哀想/拍手御礼話 | ナノ


窓ガラスの向こうからは、北風が吹き抜ける音。
音だけでも寒そうだと、絵麻はコートの上から自分の腕を抱くようにさすった。
勉学に費やしてばかりだった日々から、少しだけご褒美と言わんばかりの貴重な冬季連休を満喫している絵麻は、午前中から電車を乗り継いでショッピングを楽しんで来たところだった。
五階のリビングへ繋がる扉を開けると、暖かな空気が触れた。冷え切った体を優しく包んでくれるそれに、絵麻は思わず口元が緩む。

玄関に置かれた靴は一足。
デザインの好みでだいたい特定はできてくるが、それでも、男性ばかりの大所帯の朝比奈家では、ちゃんとした人物を特定するのは難しい。
学生では手に入れる事が少し困難な、大人っぽい革靴。ただし、ビジネス用ではなく、割とカジュアルに作られたものだった。
成人を迎えたキョーダイの誰か。
ここまでしか、絵麻にはわからなかった。

「ただいまー」

そう、いつものように口にした言葉を、絵麻はすぐに閉ざし、口をつぐんだ。
室内に入り、すぐに見えたソファ。そこに誰かが横になっている。
寛いでテレビを見ているわけでもなく、動くそぶりもなく、ソファに沈んでいる身体。

(もしかして、……寝てたのかも)

しまった。と自分の言葉に後悔するも、もう遅い。
唇に手を当てながらも、そっと近づいてみる。漆黒のさらりとした髪、そしてトレードマークのようなメガネ。
似た顔はもう一人いたけれど、これは六男の梓で間違いないであろう。

(今日は梓さん、夜遅くまで帰ってこないって言ってた気がしたけど)

朝食の時に、椿と話していたのを絵麻も聞いていたハズであったが、急に予定がなくなったのだろうか。
売れっ子声優の梓は、誰もが休みの時が一番忙しい。関東のみならず、地方にも連日呼ばれているようで、終電間際に帰ってくることも珍しくない。
忙しいのは、目に見えてわかっていた。

(あれ……?)

てっきり起こしてしまったと思い、梓に近づいた絵麻であったが、真横に来てもその瞼が押し上げられる気配はない。余程、深い眠りなのだろう。

(大丈夫だったみたい)

変化のないその表情にホッとしつつも、その顔がいつもより血色がなかった。
心なしか、唇も青ざめて見える。
具合が悪いのだろうか。

梓がこのリビングに倒れた記憶は、絵麻の記憶にもまだ新しい。
決して数ヶ月前の出来事というわけではないが、目の前で倒れていった梓を見た絵麻には、今でもその光景が脳裏に焼き付いていて離れない。

とにかく心臓が止まるかと思った。少なくとも、あの場にすぐ雅臣が来てくれなかったら、とてもじゃないが冷静さを失い、救急車を呼ぶことも叶わなかっただろう。
だから、少しでも具合の悪そうな梓を見ると、絵麻何かと気になってしまう。
本人は、あまり心配されることを良しとしていないのは見て取れるし、逆に気を使い過ぎれば、梓にとってストレスになってしまうだろう。
なるべく普通に過ごすよう心がけてはいるが。
それでも、目についてしまうと、気になってしまうのだ。

絵麻の母はいない。そして、本当の父ももういない。
記憶にも残っていない二人ではある。
それでも、絵麻の周りには死が身近となっている事には変わりない。
誰かが大きな病気になって、初めて今まであった五体満足にありがたみが出てくるのだ。

体調管理は自己責任。
社会人なら余計にそうであろうが、その中でもこの兄は声を仕事にする人で、少しの風邪でも大事になることは明確であった。
急いで自分の部屋へ戻った絵麻は、出迎えたジュリの横を通り過ぎて、自分が使っている毛布を手に、また外へ出ようとする。「そんなに急いでどこへ行くつもりだ」と引きとめようとするジュリの会話も半ばに終わらせると、そのままリビングへ戻った。
ソファに沈む梓は、相変わらず青白い顔をしている。
先程と全く変わらない様子に、逆に心配になりながらも、そっとその体に毛布を掛けた。

少しでも寝心地を良くしたい。
音を立てないようにしながらゆっくりとキッチンまで移動した絵麻は、そのまま自分で飲むための紅茶を入れ始めた。ティーポットに茶葉を入れ、お湯をいれて蒸らしていく。
ポットが冷めないようにと、ティーコゼーを被せたところで、突然、リビングに軽快な音楽が流れた。

「「……っ?!」」

驚いて顔を上げた絵麻。それを追うように飛び起きた梓は、音楽が鳴り響く元凶――携帯を引き寄せて、慌ててアラームを消していた。
音がぴたりと止み、再び訪れた無音。けれど、視線を感じてか、梓はキッチンへと目線を走らせた。

