文化祭


零は疾風の如く寮を飛び出し、全速力で雄英高校の敷地を抜けた。

手に汗を握りしめ、奥歯を噛み締める。
先ほど一瞬だけ気配を感じた視線は、酷く恐ろしい憎悪を持つ殺気だった。
あれだけのものを放てる奴は早々いない。

この文化祭を行おうとしている学校に、そんなものを向けてくるような奴がいるのならば、早めに手を打っておかなければ厄介になりそうだ…。

ようやく裏の林を抜けて、公園の敷地に入り込んで数秒後。
薄暗い外灯と、通りに設備されたベンチが見えたところで、一旦足を止めた。

周囲を見渡してみるも、辺りに人の姿はないが、先程の気配を感じたのはこの辺りであることは間違いない。

警戒心を頼みつつ、再び足を動かそうと1歩前に踏み出そうとすれば、凄まじい速さで何かが横切ったのを見たと同時に、気づけば視界はぐらりと揺れ、近くのベンチに勢いよく押し倒されていた。

『……っ、!』

背中に強い痛みが走る。
無意識に顔を歪ませながら細めた目を開けると、目の前にはニタッと薄気味悪い笑みを浮かべながらこちらを見る男の姿があったのだ。

『なっ……、』

思わず言葉を失う。
これは夢なのではないのかと思いたくなるほど、現状から目を背けたくなる。

「いやぁ、まさかあれだけの殺気を感知してここに向かってくる奴がいるとは…すごいなぁ、雄英高校は。」

心にもない感心の薄っぺらい言葉だ。
街灯が照らす癖のある白髪でやせ細った体。
静かに零す薄気味悪い声。

間違いない。

顔が触れ合うかのような至近距離に映る奴を前に、いけないとわかっていても、その名を口にせずにはいられなかった。

『死柄木、弔……』


彼は酷く動揺したこちらの表情を見ると、更に口角を上げた。

「ふぅん。俺はあんたの事知らないんだけど…あんた誰?生徒?」

新しい玩具を手に入れた子供のような無邪気な声に、背筋に悪寒が走る。

ーー早くこいつから離れろ。危険だ。

そう本能が告げるも、自分の両腕は奴の片腕で頭上に拘束され、ベンチの上に倒された身体の上に座られていては、足技すら使えない。

そして最も危険なのは、もう片方の手が触れている箇所だ。
個性を使わないようにしているのか、小指だけを離してしっかり首を掴んでいる。

いくらサポートアイテムを使って力を増強しているとはいえ、この至近距離でこの体勢を取られている以上は、抗えるほどの力は持ち合わせていない。

いつ殺られてもおかしくないこの圧倒的不利な状況を、どうするのか必死に思考を凝らしながらもゆっくりと口を開いた。

『…なぜ、ここにいる…』

「はぁ?質問してるのはこっちなんだけど。俺はあんたが誰か聞いてるんだよ。」

『お前に答える必要は無い。』

「……ふぅん、そう。」

奴を取り巻く空気が変わる。
ピリピリと肌を刺すような、殺気をまとった冷たい表情だ。

「じゃあいいや。なんかムカつくから、ここで殺しとくよ。」

奴はそう零して再び笑みを浮かべ、首を掴んでいる指に一本ずつ力を入れた。
そうして小指が触れた直後、死柄木の嬉しそうな顔を見たかと思えば、何も起こらないこの状況に目を見開いて、動揺し始めた。

「なっ…個性が……!?」

ようやく崩れた笑顔を見て、今度は自然とこちらが口角を上げた。

『…あんたの個性は、私の前では無意味だよ。残念だったな。』

「ど、どういう事だ?!まさか、これが……」

『そう……これが私の個性だ。』

真っ直ぐに奴を見つめてそう告げてやると、奴は俯いて表情を隠した。

万が一の事を考えておいて正解だった。

この場に到着した矢先、最初にとった行動はこの周囲に“無効化結界”を張る事だった。
むしろそれがなければ、奴の個性である“崩壊”の威力で、今頃首と身体が分離していただろう。

とは言っても、第一手を凌げただけの話だ。
正直奴の力ならば、そのまま首を絞めあげられてしまえば、間違いなく命を奪われる。

次にこの現状をどう打破するべきか必死に思考を凝らしていると、奴の肩が震え始めたのを目の当たりにし、サッと血の気が引く感覚を覚えた。

「すげぇ、すげぇや!!女の体が壊れずに触れるなんて、初めてだ……!」

『……っ、』

個性が使えないことに慌てるどころか、嬉しそうに笑う奴の顔は、こちらが怯えるには充分だった。

考え方も、捉え方も、何一つ理解できない。
ただ一つだけ分かるのは、この男が外見の年齢よりも遥かに精神が幼い事だけだった。

「なぁ、あんたはどこに触れられたら気持ちいいんだ?もっと、もっと触らせろよ。…俺は今、すげぇ喜んでんだよ。今まで抱けば壊れてた女が、何しても死なないなんてさぁ!」

