まさに硝子が割れる音だった。だが空間一個構成している量の硝子だ。その音量は凄まじいものだった。

空間の崩壊。
それが示すのは"泥"によるなまえの自我の崩壊。精神崩壊だ。

頭上から降り注ぐ"泥"はまさに滝のようだった。出口を見つけたそれが一気に押し寄せてくる。
"泥"が降り注ぐ穴は次第に大きくなり、さらには別の場所からも新たに"泥"が流れてくる。

"泥"は硝子の床に落ち、その面積を広げゆっくりと侵食していく。
不意にその"泥"が俺の足先に触れた。


その瞬間俺の中に流れてきたのは恐怖絶望悲壮哀痛そして孤独


思わず顔を歪めた。息が詰まった。ないはずの心臓が痛んだような錯覚がした。苦しかった。

硝子を踏む音が聞こえた。水気の多い"泥"をの中を構わず走る足音が聞こえた。
我に帰って顔を上げると降りしきる"泥"の向こうになまえが見えた。硝子を踏んだのも走り出したのもすべて彼女。

"あいつ"は頭を抱えている。肩はさっきまでの余裕とは逆に激しく上下している。足元には"泥"が広がっている。
俺と同じように何も知らないまま"泥"に触れたんだろう。

走るなまえが飛び上がった。その右足が"あいつ"を目掛けて放たれた。既のところで気付いた"あいつ"が顔を上げなまえの蹴りをその腕で防ぐ。なまえは再び"泥"の上に足をつき次は右拳を突き付けた。だが"あいつ"はそれすら防いでしまう。"心象世界"と同調しかけている"あいつ"はある程度の動きなら予想することができるのだろう。

俺もイワンも動けなかった。イワンの思惑がどこにあるかはわからないが、少なくとも俺はそうだった。

一人で立ち向かうなまえの姿が俺たちの知らない彼女の四十年を見ているようだった。確かに彼女は孤独だ。人間として生きた時間よりも俺たちと一緒にいた時間よりも独りでいた時間が圧倒的に長いのだから。
きっとその孤独は誰にも理解されないだろう。されていたのなら今この空間に"泥"はない。なまえも理解してもらおうなんて思っていない。

負けたくなかったのだろう。"泥"に呑まれて自我を失う前にもう一度仲間に会いたい。針の穴に糸を通すような小さな希望だけを頼りに生きてきたのだ。

黒く濁った水飛沫が上がった。足元に溜まった"泥"に足をつける俺にその振動が伝わってくる。
振動をたてたのは"あいつ"だ。その体を完全に"泥"に浸しているのが見えた。
その上に馬乗りになっているのはなまえ。機械の詰まった細い腕で"あいつ"の首を絞めていた。ぎりぎりと中身の音が聞こえそうになるほど力が籠っている。気道を確保できない"あいつ"はもがき苦しむことしかできない。




「こわくないわけ、ないじゃない。でもあのころにもどるのは、もっとこわい。みんなといっしょがいい。いっしょにいるためには、ひとりにならないためには、あなたがじゃまなの!!」




その手に一層の力が籠った。"あいつ"の体はもう暴れない。
なまえもそれに気付いているだろう。だが"泥"に蝕まれつつあるなまえの悲しみは止むことをしらない。

"泥"に浸かった足を引き抜いた。一歩ずつなまえに近づいて行く。びちゃびちゃと嫌な音が響く。その足音に気付いたなまえが振り返り顔を上げて俺を見た。
目元は赤く腫れ悲しみに暮れた涙の跡が残っている。
俺は汚れることなんてお構いなしに膝をついた。どうせここは"心象世界"なんだ。次に目を覚ました時には全部が元通りになってるはずだ。俺の服だって未だ目を閉じたままであろうなまえだって。

なまえが馬乗りになる動かなくなった"あいつ"の体が溶け出していた。形を保つことの出来なくなった"あいつ"は"泥"と同調していく。
これが"あいつ"の望んでいたなまえになるということだった。"あいつ"はこれでなまえになることができたのだ。皮肉な話だ。

顔を上げないなまえの肩は小刻みに震えていた。"あいつ"を葬り"泥"に呑まれて周りが見えていない。このままではイワンが危惧していた"心象世界"の崩壊が始まってしまう。

だが俺に何ができるというのだろう。

イワンは俺がいればいいと言った。この世界を構成するのはほとんど俺なのだと。知っている。だから甘やかした。俺に見せるその笑顔がそういう意味を含んでいると気付き尚更甘やかした。なまえはもっと素直になるべきだ。

だから俺は何も言わずになまえを抱き寄せた。

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