そのマンションに、見覚えはなかった。
けれど、そこかしこにある物に何故か違和感はなかった。例えばスリッパ。一ノ瀬さんとお揃いのようだけれど、色形は私の好み。出されたコーヒーは、何故だかどこか慣れた味。極めつけは、部屋に置かれたピアノだった。
「…これ。」
「あぁ、わかりますか?貴方の実家から持ってきたものです。」
「…あの触ってみても?」
「もちろん。これは貴方のですから。」
ポーン、と音が響く。
やっぱり私が使っていたピアノだ。この場所に覚えはないのに、このピアノは間違いなく私のピアノだ。
(…本当に、忘れてしまったんだ。)
やっと実感が湧いた。
玄関にあった写真に写るウェディングドレスでほほ笑む私。隣には一ノ瀬さん。
こんなの知らない。
連れてこられた部屋、覚えがないのに妙な安心感。
それが何だか気持ちが悪い。知らない、知らない…。本当に、知らないのに。
「…春歌?」
「あ、すいません。何でもないです。」
「何でもない、と言う顔には見えませんよ。」
「本当に、何でもっ。」
そっと頬に一ノ瀬さんの手が伸びてきた。
「…やっ!」
思わず払いのけてしまった。彼は何も悪くないのに。
「ご、ごめんなさい。あのっ。」
「…いえ。すみません。驚かせてしまって。」
そして何より嫌なのは、私の一挙一動に彼が傷ついた顔をすること。
それが苦しかった。
「…私、やっぱりここには住めません。」
「え?」
「迷惑ばかりかけてしまうし、一ノ瀬さんに負担がっ」
「そんなことない!」
「!!」
「迷惑だなんて、思ってません。負担だなんて思ってません。」
「お願いですから、傍に居させて下さい。…思い出せなくても良いですから。」
そっと掴まれた手首は、解こうと思えば簡単にできたはずなのに。
私にはそれが出来なかった。
なんでこんなにも泣きたくなるのかなんて、