ほぼ三ヶ月ぶりにグリム領から出て外出したのは、先に言うが僕の意見ではない。
その間に、定例会議というものも、珍しく長期に渡りない状態で、グリムファミリーにとっても、その他のファミリー、そして街の住人にとっても、ファミリー同士の抗争もなく、平和だったとも言える。
外出と言う名の散歩と言っても、代々から続くボスのある館の周りで事足りるし、そもそもそこに時間をかけるほどの時間もなかった。
未熟者の僕が、グリムファミリーのボスとなったあとは怒濤の日々であった。待ち受けていたのは、ボスという重厚な名前を持つだけの、ただのクレーム処理係だ。
もともと、ボスになる前には、それなりの量の仕事をこなしていたはずなのだから、本来なら慣れていたはずの作業だったが。
このボス就任後、僕は今までの何倍もの量をこなすこととなった。
その背景には、僕たちグリムファミリーが起こした大規模な戦争が起因している。戦争に惨敗した今、その補償問題で休む時間を設けている場合ではなかった。
補償金を巡って街のあちこちを練り歩き、話し合いがもたれた。
住人の大事なものを壊し、今にも殴りかからんとばかりの視線を送られることとなったのも、一度や二度ではない。
戦争はいけない。
それだけは僕もわかっていたはずなのに。
僕は、ハーメルンさんの言いつけを守らない訳にはいかなかった。
ボスに背くことは、ファミリーに背くこと。
裏切り者は、死を意味すると言っても過言ではないのだから。
話し合いが終わると、今度は他の問題となる。
今回の補償だけで、僕たちのファミリーは大損害の赤字。それも毎月の活動に困るくらいの火の車状態であった。
『お金がないなら、作ればいい……アンデファミリーを潰そう』
全く反省の色が見られないグレーテルをなだめ、資金算出の為の案を出し、それを実行してもらった。
此度の戦争によって、職を失った者も多い。
その職の斡旋をしようと、ファミリーぐるみで共同で新しい物を作り出そうとしていた。
だから、本当に休む暇もなく働いた。唯一、僕が得られる、つかの間の休息は、――そう、あの人が来たときだけ。
『スカーレットさん』
穏やかで綺麗な声が僕の耳に届く。
恥ずかしそうにはにかんで、ほんの僅かな時間のみ、僕のそばにいてくれる女性。
「……フーカさん」
口にのせるだけで狂おしいほどの愛おしさに、胸が締め付けられた。
心臓を茨に囲われてしまったかのように、今は自由が利かないのだ。ふがいない自分を思い出し、奥歯を噛みしめるものの、得られるのは空しさだけしかない。
今度彼女に会えるのは、一体いつになるだろうか。
その見通しはまだ立たなかった。
次の日曜日、今度は新しいグリムファミリーの事業を見直そうと、僕はいくつかの候補があるリストを持ちながら、グリムの敷地を練り歩きいていた。
新しい事業という名の、新しい料理店だ。
広場で料理店を営む、ソウのような料理は、残念ながらなかなか腕の立つ物がおらず、現時点では難しい。だが、グリムファミリーの者が表立って作れる物、それはパンをはじめとしたお菓子類である。
この強みをさらに引き出して、何か特産品を出していけばいいのではないかと考えているところだ。そして、それを販売する店舗も。
立地条件としては、もちろん店なのだから、人々がより多く通るところでないといけない。 そして、それは共有の敷地である広場近くに置くことも検討されていた。
(やはり、ここのほうが……利便性が高いだろうか……)
最終候補であった、もっとも広間の近くにある空き屋を上から下まで眺める。補修工事は必要だが、ここなら何とか軌道に乗るのではないかと思われた。
(よし。では……屋敷に戻ってからまた検討して)
小さく息を吐いた僕は、その場で立ち止まって今後の行動を改めて反芻していた。
ぼんやりと広場を眺めそのまま立ち去ろうとしたとき、見知った顔が目に入り、息を呑んだ。
(フーカ……さんだ)
愛しい彼女が、そこに歩いていた。
以前の僕であったなら、まず彼女の名前を口にして、呼び止めていただろう。
だが、今は――。
(そんなこと、できるはずもない)
彼女はオズの所有物である。敵対関係になった者達であったとしても、この日曜日だけは許されるはずであったが、もう僕らはそういう関係を絶ってしまったから。
遠目で見つめ、彼女を見送ろうとした。またいつか会える日まで、待つことが僕にはできるはずだと。
けれど、僕の決意もすぐに崩れ去ってしまう。
