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「いけっ…!押せっ…!!捩じ伏せろぉおおおッ…!」


異様な熱気だった、悲鳴にも近いその声に対して俺の周りは冷たい空気が流れ込んでいる
瞳孔を見開き、肩が震え、目の前の視界がぐらついて行き何処までも落ちていきそうな感覚
どくん、と大きく心臓がひと鳴りした
たちまちその音は俺の身体を包んで行き、恐怖という名の支配を始める
心の中、奥深くに飼っていた魔物が目覚めてしまった
一歩、二歩と後退り壁に当たった身体を抱くようにしてその恐怖から必死に耐えた



「あっ!て、店長…っ、何処へ…!」



しかし駄目だ



今の俺には抑え難く、その光景をせめて目に映さない事だけが救いだった
知らぬ間に、その場を離れふらふらとトイレに駆け込む



「誰も、っ…居れるな……!」



そう傍らの村上に念を押して、扉を閉めた
視界が揺れる中、よろよろと歩き洗面台に両手を付いて大きく息を吸い込む
心臓の鼓動を少しでも休ませる為だ
今一時でよかった、もう鼓動さえ止まってしまえばいい
そうすればもう何も考えずに済むだろう





「…、……う…ッ…」






しかしそんな俺を嘲笑うかのように
あまりの鼓動の速さと三半規管が狂ったような眩暈
耐えきれずに沸き上がってくる物理的な押し寄せに俺は







「…お、ェッ…え"ぇええええっ…!!!」









遂に屈服した



口から流れ出す汚物は嫌でも鼻についた
消化しきれていないものから、何から何まで
その地獄は何分にも及んだ
途中息が切れてそれだけに死にそうになったが
汚物を無意識に飲み込んで押し戻しては、空気を吸い
そしてまた吐いた
出すものが無くなれば胃液が逆流してきていた
水道水が流れ出る音が耳元につくのを感じながら
ようやく、その嘔吐地獄は幕を閉じる




「は、ぁッ…、はぁ……!」




尚も治まらない眩暈の中で脳裏に浮かぶのは屑の顔
泣き叫び、彼奴が歓喜の声をあげているところが再生される
それはもう、自分の敗北を予想していたのか?
こんな状況にまでちらついた顔に苛つき、俺は洗面台を思いっきり蹴飛ばす
それでも滴る汗を拭いながら嗽をしていると、後ろの方から扉の開く音がした





「誰も居れるなと言っただろッ…」






大きな声を出して振り向くと、其処には一人の女が立っていた
何だ、お前か
俺の顔色の悪さを見て大体察したのか、口許を手で覆いながら女は目を瞑った



『…、店長…!』


「入ってくるなと言っただろう!」


『でも、でもっ…!』


「聞き分けがないのも大概にしろっ!」



溜め息を付くと、俺は洗面台に再度向き直った
これからの事を思うと、更に視界が歪んでいくのがわかった
するとまた這い上がってくる、吐き気
ゼェゼェと喉の掠れた音を立てながら俺はまたモドす事を覚悟した

しかし



「…!」



俺の背に当てられた小さな手に
その吐き気は何故か吹っ飛んでしまう
慌てて後ろを振り向くと何のことはない
お前が俺の背に手をあて、擦っていた

冷たい空気を押し退けて、俺に触れたその手は
直ぐにでも払い退けたかったが
もう、その気力もなかった



「……俺は、戻らん」



お前を背にして静かにそう呟けば、お前の手が離れて行くのがわかった



『何言ってるんですか!勝負はまだ分からないんですよ!?』

「もうねぇんだよ…此方に策は…」

『だからって、戻らないなんて…!』



お前は声をあげて反論してくる
だが、もう駄目なんだ
何がどう転んでも、彼処からの救済はない
勝てるわけがない
彼処まで来てしまえば、全ては終わり




俺の、負け





破滅







今日、だった
今日だけ、だったんだ
今日さえ凌げば何の事はなかった

俺の未来は潰れたりなどしなかった
何も持たざる者に、何故俺の未来が奪われる?

俺はスーツのズボンのポケットに入れていたひとつの箱を取り出すと
じっと見詰め、ただ泣いた

これももう、実る事はない



そう、うちひしがれていた時だった





『店長の大馬鹿っ!!!』



「なっ…!」






怒号に肩を震わせ、再度お前の方に振り返ると
お前は凄い形相で俺を睨んでいた




『今諦めてどうするんですか!!何としても勝たなきゃ駄目なんです!私達はッ…!!後ろ向きになって白旗あげて、何が残るって言うんですかっ!勝たなきゃ…駄目なんです!』




勝たなければ





駄目






勝たなければ、勝たなければ
俺に未来を掴むチャンスは無くなる

箱を片手で握り締め、もう一度ズボンのポケットにしまうと
目の前の鏡に映った自分を見詰めた
何と情けない顔をしているのだろうか
そんな自分自身を恫喝するように、睨み付け、奮い立たせた
今、自分の中に眠っている勝負への熱




そして






「おい」







未来を掴みとる為の勇気を





「……先に帰ってろ」

『えっ…?』

「まさか忘れたわけじゃないだろうな、今日の午後7時ホテル前で待ち合わせだと」

『…て、店長。突然何を…勿論忘れていませんけど…!』

「勝つ」

『え…』

「勝って、何としてでも今日の約束は守る」

『…、店長…』

「だから、先に帰ってろ。…遅れるな」

『…………はい』




泣きそうになっているお前の震えた声
暫くして扉の開く音が聞こえ、お前がその場を去った事を認識する
俺は顔を洗いながらもう一度鏡に映った自分を見詰めた
そうだ、此処で奮い立たなくてどうする?





「…掴むんだ、…俺の未来を」





こんなところで、ましてやこんな日に
負けてたまるか



ネクタイを締め直して髪を手櫛でとき直し
自分の身なりに満足した俺はその場を後にする

戦場に戻ると、異様な熱気はまだ続いていた
それに臆す事無く、一歩一歩踏み締めて行けば
身体を熱が支配した
奴とは目が合わない
今は飛んで塵になりそうな策でも縋り付き
奇跡を望むしかない


ふと、戦場から目をそらすと
制服から着替え私服のまま店を後にしようとしていたお前が目に入った
その後ろ姿から何故か目が離せなくて、片手で拳を握りお前が姿を消すまで見送っていた






必ず、必ず間に合って





渡すんだ、お前に









歓声と悲鳴に包まれた戦場
俺の心臓はまた、確かにどくんとひと鳴りしていた
まだ、俺は「生きている」
勝たなければ行けない
今、俺は
此処で、万が一にも負けるわけにはいかない









此処を乗り越え、俺は必ず到達する
未来を掴む為の、約束の場所に










しかし
その祈りも空しく






俺が約束の場所に現れる事は



二度と


なかった



Sposiamoci


「着ているものを、全て脱げ!」

「…ん?なんだこれは」

「即刻処分、処分しろ!」



俺の背中でカランと投げ捨てられる音がする
ゴミ箱に捨てられたその中で


シルバーの綺麗なリングだけが
寂しげに光っていた





2015/04/30 03:47



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