P4 | ナノ



__ あなたのいる世界で息をする(足主)

※海外転勤エンド

デッキで携帯を握りしめる。次の乗り換えまではあと四十分かかるが、腰を落ち着ける気分ではなかった。ぼんやりと電車のドアの隅に寄りかかって車窓を眺める。既に稲羽を離れてから三十分が経過しようとしていた。都心に近付くにつれ霧は薄れ、段々とそれ間を見せる。東京は晴れだと出る前のニュースではやっていた。ここしばらく陽の光を浴びていないから久しぶりに陽に当たったら溶けてしまうんじゃないのかな。とか考える。溶けていなくなれたらいいのに。
携帯はあれから一度も震えていない。数分おきに携帯を開いては閉じ、開いて閉じを繰り返すのもそろそろ馬鹿らしかった。どうせ来ないのは知っているのに。

三月三十一日。その日の霧は比較的薄かった。しかし、曇りなのは相変わらずで、俺に向ける仲間の顔も相変わらずだった。仲間からの言葉はよく覚えていない。「また遊びに来い」とか「気軽に電話して」とかその辺りだったんじゃないかな。なんて。当たり障りのないさよならの仕方だ。稲羽の前の学校でも似たようなことを言われた。俺から電話をすることなんてなかったし、勿論されることもなかった。所詮世辞だ。分かっている。
仲間の挨拶など、見送りなど本当はどうでも良かった。約束していたのだ。あの人と。見送ってくれると約束したのにあの人は来ないばかりか永遠の別れを告げてきた。
海外へ転勤になったらしい。どこへ行くのかは聞けなかった。ただ一方的に話して切られたのだ。もう繋がらなくなると言っていた。身勝手にも程がある。酷い人だと思った。あの人とは深い関係にあると思っていたのは俺だけだったということが深く傷を付けられたかのようにじくじくと痛むようだった。

庇わなければよかった。とは思ってはいない。俺が勝手にやったことだったから。償って欲しいというより俺のそばにいて欲しいと身勝手に、何より一番に思ったのは俺だったから。
それに対してあの人が何かを言ったことは無かったけれど、一緒に暮らした数ヶ月はその証明なのだと思っていた。でも、向こうはそうとは思っていなかった。俺の勘違い。それだけだ。実際俺にはそう対して興味も無かったのだろう。それか、俺が図々しかったか、めんどくさいと思われていたかだ。俺はことある事に足立さんと一緒に居ることを望んでいたから、しつこいと思われていても仕方がなかった。本当はあれだけ愛だの恋だのを二人で繰り広げたというのに。とは思わないでもないのだけれど。
考えれば考えるほど不毛で、答えのないことを考えるのはもう疲れていた。疲れていたのに、やはり考えるのをやめられない。

「……っ、わ」

突然手の中で携帯が震え、驚きで思わず取り落としそうになる。携帯を開くと非通知だった。通話のボタンを押して、耳元に当てる。迷いや躊躇いは無かった。むしろ期待だ。それなのにもしもし。と問う声は震えている。電話の向こうで相手が笑う。
『ね、君もう僕と二度と会えないとか思って泣いてた?』
はあっ、と一息、溜め息に見せかけたなにかを吐く。溜め息じゃない。だから、泣かないための深呼吸のようなものだ。足立さんの想像通りにはなりたくなかった。二度と会えない。そう思っていたから二つも当てられるのは癪に障る。
今更だけどなんだかんだで俺はずっと足立さんに怒っていたらしい。あまりにも簡単だった。
「……はは、まさか。そんなわけないでしょう? 約束を破ったからどう呪い殺してやろうかと」
怖いなぁ。そう言って、けらけらと足立さんは笑う。目には見えないが、浮かべている表情はなんとなく想像ができて怒りは既に燻り始めていた。
『冗談はそれくらいにしようか。今空港からかけてるんだけど、あと十分で出発なんだ。だからあんまり時間が無い。だからよく聞いて欲しい』
「まるで映画みたいなセリフですね」
『そうやってふざけると二度と僕と会う機会を無くすぞ?』
「……わかりましたよ」
仕方が無いから了承するというような声を出して俺は黙った。怒りはとうに霧散してしまい、愛しさだけが残っていた。二度と会う機会を無くすぞ? だって? 会いたかったのはきっと足立さんの方だ。

