでそんな事言うんだ”と言いたげな、悲しい顔をする。

今も昔と変わらぬ彼の表情を前に、自然と笑みが浮かんだ。

『…でも、ある人に言われました。お前は隠密ヒーローである前に、一人の女だと。だから、今この一瞬だけは、“一人の女”として、素直にあなたに応えます。』

ずっと押し殺してきた感情。
認めてはいけないと思って、本心から逃げるように必死に自分に言い聞かせてきた。
本当はこんな気持ちを人に言える立場でもないことは分かっていても、今この一瞬だけはどうしても、服部零のありのままでいたいと思った。

『私は誰よりも消太さんが大切で、叶うのならどんな形でもいいから、ずっとそばにいたい…傍で生き続けたい。…私も、消太さんが好きです。』

「……ッ、」

いつもと変わらぬ“好き”という単語は、今までの中で一番気持ちを込めて声に出した。
彼はとても驚いた様子で目を見張っていたが、この気持ちは届いたのだろうか。
口には出さなくとも、一人の男として好きだという気持ちは、しっかりと彼に伝わっただろうか。

そんな事を頭で考える中、不思議といつもより幸せを感じているような気さえした。
自分の気持ちを言葉に乗せて伝えることは、こんなにも素敵なことなんだと、初めて知った。

でも、でも今はまだ……。

『…けれど、ごめんなさい。これ以上の気持ちはまだ、言えません。口にしてしまったらたぶん、私は“朧”でなくなってしまう…。ただ、あなたのした事も…不意打ちで聞いてしまった本心も…本当は凄く嬉しかった。だから忘れろって言われても、もう忘れることなんて出来ません…。私の方こそ勝手でごめんなさい、消太さん。』

「…いや、それが聞けただけでも十分だ、零。」

本当は嬉しかった。
好きだと言ってくれて。こんな私を、愛してくれて。
そんな感情を抱きながら言ったら、彼はくしゃりと顔を崩して笑った。

『…いつになるかは分からないけれど、いつか私自身の気持ちと向き合えるようになる日が来たら、その時は今のような曖昧じゃなくて、ちゃんと伝えます。もちろん待っててとは言いませんし、他に…』

「待ってる。」

『……や、まだ最後まで言ってないんですけど…』

「うるさいな、どうせその先はろくな事じゃないだろう。そもそも俺が待ってるって言ってるんだ。っていうか待たせろ。今までどれだけ我慢してきたと思ってる。待つくらい許せ。」

不機嫌そうな顔をして半ば強引に詰め寄る彼は、頑なに譲ろうとはしなかった。
なんだかその様子が、まるでムキになった子供のように見えて、思わずふっと笑みを浮かべてしまった。

『…長期戦になっても、知らないですよ?』

「そもそも既に長期戦だろ。延長戦に持ち込まれただけだ。…まぁ、俺は負ける気ないからな。」

彼も負けじと、ニヤリと得意げな笑顔を向けた。

「正直…お前が俺の気持ちをただ迷惑だって捉えてるんなら、俺もさすがに身を引くつもりだった。でもそうじゃないんなら、もうこれからは遠慮はしない。俺だって元々紳士面するのは得意じゃないんだ。覚悟しとけよ。」

『…ほんと、強情ですね。消太さんは。』

「ほっとけ。こんだけ粘り強く挑まさせざるを得なくしてんのは、他でもないお前だろーが。」

『人のせいにしないでくださいよ…私だって、いろいろいっぱいいっぱいなんですから…』

ムスッと不貞腐れた顔を浮かべて互いが睨み合うこと数秒後、ようやくいつものような居心地のいい雰囲気に、二人とも同時に笑みを浮かべた。

「素直に話してくれてありがとう、零。」

『いえ…私の方こそありがとうございます。』

「…帰るか。」

彼は少し照れくさそうに頬を掻きながら、優しく手を差し伸べた。
当たり前のように差し出すその大きな手に自然と頬が緩みつつも、そっと手のひらを重ねて二人で歩み始めたのだった。



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