文化祭


深夜を回った頃。
爆豪との特訓も当分の間文化祭を優先させるため、一時中断を要請した零は時間を持て余し、一人寮の屋根の上で夜空を眺めていた。

夜になると昼間よりも、死柄木に植え付けられたあの恐怖感が蘇り、眠れなくなる。
肩の傷もあれから数日経つというのに、やけに回復が遅く感じた。
まるで彼の意志の強さが現れているようで、とにかく気分が悪い。

奴が残していった自分への爪痕は、それだけではなかった。
先日のプレゼントマイクの時のように、相手が誰であろうと不意をつかれれば体が無意識に反応し、殺気を纏って制圧しようとしてしまうのだ。
普段なら近づいてくる者が誰なのか、気配だけで容易に察知できる機能が麻痺しつつあり、更には寝不足が重なって見苦しい程余裕が無いということを痛感させられた。

相澤やオールマイト達の前で口では強がったものの、やはり現実はそう簡単に甘くはなかった。

これでは本当に奴の思うツボだ。
そう思うものの、初めて経験した類の恐怖と悔しさにどう対処していいのかすら分からない。

『…情けないな。あんな一人の男に、こうも簡単に調子を狂わされるとは…』

弱々しい独り言を零し、大きく肩で息を吐く。
明日は皆が楽しみにしていた文化祭がやってくるというのに、こんな調子では厳重な警備ができるとはとてもじゃないが思えない。

…ダメだ。何弱気な事言ってんだ。

一度落とした目線を再び空を見上げようと、ぐっと勢いよく顔を上げようとしたその瞬間。

ぐらりと視界が揺れたとほぼ同時に、身体は後方へと倒れていく。
あっという間に態勢は崩れて、ドサッという物音と共に視界の中に一人の男の姿が入り込んだ。

『なっ…』

「ハッ、こりゃ驚きだ。まさかテメェにここまで隙ができるとはな。」

『か、かっちゃん?!』

突然目の前に現れた爆豪は、自分が彼の気配に気づかず、完全に指導権を握ったと確信できるこの態勢によほど満足していたのか、いつになく得意げな笑みでそう吐き捨てた。

両腕は既に彼の片手で拘束され、鍛え上げられた逞しい体が覆いかぶさっていて体を起こしようにも動きがとれない。

そしてこの状況を理解した瞬間、あの日の夜と同じ体勢であることを悟り、サッと血の気が引く感覚が全身を走った。

『はっ…離して…』

目の前にいる彼は大切な人であるというのに、どうしても力の強さと似たような環境で、“あの男”と重なって考えてしまう。
そのせいか咄嗟に零した声は自分のものとは思えぬ程情けなく、震えた小さなものだった。

「…怖ぇか。俺があの野郎と重なって見えてよ。」

『…え?』

グラリと頭の中が揺れるような衝撃を覚えた。聞き間違いではないか、と自分に言い聞かせるよりも先に、更に彼があの時の事を知っている口ぶりで、口を開いた。

「あのクソ敵連合の手だらけ野郎がテメェにしたのは、“こういう事”だったんだな…。」

『なっ、なんでそれを…!』

静かに告げる彼の言葉に咄嗟に反応しては、ハッとして口を紡ぐ。
何かと変な呼び方をする彼が言う“手だらけ野郎”は、恐らく死柄木弔の事を指しているのはほぼ間違いないだろう。
しかし、先日起きた事は生徒の誰にも話していないはずだ。
口外したのも、相澤に首元の傷がバレて保健室へ連れていかれた時の一度だけ。
例えそれを立ち聞きされていたとしても、あの時は彼らを心配させないようにと、会話のやり取りで重点的な部分だけを伝え、実際にされた行為や細かい部分は伝えていない。

ーーーなぜ爆豪が知っている?

