溝
晩酌に誘われた零は、相澤の自室に訪れていた。
よほど疲れていたのか、彼は開始から小一時間でとろんと落ちそうな目をしていた。
それでもペースを早める一方の彼に、様子が変だと気づき始めたのは、それから三十分後のこと。
『ねぇ、消太さん。そろそろ晩酌終わりましょう。明日二日酔いになっちゃいますよ。』
「えー…まだ飲み足りない。」
『何大学生みたいな事言ってるんですか…ほら、もうお水飲んで寝ましょう。私もそろそろ帰りますから。』
ひとまず手前にあった小瓶を取り上げると、相澤は不服そうな顔をして大きくため息を吐き出した。
『…何かありました?普段はほろ酔い程度でおさめるのに、こんなにも荒く飲むなんて。』
そう尋ねると、強張っていた顔を少し緩めて目線を下げた。
「…俺ももうちょい若けりゃ良かったな。」
『…………、ん?!』
思いもよらない嘆きに、素のリアクションが零れた。
しかし彼の様子から見て、それが冗談で言っている言葉とは思えず、何て返したらいいのか悩んだ。
『……なんで、そう思うんですか?』
「……あーいや、なんだ。そしたらもう少しお前と近い距離にいたのかなと思ってな。」
歯切れの悪いようにそう零す彼に、更に違和感を抱いた。
自分の中で、少なくとも相澤消太という男が一番距離のない人だと思っていた。
しかし今の発言では、彼にとってはどうやらそういう訳では無いらしい。
何が彼の心に引っかかっているのだろう。
周囲を少し片付けてから、ぼんやりと遠くを眺める彼のそばに寄り添い、顔を覗き込んだ。
『よく分からないけど、私は消太さんが一番近い存在だと思ってますよ?消太さんは違うんですか?』
「…いや、そうだと願ってるよ。でもな、実際はそうでもないんだよ。」
『……え?』
彼の真意が分からない。なぜそんな悲しげに零すのか、なぜそんなに追い詰めたような顔をしているのか、見当すらつかなかった。
気づけばすぅっと静かに立てる寝息が聞こえてきた。
文化祭のこともあり、いろいろ裏で動いてくれたせいか、疲れてそのままの姿勢で眠ってしまった。
今触れれば、個性が発動して彼の心を読み取れるだろうか。
いや、そんな風に個性を利用して相手の心を覗き込むような事なんて、とてもじゃないが卑怯すぎてできない。
第一相澤は、昔から一番そばに居ることが多いのに誰よりも心の奥底の本心が聞けない人だった。
自分に触れられる時に悟られないよう敢えて隠しているのかわからないが、いつも聞き取れるのは自分に向けての“保護者”としての立場を感じる配慮だけだった。
ーー私の方こそ、消太さんの一番近くにいない。
雄英高校に来てから彼の日常をこの目で見て、改めてこの人が凄い存在で、なぜ自分をずっと気にかけてくれているのかすら不思議に思う事もあった。
そんな彼は生徒達に絶対の信頼があって、もちろん教師達からの信頼も厚いのはひしひしと伝わってくる。
普段の多忙さと厳しさを知った今、もっと蔑ろに扱われてもいいはずなのに、彼はそうはしていなかった。
一番そばに居てくれる人であっても、この人がいつも何を思っているのか、何を抱え込んでいるのかすら知らないこの距離感に、密かにもどかしさを感じる。
『…私だって、消太さんの一番近くにいたい…』
聞こえるはずもしないそんな独り言を零して、ひとまず彼をベッドに運ぼうと肩に腕を回し、立ち上がる。
ようやく彼をベッドに寝かせ、反動で倒れた身体を起こして自室に帰ろうとしたその瞬間。
凄まじい勢いで腕を引かれ、彼の眠るベッドの隣に連れ戻された。
『ちょっ、消太さ……』
寝ぼけているのだろうか。
真隣にある彼の顔を見るも、瞼は未だ閉じたままだ。
「……行くな……」
彼が零した言葉を何とか聞き取れたと思った直後、よく頭を優しく撫でる彼の大きな手のひらは自分の後頭部へと回り、いつも甘やかせて優しい言葉を吐いてくれる彼の唇が、自分の口元に触れる感触がした。
『……っ、』
声にならない驚きと、心臓が今にも飛び出してきそうなほど激しく鼓動した。
身体は電撃を浴びたかのように痺れて動けず、
突然の事に思考回路が止まりそうになった矢先、すっと唇が離れ、彼の目がうっすら開いた。
「なんか、夢の割に生々しい感触だ、な……」
情けない笑みを浮かべていた相澤の表情が、ものの数秒で険しくなる。
どうやら酒に酔って自分が今目の前にいる事すら夢だと思っていたらしい。
咄嗟に取ってしまった行動にはっと我に返った相澤は、先程までの様子とはうって変わり、青ざめた顔で酷くあわて始めた。
「す、すまん!魔が差した…あ、いや、その…寝ぼけて、だな……」
必死に言い訳を考える彼を前に反応するのにしばらく時間がかかってから、ようやく閉ざしていた口を開いた。
『“魔が差した”って……』
「いや、悪い。違うんだ零。今のはほんとに間違いで…」
何でだろう。
必死になって弁解しようとする彼に、胸の奥がギュッと締め付けられた。
突然の事に頭が混乱して、言いたいことが沢山あるのに、いろんな気持ちが邪魔をして喉から出てこない。
彼はそれを見て更に罪悪感を覚えたのか、バツの悪そうな顔でこう吐き捨てた。
「すまん、忘れてくれ。」
『……ッ、』
たったその一言が、とても心に強く響いて一番痛みを与えた気がした。
気づけば涙がボロボロと溢れて零れ落ち、ぎゅっと強く拳を握りしめ、立ち上がった。
『なんで…そんな事言うんですかッ!私は……』
上手く呼吸ができない。
止めようとして一向に途切れない涙は、拭っても拭っても溢れて流れ落ちていった。
「零ッ!!」
押さえつけていた想いが今にもこぼれ落ちそうだ。
どうにも居てもたっても居られなくなり、彼が必死に呼び止めようとする声すらも耳を傾けず、ただひたすらに部屋を飛び出したのだった。