▼ 第四十二章



今日もまた、何かに追いかけられる夢を見た。

捕まったところで目が覚めれば、見慣れた天井と窓から入り込む月明かりがそれは夢だと教えてくれる。
寝ていただけなのに息を詰めていたのか、胸が苦しくて起き上がる。
気付けば身体は汗だくで指先は真っ白になるほど布団を握り締めていた。

「っ…」

左右を見渡せば見慣れた調度品、きちんと消された行灯から僅かに煙の匂いがするだけだ。

(また…)

あの演練の日から、毎晩こんな調子だった。
生活は以前に戻ったとはいえ、やはり気にかかるのか夢では何かに追いかけられる。
鬼を化け物と称するヒトか、はたまた別の何かか。

桜花が肩で息をしていれば部屋の隅にいた狐の姿の九尾が顔を上げた。

『誰かを呼びますか』
「…大丈夫」
『ですが、もう幾晩も魘されていますよ』

桜花は額の汗を手の甲で拭った。
夜は冷えるというのに汗がびっしょりと手についてきて、桜花は思わず眉を顰める。

「水、飲んでくるから…」
『お供しましょう』
「いえ、一人で平気」

上着を取って袖を通し、桜花は振り返ることなく部屋を出た。
たしんと襖を閉めれば階段の下から見覚えのある顔がひょっこりと顔を覗かせた。

「こんな時間に何やってんだ大将」
「…薬研、それは私の台詞です」
「今晩は俺が寝ずの番だからな」

まだ続いていたのか、と桜花はため息を吐く。

「それは止めるように伝えたはずですが…」
「刀剣も増えてきたし、一振りここにいるだけなら出陣にも支障は出ない」
「仮にも人の身体をしているんですよ?」
「反対されるのはわかりきってたからな。今は一晩を二振りで交代制にしてる」

よっこらせ、と薬研は立ち上がって階段を上がってきた。

「で、どうしたんだ」
「…水を飲みに」
「取ってきてやる」
「いえ、気分転換もしたくて…」

薬研は目を丸くさせた。

「まさか…まだ良く眠れないのか?」
「……」

こくりと頷いて返した。
桜花が良く眠れていないことは刀剣達にも知れ渡っているようだった。
特に薬研には良く眠れるようにと、先日物凄く苦い薬を処方されたばかりで、桜花はそれを思い出すだけで口の中が苦くなるような気がした。



早朝、桜花が部屋を出ると階下には宗三が座っていた。
薬研と交代したらしい彼は薬研から何かを聞いていた様子で、桜花を見るなり呆れたようにため息を吐いていた。

「酷い顔をしていますね」
「女性に向かって失礼ですね…」

恐らく本当に酷い顔をしているのだろうが、桜花はどうでもよかった。
食事が摂れないわけでもないし、昼間に眠くなることもないから実質支障はない。
顔を洗って広間に行こう、と宗三を連れたまま廊下を歩いていれば前方からとたとたと足音が聞こえた。

「主君、おはようございます」

桜花の前で丁寧にお辞儀をしてあいさつしたのは前田だった。

「おはよう。前田はいつも早いですね」
「はい。あの、主君にお手紙が」

前田に手渡されたのは白い手紙のようなものだった。
受け取って裏を見てみれば、知らない名前が書かれていた。

(誰だろうか…)

他の審神者との友好関係は皆無な桜花に宛てた手紙など、ここに来てからは一通もない。
取り敢えずそれを開いて見れば、達筆な文字が綴られていた。



部屋に戻った桜花は手早く余所行きの着物に着替え、またすぐに自室を後にした。

先ほど受け取った手紙はある審神者からのものだった。
彼は先日あの演練の会場にいたという。
そんな前置きに桜花は一瞬身体を硬くしたが、読み進めていくうちに用件は鬼や自分のことではないということがわかった。しかしその文末に書かれていたのは桜花も予想していなかった衝撃的な内容だった。



「主、一体どうされたのですか」

自室を出たところで今日の近侍である一期と会った。
桜花は問いかけに答えず、険しい表情のまま一期に告げた。

「出かけます。一期、すみませんが付き添ってもらえますか」
「は…」

返答を待たずして歩き出した桜花の後を、我に返った一期が追った。

「主、出かけるとはどちらに…? それに、先ほど予定をすべて遠征に切り替えたと部隊長から報告が―――」
「万が一にも出陣先でケガをしても、すぐに手入れができないからです」

桜花はそう答えて足を止めた。
表情は変わらず険しい。

「少し…時間がかかるかもしれません」

どういうことか、と一期は眼差しで桜花に訴えかけると少ししてから桜花は口を開いた。



『突然このような文を差し上げたこと、ご容赦願いたい。』

書き始めはこうだった。
審神者をしているという彼は、近々審神者を引退するのだという。
それに伴って刀剣達は他本丸に移ることが許されるが、しかしながらその殆どは刀解という形になるそうだった。
主が代わることを望まない者、また他の審神者の力が宿った刀剣を身近に置きたくない者。
それぞれを考慮した結果、刀解となるのだという。

それはさて置き、その次から綴られていた文章の方が桜花にとっては衝撃的だった。



一期を伴い、桜花はこんのすけに頼んでその審神者の本丸へ赴くことになった。
他の審神者の本丸へ行くなど、と一期はあまり良い顔をしなかったが、桜花が折れずにいれば彼はそれ以上何も言わずに桜花に付き従ってきた。