何かにつまずき倒れた彼女は、大きな音を響かせてその場に転がった。 皆、一斉に彼女に目を向け、一瞬止まった時間が流れる。
僕はそのとき、彼女の前まで姿を見せ、既に手を差しのべていた。
「フーカさん、だいじょうぶか?」
「へっ!? あ、スカーレットく……さん。あの、だいじょうぶです」
咄嗟のことに驚いたフーカさんは、僕を前の呼び方で呼ぼうとして慌てて訂正しながらも、自分は怪我がないと首を緩く振った。
「……そうか。なにか大きな音がしたみたいだが」
「あぁ! カップが!」
「カップ?」
「はい、かわいいカップを見つけたので、買ったんですけど……」
恐る恐る手にしていた紙袋を覗いたフーカさんは、次の瞬間がっかりした表情を浮かべていた。恐らく、中のカップは割れていたんだろう。
「駄目だったのか?」
「……はい、駄目でした」
肩を落とし悲嘆する彼女に、僕はなんと声をかけたらいいのかわからない。それは、以前から変わることのない、僕の気がきかない性格のせいなのだが。
何か言わなくては、そう思っていても言葉が出ることはなく、もどかしさでフーカさんを見つめているばかりの僕は、あることに気がついた。
「っ! フーカさん、怪我をしている。……手から血が」
「え?」
余程カップが割れたことに対して、気が動転していて、気がつかなかったのだろう。
フーカさんの白い手の甲に、一筋の赤い線が刻まれていた。
倒れたときに地面ですりむいたのではない。恐らく、カップの破片で切ってしまったのだろう。
「本当です……全然気がつきませんでした」
「君は……まず、そのそそっかしいところを直したほうがいい。今日だけではなく、……いつもそうなのではないかと、心配になってしまうから」
「あ……はい」
「それから、手を……」
「はい?」
「手を貸してくれ」
何をするんですか? そう問いただし気な視線をやんわり遮り、僕はポケットから出したハンカチで、怪我をした場所を覆う用にハンカチを結んでいった。
彼女の手に触れただけで、胸が大きく高鳴っていった。別にやましい気持ちがあってこうしたわけではないのに、ほんの少し罪悪感を感じた。
この感情が、フーカさんに伝わらないことを祈るばかりだ。
「……これでいいだろう」
「あ、……ありがとうございます」
ほんのりと顔を赤らめたまま、フーカさんは深くお辞儀をした。
その姿さえ、可愛くて、愛しくて、僕はそっと笑みを浮かべてから、軽く首を振った。
「……怪我が早くよくなるといい。そんなに深くはないと思うから、一週間くらいで治ると思うが」
「そうですか。スカーレットさんが言うなら、間違いありませんね」
「ああ、うん……」
いつも使っていた軟膏を持っていないのは悔やまれた。今日は日曜日であったし、もう赤い頭巾は被ることはせず、屋敷にこもってばかりだったから、持ってきていなかったのだ。
何か話しを。そうしないと、彼女は行ってしまう。
けれど、何の話しを?
怪我をした彼女に天気の話はおかしいだろうし、どこかの店に誘うのも怪我人には向かない。
なら、もうこれは……。
「それじゃ、……フーカさん、お大事に」
僕から出たのは、こんな言葉だったのだ。
あれから、毎日のように僕は後悔している。毎日のように後悔の言葉で自分を責め立てながら、仕事をしている。
あの場ではああするしかなかったのだ。あれ以上話をして、彼女に迷惑をかけてもしようがない。
あれでよかったのだと。
必ず後悔をそう締めくくって過ごして、もう十日になる。
彼女の怪我は、もう治っただろうか。
それを気にしながら、今度使う支援の案件書類を読んでいると、扉を叩く音がした。
『ボス、オズファミリーの方が見えています』
「……そうか、通してあげてくれ」
『はっ』
兵隊からの言葉に、僕はいぶかしみながら承諾した。
何かオズの者からの用事などあっただろうか。また補償問題絡みか? 思いつく事がない以上、僕はオズファミリーの相談役にまた振り回されるのかと思い、ため息をついた。
その考えは一瞬にして、払拭されるのだが。
『失礼します』
そう、高めの女性の声が響いたあと、部屋の扉が開き、扉の向こう側にいたのは――フーカさんだった。
「……フーカさん?」
「はい、こんにちは。スカーレットさん」
いつもの柔らかな微笑みを浮かべて、僕の前にやってくる。
はっとした僕は、慌てて彼女の傍にいるグリムの兵隊に目配せをした。
「君たちは、呼ぶまで下がっていてくれ」
