『トキヤ君』
真っ赤になりながら、そう呼んでくれるようになったのは、いつのことだろう。結婚してからも、なかなか呼ぶのに慣れてくれなかった。それが何だかくすぐったくて、彼女に何度意地悪をしただろう。彼女が呼んでくれる事に、特別な意味があった。そんな思い出さえも、彼女の中ではなかった事になってしまったのか。
“記憶が一時的になくなっている。”
この4年間、何があったか。沢山あり過ぎてあげられやしない。それくらい濃密で充実した毎日だった。その中で彼女との関係は変化し、この左手の証につながっている。今はそのシルバーリングが、どこか光を失っている気がした。
“仲の良い同級生”という認識で間違っていないのだろう。2人の自宅に向かうタクシーの中の、物理的な距離が如実に表していた。
「…一ノ瀬さん?」
無意識に彼女に伸ばした手が、空を切る。
「いえ、何でもありません。」
「…すみません。迷惑をかけてしまって。」
「迷惑ではありません。私たちは、夫婦なのですから。」
「…。」
彼女が曖昧に微笑んで、自分の左手を見つめていた。
そんな彼女を見るのが苦しかった。手を繋いで、抱きしめて“大丈夫だ”と慰めたかった。
「ありがとうございます、一ノ瀬さん。」
その言葉で、一気に冷めていくのが分かる。
そんな事をして良い立場であると、彼女は認識していないのだ。
“一ノ瀬さん”と呼ばれる度、壁を感じ胸が痛んだ。
タクシーを降りるとき、いつものように手を差し伸べ、降りるのを促した。その手は取られることはなく、すり抜けるように彼女が降りた。行き場をなくしたてを、ぎゅっと握る。荷物を持って、運転手に“ありがとうございました”と一礼。タクシーが見えなくなるまで、見送る。彼女の癖は変わらない。
(そしていつも振り返って、笑顔で言うんだ。)
(『トキヤ君、帰りましょう。』って。)
彼女が私の方を振り返る。
「一ノ瀬さん?」
あぁ、そんなはずないのに期待した胸が痛かった。
To be continue....