朧月


庭にある小さな池に置かれたししおどしが、定期的にカコン、という音を立てる。
この大きな屋敷を一人で住んでいるにもかかわらず、敷地内に広渡る流砂も、相変わらず立派なものだ。

相澤は彼女がお茶を用意する間、居間の縁側から眺められる景色を見ては、ここがいつもと変わらぬことに安堵する。

街とは違い、ここは本当にのどかな場所だ。
敵が争いを引き起こしている景色も見えなければ、人の話し声や他所の物音、車が行き交う音すら聞こえない。

聞こえてくるのは自然にあふれるものばかりで、ここに来る度に、時間の流れを忘れ、都会の毒を浄化されているような気分にさえなりそうなほど、澄んだ空気だった。

『消太さん、お茶の準備できましたよ。』

「ん?あぁ。」

突然する彼女の声に動じなくなったのは、いつからだったろうか。
無意識に気配を消し、足音すら立たせない現れ方は彼女が幼い頃、この家に産まれたが故に身に付けさせられた、という。
ひとまず姿勢を正し、一言礼を言って差し出されたお茶に口をつけながらも、彼女をじっと見つめた。

肩につかないウェーブのかかった真っ白の髪。
その色に反した紺色の着流しは、より一層その髪の色を引き立てる。
これが元々は黒髪だった、と聞かされた時には心底驚かされたものだ。
自身の精神的ストレスにより色を変えたその髪が、彼女の生きてきた人生が、いかに過酷なものだったかを物語っている。

彼女が歩んできた世界は、自分たちが生きてきた“普通”とは程遠く、正直この社会を恨み敵となってもおかしくはない程、残酷なものだった。口にしたことは無いが、彼女の過去の話は何度聞いても胸を締め付けられる思いにすらなる。

しかしそれでも彼女はなお、個性を人々のために使わんとして、ヒーローという道を生きている。
それは彼女自身の心が強く、そして多くの痛みを知っているからこそある、優しさだという事も理解している。

『…それで、仕事の話っていうのは?』

「そうだな。お前がどこまでウチの事情を把握しているかわからんから、簡潔に経緯を説明するところから始めよう。」

そう切り出し、雄英高校にて起きた敵連合との最初の接触、USJ襲撃事件と林間合宿で起きたことを説明した。

彼女のヒーローとしての立場は、多くの情報を秘密裏に動いて得るものだ。それは決して口には出せない事ばかりだが雄英のある程度の現状も既に知っていたのか、動じることなく相槌を打っていた。

ちなみにここに、情報を得る術はない。
今の時代どこの家庭にも置かれているはずのテレビやパソコンもなければ、本人が携帯電話すら所持していないほどだ。

しかし万が一今しがた初めて耳にしたとなれば、本当に肝が据わってる奴だ。と感心させられつつも、話を本題へと導いた。

「ーーよって、雄英高校の生徒たちを全寮制にし、校内のセキュリティを強化するために。そして俺の受け持つ生徒をより安全な環境で育てていくために、お前の力を借りたい。」

『…』

向かいに座る彼女の表情は、決していい返事が期待できるようなものではなかった。
何か思うところがあるのか、硬く口を閉ざしており、しばらくの間沈黙が続いた。

やはりか。と無意識に声を吐き出した。
そして続けて…というのがまぁ、うちの校長の考えだが…と話を切り替えた。

「俺は正直今もお前を巻き込んでいいものかと悩んでいるところだ。」

『…どうして、ですか?』

「これはあくまで俺の見解と意見だが。確かにお前が一緒に生徒達を守ってくれるんなら、心強いとは思う。だがお前自身、憧れていた学校生活を目の当たりにする事にもなるし、人との接触は避けられない。お前にとって、辛い任務になる可能性だってあり得るんだ。…それに、お前の個性を敵連合が狙ってくるという話だって、確信があるわけじゃない。ここに一人でいるよりかは安全だが、ここにいればこのまま接触しなくて済む場合もある。わざわざ危険な領域に首を突っ込む必要性があるのか、とさえも思うよ。」

自分で言って、自分でも驚いたほどだった。
何せ彼女は自分にとって特別な存在でもある。それは異性として見ているとか、そういう問題ではない。
今現在雄英高校の教師として身を置いているきっかけを作ってくれたのは、間違いなく目の前にいる彼女のおかげもあるからだ。

零は今まで他人に振り回され人生を歩んできた。
ようやく一人で物事やどうするべきかを決めて、やっと自由になれた身だというのに、またそれを壊すような提案を持ちかけているような気がする。

そう考えると、自然と目線を下ろした。
今どんな顔をして、彼女に目を向けていいのか分からない。
自由に生きろ、と導いた男が再び彼女の行動を縛るような任務を持ち掛けるような提案を持ち出すなど、どの面をしていいものか。

しかしその頬に、この夏の暑さを忘れるほどのひんやりとした指先がすっと触れ、零と向き合わせられた。

『消太さん、らしくないですよ。面倒嫌いのあなたがそこまで深く考えるなんて…。』

「お前な…珍しく俺が素直に心配してるっていうのに、」

『心配しすぎなんですよ。いつまでも過保護だと、私も親離れするの難しいんですけど。』

「おい、誰が親だ。せめて兄貴にしろ。俺はそんなに歳をとってない。」

目を細めてじとりと睨むと、零は小さく笑った。
この笑顔を見るのに、何年かかったことだろう。
ふとそんなことを考えては、話を戻した。

「俺は強制はしない。お前の好きなように選択しろ。もし嫌だというのなら、俺が校長を説得させるだけの話だ。」

『いいえ、引き受けますよ。その仕事。』

「…あ?」

『だから、引き受けますって。』

どうしてそんなあっさりと?という疑問が表情に出ているのか、彼女は再び笑って続けた。

『消太さんがそこまで気にかけてくれているのなら、私があれこれ考える必要性はないでしょう。まぁ確かに、ここに長年一人で生活してきた私が急に人の溢れる街に降りれば不安でしかありませんが…。それでも、何とかなりますよ。私だってプロヒーロで活躍してますし。それなりにコミュニケーション力上がってますから!』

「…」

どこの口がそう言うんだ。
先日他所のヒーローが、お前の口数が少なすぎて仕事がやりづらかったなどと話していたことを話してやろうかと思いつつも、言葉を飲んだ。

そんな心の内を余所に、零の口から『ただし。』と零れた。

『私がその任務を引き受けるには、三つ条件があります。校長である根津さんがそれを飲んで頂けるのであれば、私はこの場を離れてそちらに行くと約束します。』

「…その条件、聞かせてくれ。」

真っすぐな姿勢に、凛とした透き通るような声。

ーーあぁ…自分にだけ懐いて見せる子供じみた彼女の顔とはきっともう、今日限りでおさらばかもしれない。

彼女の出す条件を聞きながらも、無意識にそんなことを考えたのだった。



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