兵隊は疑問に思わず、部屋を退出していく。その様子を、僕とフーカさん、二人で見送ったあとに、来客用のソファへ彼女が座るように促した。
「フーカさん、じゃあ……そこのソファへ座って」
「は、はい……!」
やや緊張気味のフーカさんを微笑ましく笑みを浮かべた僕であったが、フーカさんの緊張はオズの伝令として何かを伝えにきたからだろうと、すぐに気持ちを引き締める。
けれど、目に入った手の甲を見て、僕はまた口元に笑みを浮かべてしまうことを耐えられなかった。
「……ああ。怪我……治ったようで、よかった」
「あ、はい。……あの時は本当にありがとうございました」
「僕は何もしてない。ただ、ハンカチを貸しただけで。怪我が完治できたのは、君がそれなりの治療をしたからだろう?」
意地の悪い言い方だったろうか。けれど、これは事実なのだ。
僕はあの場で、何も出来ていない。
気の利いた言葉さえ、何一つ。
けれど、彼女は僕の言葉に大きく首を振ったのだった。
「いいえ、それは違います。スカーレットさんは確かに私を助けてくれました」
「……そう、か?」
「はい! 転んだ私に手をさしのべてくれました。甲に出来た傷を止血するために、ハンカチを貸してくれました。あの場で転んで恥ずかしかったけど、でもスカーレットさんに会うことができました」
「フーカさん」
「私は……転んでよかったと、カップが割れてよかったとさえ思っています。……だって、今、こうしてスカーレットさんに会えたから」
扉を隔てた向こう側に控えている兵士に聞き取られないように配慮された、小さな声。その中には、たくさんの葛藤が秘められていた。
「…………」
「すみません、こんなバカなこと言って」
無言を通す僕に、フーカさんは悲しそうに笑った。無理矢理笑みを浮かべるその顔に、抱きしめたい衝動が生まれたが、それに踏み出すことは結局できなかった。 僕には自分の行動に責任をもたなくてはいけないのだから。
過ぎたこととはいっても、それを切り離すことなど、僕にはできない。
「フーカさん、僕も……あの時、君の姿を見つけられて、転んだ君にすぐ駆け寄れたのが僕で……よかったと思っている」
「スカーレットさん……っ」
僅かに潤んだ瞳に、吸い込まれそうなほど、釘付けになった。
口にしてしまいそうな言葉をこらえ、僕も無理矢理笑みを作った。
「あの、私……今日はこれを渡そうと思って、来たんです」
そういって彼女が取り出したのは、ちいさな紙袋。渡されたそれを取り出すと、中には薄ピンク色のハンカチが出てきた。
「あの時もらったハンカチですけど、私の血で汚れてしまったので……」
「余計な手間をかけさせた。別に汚れたままでも平気だったが」
「でも……これを受け取ってもらいたかったんです。…………それに」
律儀なフーカさんに何度か相づちをうちながらも、僕はそのハンカチに僕の名前の頭文字が入っていることに気づく。糸で縫われたその文字は、刺繍してあるのだと気がついた。
「フーカさん、これ……」
「すみません……それ、私が入れたんですけど。……初めてだったんであまりうまくできなかったんですが。私……スカーレットさんのあのハンカチ……大切にもたせてもらいますね。だから……」
熱を帯びた視線が絡み合い、僕は彼女の指先に触れた。
「ああ、……フーカさんからもらったこのハンカチ、僕も大切に持たせてもらう」
そういって、僕は刺繍がしてある部分に口づけを落とした。
愛しいフーカさんにそうして触れられない分、それをフーカだと思って。
彼女は、そのあとすぐにオズファミリーの屋敷へと戻っていった。
もともと、すぐにとんぼ返りする事を約束に、ここへの訪問を許可されたらしい。
目的が治療してもらったお返しをしに。と、彼女らしいと言えば彼女らしいのだが、それを許したオズファミリーの面々も相当彼女に甘い。
けれど、それがあったからこそ、僕は彼女とこうしてまだ会話する事を許されている。
本当なら、もう会話を交わすことさえできないはずなのに。
こみ上げてきた愛しさに、胸が熱く、そして切なく締め付けられた。
引き出しを開け、先ほど貰ったハンカチを取り出すと、僕はまた刺繍の部分へ口づけを落とす。
「フーカさん……愛してる」
決して伝えることのできない想いを、僕はハンカチにそっと呟いた。
つよさを手にした孤独の為に
2013.07.14
(まよい庭火)
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