『くっ……』

奴の手が、蛇のように服をすり抜けて素肌に触れてくる。
ゾッと背筋が凍るような感覚に飲み込まれそうになりつつも、何とか奴のペースに狂わされぬよう必死に自我を保とうとする。

しかし、体に上手く力が入らない。
身体中を這うように伝う奴の指に、脳まで支配されそうだ。

強敵だと理解している相手を目の前にした時。憎悪の眼差しを向ける父。死を悟るような恐怖。
今まで恐怖を抱いた何よりも、今この瞬間を一番恐ろしいと感じた。

『やめっ、……』

「嫌だよ。…あぁ、女の肌って気持ちいいよなぁ。男にはない柔らかさとか、弾力とか。こういう肌をボロボロに壊すのも快感だけど、いつも気持ちが昂った時にはもう壊れてるからなぁ…でもあんたは触れても壊れない。」

そう嬉しげな声で告げてはそのまま顔を近づけ、やめろと零す自分の唇を塞ぐように、唇を押し当てた。

『……っ、』

顔を左右に動かして逃れようとしても、強い力で押し付けられていて逃げ道がない。

かと言ってこのまま奴の好きにさせるのは嫌だ。

せめてもの抵抗で口の中に侵入してきた死柄木の舌を
思い切り噛んだ。

「……っ!」

痛みが走った瞬間、奴は顔と手を離し自身の口元に手を当てる。
微かに流れ落ちる血を不思議そうに見つめては小さく舌打ちをして、再び鼻が触れる距離まで顔を寄せた。

「痛てぇじゃん。そんなにすぐに俺に殺されたいの?」

『…女としてお前に扱われるぐらいなら、この場で死んだ方がマシだ。』

揺るぎのない堂々たる声でハッキリ断言すれば、奴は目を見開けて驚いた様子を見せた。

そして再び声を押し殺してククッと笑った後、額に手を当てて笑い声を上げた。

「ははっ!やばいなぁ…珍しくテンション上がったじゃん。…ほんと、ヒーローにするには勿体ない。」

奴はそう言って身体を起こし、今まで拘束していた手を解いた。

「危ない危ない。…目的を忘れるところだった。楽しみは最後までとっとくことにするよ。」

『……は?』

「今日はほんの挨拶に寄っただけだよ。しばらくヒーロー達にちょっかいをかけられなくなりそうだからさ。お別れの挨拶。」

『なっ、』

「やらなきゃいけない事があるんだ。だから全部終わったら、またあんたの所に来るよ。それまでせいぜい、死なずに生きててよ?」

まただ。
新しいおもちゃを手に入れた子供のような無邪気な表情を浮かべる奴は、そっと頬に触れるように手を伸ばした。

奴のペースには乗るまいと思い切り手を払い、その場から遠ざかる。
その時一瞬だけ個性が発動し、奴の心の声が頭の中で響いた。

“この女をメチャクチャにして遊びたい。壊れない女、怯えない女…こういう奴を泣きわめくまで落とす時の快感を、早く味わいたい。”

『……っ!!』

「ねぇ、名前くらい教えてよ。あんただけ知ってるのは、フェアじゃないだろ。」

奴の心の声に動揺している隙に、気づけば再び至近距離まで詰められ、毛先に触れられる。

もう一度拒絶しようと手を振りあげれば、軽々と受け止められて強い力で腕を掴まれた。

『いっ……』

「名前、教えてくれよ。そしたら離してやるし、今日はこのまま大人しく去ってやる。」

動揺してしまっている自分では力較べで勝てるはずもなく、睨み合いが続く。

『……、服部、零だ。』

「ふぅん、零か。…やっぱ気が変わったな。」

名を告げれば離してくれると言っていたはずの死柄木は、掴んだ腕を強く引き、自分の体を引き寄せた。

そしてその不意をついた隙に、首元に強い痛みが走った。

『……っ、あ゛ぁぁっ……!』

悲痛の叫びが零れる。
しっかりと食いつかれた位置から、痛みによる熱と血液が流れ落ちてくるのを感じた。
全身の力が抜け落ち、その場に崩れるようにしゃがみこむ。
痛めた首元に手を当てれば、ぬるりと生暖かい感触を覚えた。

「ははっ、ちょっと強く噛みすぎたかな。……その傷、消さないようにね。俺のものっていう印だから。」

見下げるように吐いたその言葉に、再び恐怖心が増した。
何を考えているのかわからない。
何がしたいのかもわからない。

『くっ……』

何も言い返せない自分を見ては、死柄木は嬉しそうに口角を上げ、「じゃあね」と零して背中を向けて歩み始めた。

『な、んで……っ、』

奴の背中は絶好の無防備だというのに、足が竦んでその場から動けない。
情けない声を漏らし、全身の力がふっと抜けてその場にしゃがみこむ。
恐怖を押し殺していた身体は、少しの間震えが止まらず、絶望感を抱いた脳はもはや、傷の痛みを忘れてしまうほど何も考えられなくなってしまっていたのだった。


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