「……あ、帰ってたの?」

「はい、少し前に。梓さんは、夜もお仕事っていってませんでしたっけ?」

「うん、これからまた出かけなきゃいけないんだけど。少し時間ができたから帰ってきちゃったんだ」

「そうだったんですか、……大変そうですけど、……大丈夫ですか?」

「うん、平気」

「でも、なんか顔色が悪いみたいです」

「そう?連日、働き詰めだったし、少し疲れているから、そう見えるだけじゃないかな」

そっと微笑んだ梓は、そのまま立ち上がるが、その時、梓の身体にかけられた毛布が床へと落ちていった。

「あれ?」

床に落ちて初めてその存在に気がついた梓は、しばらくそれを眺めた後、首を傾げた。

「もしかして……キミがかけてくれた?」

「はい、エアコンが入っていても部屋の中が少し寒いみたいでしたし。それに、梓さんが風邪なんて引いたら大変だと思って」

「そっか……ありがとう。あ、……ごめん、そろそろ行かなきゃ」

部屋に置いてある時計を見た梓が、慌ててコートを羽織った。

「はい。いってらっしゃい!気をつけてくださいね」

「うん、いってきます」

少し時間ができていたから。とは言っていたが、すぐに梓は出て行ってしまった。仮眠をしていたけれど、あまり時間はなかったのではないだろうか。

再び訪れた静音。
キッチンに置かれた電化製品が稼働する音のみが、やんわりと聞こえてくる。
蒸らし途中の紅茶に目を向けてから、先ほど梓が眠っていたソファに目を向け、絵麻は気づいた。

「あれ……?」

ソファの背もたれにかかっているマフラー。何度か見たことあるのは、梓が首に巻いているのを見たからだろうか。

「梓さん……忘れちゃったのかな?」

ソファまで足を運び、マフラーを見つめた絵麻は、すぐさまそれを手に取り、玄関へと駆け出した。
エレベーターは梓を運んだからか、一階を指している。
一瞬だけ逡巡したのち、エレベーターがこちらへ上がってくる時間も惜しいと感じ、絵麻は非常階段を使って急いで駆け下りた。
エンタランスを抜け、駅方面へ視線を走らせるが、既に梓の姿はない。
梓も仕事の時間を気にしてか、急いで駅へ行ってしまったのかもしれない。
絵麻は再び走り出した。


途中、アーケード内にあるいつも足を運ぶ八百屋の店員と目があったが、何も言わずに頭だけ下げて通り過ぎる。
普段から電車を使う為、よく歩いてはいるからそれなりに体力はあるかと思ったが、はやりこう走り通しだと息が苦しい。
道行く人の合間を抜うように走り、絵麻はようやく見覚えのある後ろ姿まで追いついた。

「あ、梓さん!」

はぁ、はぁ。と息を吐くたびに、白い息が舞い上がっていく。
すぐ隣までたどり着く前に、呼ばれて振り返った梓と目が合った。

「え……?どうかしたの」

数分前にリビングで別れたはずの妹が目の前にいる。これに驚かないはずはないだろう。
現に、梓は目を丸くした後、なにか重大なことでもあったのかと深刻な顔つきになっていく。

「あ、あの……マフラー……忘れ物です」

息を切らしながら差し出したマフラーに、梓は無言でそれを見つめたあと、少し呆然としていた。

「これを届けに……わざわざ?」

「えっと……、首を冷やしたら……喉にもよくないかと……思って」

「……そっか」

「はい。……あの、急いでるんでしたよね?」

「そうだ。……ごめんね。僕がマフラーを忘れたから、けっこう走らせちゃったみたいで」

「いいんです。私がそうしたかっただけですから」

梓の手が伸び、マフラーを手にしてから自らの首に巻いている。
それを眺めて、絵麻は満足そうに笑みを浮かべた。

「ありがとう。じゃあ、行ってくるね」

「はい、いってらっしゃい!」

互いに手を振ったあと、梓は人波に飲まれるように消えて行った。
それを見届けたあと、絵麻は自宅へと帰っていく。


再びリビングへ戻ったあと、ティーコゼーの中に置いていたポットの存在に気がついた絵麻は、慌ててそれを取り外した。
だが、恐らく紅茶は十分すぎるほど蒸らされている状態で、かなり渋みの強いものになっているだろう。

「うーん……どうしようかな」

捨ててしまおうか、それとも。
少し考えた後に、絵麻は冷蔵庫から牛乳を取り出すと、カップに注いでから電子レンジで温める。
ミルクティーにしてしまえば、多少渋みも和らぐかもしれないと考えたからだ。
ミルクが温まっていくのを眺めていた絵麻は、コートのポケットに入れていた携帯が震えたのに気づいた。
取りだして確認してみると、送り主は梓からだった。
また何かあったのだろうか?

『さっきはありがとう。君のおかげで風邪引かなそうだよ』

綴られた簡素な文。
けれど、そこには先ほど告げられなかった思いがこもっている。

「……よかった」

自己満足だったかもしれないけど、梓はそれでも喜んでくれたのだ。
電子レンジからブザーが鳴り響く。温められたカップのように、絵麻の気持ちもほっこりと温かくなっていた。




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