じわり:utpr | ナノ
彼の声は麻薬のようだ。じわじわと脳髄に響いて、思考を奪う。
彼自身それを知っていて、私に多用するのだ。中毒症状になるまで、耳元で。

「ぁ、あの一ノ瀬さんっ。」
「何ですか?」
「ち、近いです!もうちょっと、あのっ。」
「知ってます。わざとやっているのですから。」

ピアノと一之瀬さんに挟まれ、身動きが取れないでいる。それに追い打ちをかける様に、彼は譜面台に両手をつき、耳元まで顔を近づけ話しかける。直に彼の声が、吐息が肌に触れ、もう頭はパニックだった。そんな私を見て、彼はくすくすと笑う。その笑い声さえ今の私には、刃物より鋭く心臓に刺さる。身体も思考もうまく働かない。

「いい加減、慣れてください。」
「そ、そんな、無理です。」
「これじゃあ、キスもできない。」
「ふぇ。き、キス?」

驚いて、硬直していた身体がびくりと動いた。それを覗きこむように、彼が私の顔を見る。目があった瞬間、綺麗な紫色の瞳が悪戯めいた色を滲ませ細められた。

「春歌は、したくないですか?」
「え、あ。」

口元がスッと弧を描き、耳元で囁く。

「キス、しましょうか。」いつもより低めのテノールが、鼓膜を震わせ脳内に響く。
まるで操られている様に彼の方を振り返り、ゆっくり瞼を閉じた。その寸前に見た彼の顔は、至極楽しそうで。私は落ちてきた口付けを享受するしかないのだ。