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__ 5/17(幾ハム)

「おかえり」
いつもと違う相手からの出迎えに一時停止する。思わずぎゅっと寮の取っ手を握る。ラウンジには幾月さんただ一人がそこにいた。いつもの定位置のソファでコーヒーカップがテーブル上に乗り、湯気を立てている。
扉を閉めながら発した、ただいま。という言葉がラウンジに響く。いつもより大きく、上擦った声だった。緊張とか、なんか色々なもののせい。

「流石に今日は静かだなー。ちょっと来る日をしくじったかな?」
「……そうかもしれないですね」
幾月さんは気にせず私に笑いかけ、そう話を振ってくる。私も慌てて言葉を返して笑ってみるけれど自分でもわかるくらいにぎこちなくなった。呆れられたのかもしれない。変な子とか思われたりしたのかもと頭の中はごちゃごちゃだった。逃げるようにキッチンへ向かおうとすると幾月さんから声がかかる。
「試験勉強は大変結構だが、オジサン少し寂しいかもしれんよ」
なんて、どうやら私を逃がす気は無いらしい。

さっきの幾月さんの言葉の通り、寮内はしんとしていた。ラウンジにはいつも誰かいて、声で満ちているのが普通だ。でも、明日が中間テストだ。寮の仲間達はほとんど今日一日部屋に篭って勉強をしている。一日中外で遊んでいたのは私だけだ。
キッチンでコーヒーのスティックの封を切ってマグカップに粉を注ぐ。ふんわりと香ばしい香りが鼻腔を擽る。
外は5月だけれど、まだ風は強く、寒かったから暖かいものが飲みたかった。キッチンに向かったのはそのため。本当は自室の近くにある自動販売機でも良いのだけれど、キッチンにあるコーヒーやココアのスティック、紅茶のパックは桐条先輩が勝手に使っていいと言うのでお言葉に甘えている。普通のよりも美味しくて、それでいて節約に繋がる。
ポットにはお湯がまだ温かい状態で入っていた。幾月さんもここで作ったのだろう。時間がかからず出来上がったコーヒーに砂糖を大量に入れてかき混ぜる。

いつもの調子が狂ったのは、ただいまという言葉この人にかけるのはなんだか無礼を働いている気を私にさせたからだ。
この人は理事長で、顧問で、大人。年とかそういうのは知らないけど、私より立場はずっと上の人だ。だから、罪悪感というか、なんというか、申し訳なさっていうか。いつもならゆかりや桐条先輩だったりと仲間がいるから、そんな事は心の端っこなのに。
目上の人に対する帰ってきた時のうまい返し方があったらいいのにと思う。今考えても全く思いつかないけれど。

出来上がったコーヒーを持って近くのソファーに腰をかける。いつもは桐条先輩が座る場所だ。少し後ろめたいような気分に駆られるけれど、それ以上にしん、とした空間が重苦しい。
そもそも、幾月さんと二人きりになる事はこれが初めてだった。いつもは桐条先輩だったり、真田先輩が幾月さんと話している。元々、こうやって幾月さんと何かを話す事も滅多にない。だから何を話せばいいのかも分からない。話せる事を考えてみるけれど、果たして幾月さんに釣り合う内容なんだろうか。
例えば、昼間は長鳴神社で小学生の女の子と遊んできた話。
赤いランドセルにお団子髪の女の子。舞子ちゃんという子でいつも一人で居るという噂だったから、一緒に遊んだ。
そこで二人でしかできないシーソーで遊ぼうと誘ってみたのだけれど、お尻が痛くなると断られた。最近の女の子は難しい。と少ししょんぼりしたけれど、また遊ぼうねと手を振ってくれたのは嬉しかった。
そんな話。つい数時間前の話だ。
同学年の子には話せる内容ではあると思う。ゆかりとか順平とかなら今度はジャングルジムにすればいいとか言ってくれるかもしれない。もしかすると付いてきてくれるかも。
けれど、幾月さんの前ではこんなことすごくくだらない話に見えてくる。相手がつまらない話をして失望されるのは嫌だ。誰であっても。
そうやって考え込んでいると、幾月さんの方が先に口を開いた。

「昼間も外へ出ていたみたいだけれど、君は勉強しなくていいのかい?こっちに来て初めてのテストなのに」
助かった。と思う反面少しだけムッとする。キッチンに行く前に少し寂しいかもなんて言うものだから、私はソファーに座ったのに。これじゃあ、勉強していない私が悪いみたいになってしまう。
「大丈夫ですよ。普段から予習復習はしっかりしてますから」
誰かさんと違って。というのはコーヒーと共に流し込む。時折聞こえる叫び声の主に向けてだ。テスト前で切羽詰って参ってしまっているのだろう。あんまりうるさいとゆかりから怒号が飛ぶ事になりそうだとぼんやりと思う。もしかすると既に一、二回は飛んでいるのかもしれない。
幾月さんは「そうかい」と満足そうにコーヒーカップに口をつけ、それからまた沈黙だった。気まずくて甘ったるいコーヒーの量だけがどんどんと減っていく。

「……あ、」
「どうかしましたか?」
「理科の予習はバッチリかなんて?」
「……ええ、まぁ」
なにか重要な事と思ったのにそんな事か。内心溜息を付いてしまう。時々炸裂するこの駄洒落は少し苦手だ。面白いわけでもなく、微妙というのが相応しいのかもしれない。いつもどんなリアクションを取ればいいのか良くわからず、曖昧に返事を返してしまう。今だってそうだ。けれど、いつも幾月さんは対して気にも止めていないようだった。もしかすると空気を変える為だったのかもしれないなぁ。とは少し思ったけれど、もしそれなら不発に終わったことになる。また沈黙の始まりだ。と思った矢先、幾月さんが口を開く。

「……僕のことは苦手かな」
「えっ? いや、そんなことは……」
「君は思っている事が顔に出てるとよく言われないかい?」
「……言われ、ます。ついこの間順平に。ゆかりとのやり取りが面白くって、でも笑っちゃいけないよなぁと思ってた時とか……あ、あと! 食べたいものをつい目で追っちゃうとか…、ってごめんなさい、なんか」
「……なんか?」
幾月さんが聞き返す。なんか?だなんて、幾月さんが絶対に口にしそうにない崩れた言葉だ。
「幾月さんこういうのつまらないかなー……って」
そう言うとくすくすと笑われた。
「そんなことを気にしていたのかい。もっと気を楽にしてくれて構わない。好きな事を話せばいいさ。君の話が聞きたいって言ったらいいのかな」
なんて返されると頬がカッと火照るような気がした。気がするんじゃなくて、火照っているんだろう。まるで子どもみたいだ。いや、子どもだけど。大人ぶったことばかり考えていたのが途端に馬鹿馬鹿しくなってくる。
わざわざ苦手なコーヒーを選んだり、ミルクは入れたことが目に見えてしまうからと砂糖だけを大量に入れてみたり。テストだって平均点くらい取れていればいいなんて思っていたのにばっちりなんて見栄を張っていたのだ。
本当に、馬鹿馬鹿しい。

「……じゃあ、私の今日の話を聞いてくれますか」
「もちろん。大歓迎だよ」

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