愛を紡ぐ指先 トキ春 | ナノ
まるで慈しむかのように、彼女は鍵盤に触れる。
決して乱暴なことはせず、そっと撫でる様にピアノに触れるのだ。
指先だけではない。鍵盤を見つめるその瞳ですら、慈愛に満ちている。彼女はピアノに対して誠実であり、自分の身体に流れる音楽に忠実だ。
彼女が奏でる音にみたされた教室は、愛に溢れている。それでいて、他の進入を拒むかのようにも感じる。そう、彼女がまるでこっそりとピアノと逢引しているような。

だからいつもその場に自分が入っていくのを躊躇ってしまう。


「…一ノ瀬、さん。」
「あ、…。」


扉の前で立っていると、彼女が自分に気付いてしまった。
一瞬見つかってしまったことに、焦りを感じる。見てはいけないものを見てしまった、気まずさを感じる。

「いらっしゃっていたのなら、入って下されば良いのに。」
「いや、邪魔をしてしまっては、と思いまして。」
「どうしてですか?そ、そんな邪魔だなんて!」


どうぞ、と促されて教室へと入る。さっきまで音に溢れていたそこは、今は静まり返っている。まるで侵入者を拒否しているようだ。ピアノにとって私は、一番許し難い人物なのかもしれない。
これから彼女はピアノの為に奏でるのではなく、パートナーである私の為に弾くのだから。


それでも私は、君が羨ましい。
私の為に音は奏でられても、ピアノのように触れてはもらえないから。


その代わりに、私は自分の指で彼女に触れる。彼女がピアノに触れるのと同じように。