あぁ、どうか君の音が僕に09パロ | ナノ
自分には、ピアノしかなかった。それしか出来る事がなかったし、それしか親に褒めてもらうすべを知らなかった。あんなに好きだったピアノが、いつしか重荷になって、兄さんや姉さんのように弾けない自分が、どんどん嫌いになった。

上手に弾けない僕は、あの家にいらない子供だった。耐えられなくて、家を飛び出した。それでも僕にはピアノしかなくて、夜のカフェでピアノを弾いて、生活をしていた。

あれは、いつものように楽譜を買いに行った日。

(…サルマンの『月の灯り』か。)

目にとまった楽譜を、手に取ろうとしたとき

「あっ…。」

と隣から声がした。振り向くと淡い栗色の髪の女学生が見ていた。

「す、すみません。」
「いえ、…何か?」
「あ、あの、その楽譜を…。」

どうやら、彼女もこの楽譜に用があるようだ。

「…良かったら、どうぞ。僕は手に取っただけですから。」
「そんな、悪いです。…もしかして、ピアノを弾かれるんですか?」
「え、えぇ。カフェピアニストを。」
「通りで、綺麗な指をしてらっしゃるんですね。」

出会ったばかりの人に、そんな事を褒められると思ってもいなかった。そういえば、褒められたのなんていつ振りだろう。

「…女学校で、使われるんですか?この楽譜。」
「あ、いえ。恥ずかしながら、私、弾けないので。」

女学校では、一般教養の一環としてピアノの授業がある。確か、昔習っていたピアノの先生は、女学校でも教えていると言っていた。

「あの、…良かったら弾いてもらえませんか?」

大抵楽器屋には、楽譜の近くにピアノが置いてあるところが多かった。自由に弾いてよく、彼女のような女学生や、幼い子供が弾いている事もある。この店では、僕も何度か借りて弾いていた。

「…僕でよければ。」
「ありがとうございます。」
何でそんな事言ったのか、今でも分からない。でも、弾いても良いと思った。


綺麗な曲だった。弾いている間、僕とピアノを彼女は熱心に見詰めていた。

「とても素敵でした。」
そう言って拍手をされた。カフェでもされるが、それとは何だか違う感じがした。
「ええ、とても素敵な曲ですね。」
「いえ、曲もですけど、貴方の演奏が素敵でした。」

初見で弾いたのだ。けして上手い演奏とは、言えない。
それなのに、褒められたのは初めてだった。

「あ、ありがとうございます。」
「…良いな。私も弾けたらいいのに。」


「…僕でよければ、教えましょうか?」
何でそんな事を言ったのか。今日初めて会ったばかりの彼女に。
「良いんですか?」
「え?」
「こんなに素敵な演奏をされる方に、教えて頂けるなんて嬉しいです。」

…この時、僕は初めて必要とされる感じを知った。

「私、夜久月子と申します。宜しくお願いします。えっと…。」
「青空、颯斗です。」
「颯斗先生、ですね。」

こうして僕は彼女にピアノを教えることとなる。週に一度、このお店で。もちろん店主に了承をとって。
しばらくして、この時間が僕にとって大切になっている事を自覚する。それと同時に、純粋にピアノを好きになっているのを。
嬉しそうにピアノを弾く、彼女の横顔が好きだと感じ始めたのも。

あぁ、どうか君の音が僕に