露骨にそんなことを思っているような表情をみせていたのだろう。
爆豪はこちらの顔を見透かすように見つめては、再び口を開いた。

「寮から飛び出してったあの夜の次の日からの様子と、前に保健室で先生らに話してた内容を考えれば、大方察しはつくんだよ。」

『な、なに言ってるの?私、何も…』

「気づいてねぇのか。あの夜の日を境に、テメェが人との接触を避けている事。特に男に関しては、触れそうになるのを無意識に避けて遠ざけてる。」

『……っ、』

迂闊だった。正直返す言葉すら見当たらない。
死柄木に体で感じさせられた“男”というものの恐怖に、何も関係のない周りの人たちを無意識に“同じ男”として認識し、距離をとっていた事を今さらながら自覚する。

やはり奴の残していった傷はあまりにも大きく、心をかき乱しているのだ。
ただそう改めて理解したところで、何か気持ちを切り替える方法も、どう乗り越えればいいかなんて思いつくはずもなく、ただ悔しさに奥歯を噛み締めた。

「…沈黙は肯定に値すんぜ。そういや、前にもテメェにそんな事言ったな。ま、正直俺は半分自業自得だと思うがな。少しは痛い目見て男って生きもんがどういうもんかわかったかよ、無防備女。」

『なっ…、年下のかっちゃんにそんな事言われる筋合いない!』

彼に自業自得と言われた事についカッとなって、咄嗟に出た言葉だった。
しかし彼にとってはそれが癪だったらしく、ほぉーっとを鳴らしてニタリと笑みを浮かべた。

「“年下”、ねぇ…。テメェ、俺も男だってこと忘れんなよ?この状況で、しかもこの体勢で俺が女のテメェに何もしねぇとでも思ったかよ。」

『…っ、』

「普段強気で俺に歯向かってくるテメェが、俺の行動一つでどこまで弱気になるのかが拝めるんなら、俺はそのチャンスは逃さねぇ。…思い知れよ、俺が一番強欲だって事を。」

『や、やだ…やめてよかっちゃん…』

「知るかよ。」

彼はそう吐き捨てて言って、徐々に顔を寄せてくる。
行動に移し始めた爆豪を見て、それが冗談ではない事を悟ると更に危機感が増す。
何とかこの態勢を崩そうと全身に力を入れて暴れようとするが、普段の彼とは比べ物にならないほど強い力で、いとも簡単にねじ伏せられた。

ーーあぁ、これが“男”の本質なのか。

知らなかった。
服部家の忍として生まれた自分は、性別を意識させられるような事がなかったのだ。

女だから闘わない。女だから弱い。
そんな生易しい言葉を聞いた事もなければ、そんな風に扱う者もいなかった。
だから自分が女である事を捨て、可能な限り強くなり、“女だから…”という理屈を全て打ち消し、気付けば自分自身も女であるという認識を消し去っていた。

それがまさか、こんな形で思い知らされるとは…。

そんな思考が過る中でも、彼は動きを止める事はなかった。
互いの鼻が触れる距離まで近付き、 徐々にドクン、ドクンと鼓動が全身に波打つように大きく聞こえ、周囲の音が全く耳に入ってこなくなり、声も思うように出せない。

もうダメだ、抵抗しようがないーーー

とうとう目の前の恐怖から目を逸らすようにぎゅっと瞼を閉じた。

しかしその瞬間。

ゴツッという鈍い音と共に、額に強い痛みと振動が走り、勢いよく目を開けた。

『いっ…たぁっ!!』

反射的に涙目になって情けない声で叫んだ。
再び視界を開けた時には、爆豪は既に体を起こしてニタリと意地の悪い笑みを浮かべていた。
彼の額は微かに肌に赤みをさしていて、ようやく事の次第を理解する。
目をつむった矢先、彼が頭突きしたのだ。
ようやく解放された手で、ひりひりと痛みと熱を灯す額を摩りながら上半身を起こすと、なぜか爆豪は勝ち誇った顔でこう吐き捨てたのだ。

「ハッ、まんまとひっかかりやがって。バーカッ!!俺がテメェにキスするとでも思ったかよ!!」

『…まさかあのタイミングで頭突きしてくるとは思わないでしょ!っていうか痛いっ!石頭!』

あまりにも大人げない彼の発言に、思わず自分も幼げな物言いで返してしまう。
爆豪はそんな余裕のない自分を見ては、満足そうな笑みを浮かべ、ククッと声を押し殺して笑った。