様々な手続きを経て、最後に身を清めてから桜花は立派な門の前に立っていた。
門の横には数字が書かれており、それと手紙の差出人の本丸の号を確認して桜花は一つ頷いた。

「こんにちは」

そう声をかければ、門は重々しい音を立てて開かれた。

他人の本丸に来るのも勿論初めてな桜花は、その風貌は自分の本丸に似てはいるもののやはり何かが違っていると思った。
開いた門の先には一振りの刀剣が静かに立っていた。

(歌仙兼定…)

いつもにこやかな桜花の歌仙とは違い、彼はどこか寂しそうにそこに立って桜花を見据えていた。

「ようこそ。主は中で待っているよ」

そう言って桜花を促した歌仙に誘導され、桜花は一期を伴って本丸内へと足を踏み入れた。

庭を吹き抜ける木枯らしが枝を揺らしていた。
廊下から見える庭を一見し、桜花はまた歌仙に続いた。
本丸からは人の声は愚か、その気配すらなく随分と寂しく感じた。
一つの部屋の前で足を止めた歌仙はその障子戸に向かって声をかけた。

「主、客人だよ」
「ああ…、入っていただいて」

中から男性の声が聞こえ、歌仙はすぐに戸を開けた。
そして桜花に振り返り中に入るよう視線で促してきた。
後ろの一期が緊張したように息を飲むのが聞こえたが、桜花は構わずに部屋の中へ入った。
畳の香りのするその部屋はくすんだ天気のせいか薄暗く、その中で座布団に座る審神者の表情はあまりよく見えない。

「よくお越しくださいました。さぁ、どうぞ」

彼はそう言って桜花に座布団を勧めた。

「失礼致します」

桜花が静かにそこに座ると、その斜め後ろに一期が控えた。
それを見た彼が小さく笑ったのが空気を通して伝わってきた。

「ああ…、一期一振がいるのですね…」

羨ましいと言うよりもどこか安堵したような声音で、桜花が静かに顔を上げるとその審神者と目が合った。
初老の彼は年齢のせいとはいえ随分と痩せ細っている気がした。
彼の歌仙が一期と同じように控えるとすぐに彼が口を開いた。

「まずは、突然あのような文を差し上げ申し訳ございません」

そう言って彼は丁寧に頭を下げた。
倣って桜花が浅く礼を返せば、彼は続けて口を開いた。

「重ねて、無礼を承知の上で貴方様に確認させていただきたいことがございます。…本丸のことで」

少しばかり空気が張り詰めた。
背後の一期が少しだけまとう空気を変えたのが、その姿を見ずとも桜花にはよく伝わってきた。

「貴方様は…あの本丸にいた刀剣達を率いていると、そう伺っております。つまりそれは、別の審神者が顕現した刀剣を貴方様は自分の刀剣と同じくして扱える、ということですね」
「…おっしゃる通りです」

彼が何を聞きたいのか、それを探りつつはっきりと言葉を返す。
そんな桜花の様子を覚ってはいるだろうが、彼は穏やかな空気を変えることなく話を続けた。

「素晴らしい力をお持ちなんですね…。ああ、貴方様をお呼びしてよかった」

言っている意味がわからず、聞き返そうとした時だった。

「そんな貴方様にお願いがございます」

声音が硬くなったのがわかり、桜花は開きかけた口を再度閉ざした。
一度頭を垂れた彼は、やがてゆっくりと顔を上げると桜花を真っ直ぐに見つめた。

「私の…刀剣を一振り、貴方様に引き取っていただきたいのです」
「っ」

後ろで一期が鋭く息を吸った。
向かい合って座る男性の歌仙が表情を変えたので、桜花はすっと一期に振り返る。
動揺しているのが見て取れて、桜花は小さく声をかけた。

「一期」
「…申し訳ございません」

深く息を吸い、それをゆっくりと吐いた一期は目を伏せたまま桜花にそう返した。
桜花は改めて男性に向かい合った。

「失礼致しました。一期一振は、件の本丸に残された刀剣でして…」
「それは、こちらこそ…誤解を招くような言い方をしてしまいましたね」

一呼吸置き、男性は続けた。

「実は…私には、もう審神者としての能力がほとんど残っておりません。刀剣男士の顕現や出陣どころか、手入れまでも…。何一つ、満足にできなくなってしまったのです」

霊力の枯渇だと彼はそう説明した。
そうなってしまっては、これ以上審神者を続けていくことはできない。

「私は、おそらく元の生活に…戻ることになります。そして、今残されているのはここにいる歌仙兼定と貴方様に引き取っていただきたい一振りのみ」

ちらりと彼が歌仙に視線を送れば、歌仙は立ち上がり部屋を出て行った。

「…その一振りを、なぜ私に?」

桜花は静かにそう尋ねた。
男性は目元を和らげ、どこか遠くを見ているようだった。

「あの、演練の日…。私が見たのは刀剣男士に信頼を寄せられる一人の審神者の姿です」

桜花が目を見開いた。

「そんな審神者の元で…どうか、刀剣として、この日の本を守ってもらいたい。それが…私の、審神者としての最後の願いです」

歌仙が部屋に戻ってきた。
その手元には一振りの刀があった。
桜花はその美しく輝く刀を一見し、それから男性に向き直る。
恭しく両手を畳に付き、ゆっくりと頭を下げた。

「今まで、お疲れ様でございました。お申し出、謹んで頂戴致します」

精一杯の敬意を払ってそう告げた。






―――続


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