「ええ、……ええ、……はい……それじゃあ、また」
最後の別れの挨拶は何とも軽いものだった。



「あの……えっと、よろしくお願いします」
深々と礼をするとあまり興味の無さそうな声で行くよ。と声が降りてきた。体を起こすと足立さんはもう既に踵を返し、歩き始めている。慌ててキャリーケースを引っ張り、肩にかけた大きなボストンバッグを太股で蹴りながら足立さんのあとを追う。人の多い空港で足立さんは人ごみに瞬く間に消えたが、足立さんは遅いよ。と途中で俺を待っていてくれた。俺からキャリーケースをひったくると先導する様に少しだけ先に、そしてゆっくりと俺のスピードにあわせるように歩いてくれる。
「なに笑ってるのさ」
「いいえ、別に? 久しぶりに会ってうれしかったんです」
「……へぇ」
「へぇ。って。冷たい反応ですね」
「……そうかな」
「……そうですよ」
沈黙。お互い久しぶりに会ったせいで言葉の交わし方を忘れてしまっていた。あの電話から一年以上だ。当然だった。
こうも時間が空いてしまったのは受験期間には流石に両親には言い出せなかったせいだった。そもそも何と言えばいいのかわからなかったというのもある。十も離れた年上の男性と付き合っていて、イギリスに会いに行く?などとは口が裂けても言えるはずがない。ようやく時間が取れたのは大学に進学した夏休みだった。
その間ただの一度も会わなかったどころか、声も交わさなかった。俺から連絡を取ろうにも足立さんの連絡先は知らなかったのだ。その代わり、手紙は何度かやり取りをした。それも他愛もない近況報告ばかりだったけれど。
だって恥ずかしいじゃないか、紙の上で好きだとかそういうのは。

「着いたよ、降りて」
「ん、……」
少し寝ていたらしい。足立さんが肩を揺らしてくる。あれからあまり会話は重ねなかった。ああ言われてしまったら俺もなんて話せばいいかわからなかった。ずっと会いたかったはずなのに伝えたかった事など、話したかった事など忘れてしまっていた。言葉にしようとして口篭る。上手くいかないのはひどくもどかしかった。
空港を出て、地下鉄に乗って、それからバスを乗り継いだ。色々歩いたりして最早どこにいるのかよくわからない状態だった。電車は降りた駅も足立さんにつられるまま曖昧だ。バスも寝てしまっていたのでここがあの駅からいくつ離れてどのバスに乗ったのかも覚えていなかったが、日は暮れてしまっていた。
疲れとか眠気とかなにやらで覚束無い足取りの俺の手を引いて、アパートにたどり着く。足立さんの手は思っていたよりひんやりとしていた。
それから、エレベーターに乗せられ、足立さんは四と示されたボタンを押した。行き先は知っている。四〇五号室。住所だけは知っていた。

部屋の中は一般的に言えば綺麗でも汚くもなく、普通というべき様子だった。稲羽の時と比べればリビングのテーブルの上も床も物が転がり、紙が乱雑に置かれている訳ではなかったから、綺麗といっていい。
「はい。とーちゃく。お疲れ様」
「……」
ドアが閉まると一方的に足立さんに掴まれていた手が解かれた。それが名残惜しいような気がして足立さんを見ると、ぱちりと目と目が合う。
「……まだ眠い?」
なんだか気恥しい。そう思ったのは俺だけらしく、足立さんは大した表情を浮かべず、そう尋ねる。バスを降りた時程の眠気は無かったが、確かにまだ眠く、肩のバックの重みで方までもが痛く、倦怠感が身体を蝕んでいた。あまり何かを考えられる余裕はなく、ベッドに入ればすぐに眠りにつけそうな勢いだ。
素直に肯定の声を出すと、途端釣られたように欠伸が出る。それに足立さんは小さく笑って、靴は脱がなくていい。と付け足した。今すぐ何処かに消えてなくなりたい。と思ったのは言うまでもない。足立さんの横っ腹を抓ってリビングのソファに荷物を下ろして自分も腰を落ち着ける。座ると身体の重みで深く沈むタイプらしく、座り心地が良い。