……ダメだ、完全に手のひらで踊らされている。
彼の楽しそうな様子に酷く落胆しては、独り言のように小さな声で嘆いた。

『まんまとかっちゃんの迫真の演技に騙された…一生の不覚だ…』

「…迫真の演技だと、本当に思ってんのか?」

『え…?』

先ほどまでのふざけた様子とは打って変わった真剣な表情に意表を突かれる。
彼は真っすぐこちらを見て、堂々たる口調でこう続けた。

「言っとくがな、途中までは本心だ。」

『途中って…どこ?』

「るせぇな、んなもんテメェで考えろやッ!…だが、これで分かったろ。テメェが女だって事も、いざとなったら男には力で勝てねぇって事も。」

『…』

「確かに戦闘では強ぇのは認めるが、それ以外はただの女だ。だからあの野郎がテメェに手を出した時、抵抗できなかったのはどうしよもねぇ。いつまでも後悔して引きずってんじゃねぇよ。」

『で、でも…』

「学習したんだから、いーじゃねぇか。だいたい、あんな野郎よりも、もっと身近に男がいるのに今までそれに気づいてねぇ無防備のテメェが悪ぃだろーが。」

『うっ、…』

彼の言葉に、返す言葉が見つからない。
ぐっと押し黙ると、彼はそれを見て一度は笑みを浮かべたものの、再び深刻そうな表情へと切り替えた。

「少なからず、零を女として見てる奴はいくらでも出てくる…テメェが思ってる以上にな。まぁ、テメェはクソが付くほど鈍感だからそれに気付くとも思えねぇが……。
それに今回の事がそれほど恐怖に思えたんなら、次から気を付ければいいだけの話だろ。いつまでもメソメソしてんじゃねーよ。テメェがそんなんだと、見てるこっちがイライラすんだよ。」

『励まそうとしてんのか、落とそうとしてるのかどっちなんだ…』

そう尋ねると、爆豪は少し口を紡いで遠くを見つめた。
その横顔はまるで年下とは思えぬ程大人びた顔をしていて、なぜだか少しだけ心がざわついた。

「…どっちでもねぇ。俺は単に、テメェが目先の男よも次、いつどこで仕掛けてくるかもわからねぇクソ野郎に怯えてんのが、無性に腹立っただけだ。」

『…え、何それ、どういう意味?』

「だから、さっき言っただろーがッ!俺は誰よりも強欲だ。正直今すぐテメェをぶっ壊すぐらいしてやってもいいがな、それじゃ俺自身が納得いかねぇんだよ!」

『…は?!』

「俺はまだテメェに勝てた事がねぇ。俺がテメェを好きにするのは、“完膚無きまでの勝利”を得てからだ。だから勝つまでは俺はテメェに手は出さねーし、どうこうするつもりもねぇ。」

『…は、はぁ。』

理屈はよくわからないが、彼なりに強いこだわりとプライドがあるのだろう。
間の抜けた相槌を打つと、今度はいきなり胸倉を掴んで宣戦布告のような勢いで、こう告げた。

「ただな…俺が大人しくしてる間に、余所の奴に簡単に手ぇ出されて、挙句の果てにそいつの事ばっか考えてるテメェを見てんのが、一番イラつくんだよッ!
んな暇あるなら、俺に負けねぇ策でも考えとけやッ!!次、今みてぇに隙だらけの状態見せてやがったら、今度は頭突き程度じゃすまねぇと思えっ!!」

『はっ、はいっ!!!!』

あまりにもの迫力に、背筋をピンと伸ばして凛とした声で返事を返した。
彼はその様子を見ると満足そうに笑みを浮かべては、襟を掴んでいた手をぱっと放し、くるりと踵を返した。
しかし数歩歩いてはピタリと足を止め、顔だけこちらへと振り向けた。

「…おい、零。」

『え?』

「…女のテメェじゃ限界があんだからよ、ちゃんと周りを頼れ。……それと、明日は文化祭だ。テメェも楽しまなきゃ、楽しめねぇ奴がいる事を忘れんな。んないつ現れるかもしれねぇ奴にいつまでもビビってねぇで、ちゃんと目先の事見て考えとけや。」

『…っ、うん…』

そう静かに零しては再びその場を去っていく彼の背中をしばらく見つめ、まだ痛みのある額にそっと手を添えながら、もうしばらく夜空を見上げた。

そして額の痛みが和らいでいくのと平行して、彼の言葉のおかげで心のわだかまりも、気付かぬうちに徐々に薄れていくのであった。


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