「シャワーだけ浴びて寝たら?」
「……浴びたら目が覚めそうです」
もうとっくに覚め始めているとは言おうと思わなかった。足立さんが俺の前を素通りしてバスルームに位置するであろう場所に向かう。準備をしてくれるらしい。
「少し話をしてから寝たらいいんじゃないの」
「さっきまで話す内容が見つからなかったのに?」
「そういう事、普通言う? 君が入ってる間に考えておくから行ってきてよ」
そう言うと足立さんはバスタオルを投げてよこす。ソファの上に置いたバックの中から着替えを取り出して足立さんがさっきまでいたバスルームの方へ入る。やり取りを重ねる毎に昔の調子が戻って来ている。そんな気がした。

シャワーを浴びた後戻ってくれば足立さんは俺の荷物をひっくり返していた。親切心なのだろう。いや、そうだと思いたいと俺が思っているだけかもしれないが、中から足立さんが持ってきて欲しいと言ったレトルトのご飯やら何やらを取り出してテーブルに並べていた。その中にはイギリスの観光ガイドブックもある。俺が近くのソファに座ると、俺の鞄から荷物を出す作業を中断せず、足立さんは俺に背を向けて問いかける。どうやら、話す内容が見つかったようだ。

「折角のイギリス。どこかに出かけたいとかない訳?」
「そう……ですね。ええと……」

口篭ると足立さんはからかうように鼻で笑い、作業をやめて俺の真横に座る。ソファが沈むことによって自然と肩が触れ合う。

「何も考えてなかったの? 旅行じゃなくて留学にしとけばよかったんじゃない?」
「何の為にイギリスまで来たと思ってるんですか?」
「……僕に会いに来てくれたんだろ。夏休みギリギリまで居てくれるなんて本当有難いね」
「本心だかなんだかよくわからない言い方しないでくださいよ」
「……それで? 明日僕は丸一日仕事な訳なんだけど、明日ずっとここで待ってるつもり?」
「ううん、……近くに何かありますか?」
「観光なら大英博物館とか。地下鉄乗り継いで行っても駅からそんなに遠くないし、一日潰せるはず。あとは、これも地下鉄乗らなきゃいけないけど大きなショッピングモールとか?」
「……そういうのは足立さんと行きたいです」
「あー……、うん。それは、まぁ、別に、いいけど……」

気まずそうに、消え入りそうな声で足立さんは頬をかく。普通に出た言葉だけれど、足立さんを恥ずかしくさせたらしい。

「とりあえず、ここからのバスと降りるバス停とか電車の乗り場書いていただけると……」
「分かった。あと困ったらここに連絡して。君なら何事もないと思うけど」
「わかりました」
「定時には上がる。そしたら明日は休みだからね。僕は今からシャワー浴びるけど、君はもう休みなよ。さっきから欠伸堪えてるの分かってるんだから」




行き交う人。日本では見ることの叶わない数百と歴史を見てきたであろう建物。飛び交う声があちらこちらから聞こえてくる。まるで異世界だ。世界は広いと思い知らされ、なんと自分はちっぽけな世界で生きていたのかと思うようになる。なんと素晴らしい経験か!
……と、いうのは事前に調べたイギリスの旅行をレポートしたインターネットのブログからだ。
確かにそうだ。目に映るものすべてが新鮮で、見たことのないものばかりだ。だけれど、まさかこんな事になるなんて。
こんなこと? いいや、知らない土地なんだから多少仕方がないだろう。きっとそうだ。開き直って何かが変わる訳でもないのだけど。仕方がないと思い直せば少しだけ心が静まるような気がする、ような。そうでないような。
それにしても。ここはどこなんだろう。
結局のところ、出掛けたのは地下鉄を使って少し行ったショッピングモールだった。向こうで買おうと思っていた日用品と野菜を少し買って、それから夕ご飯を作ろうと思ったのだ。お世話になるのだからこれくらい。なんて。
冷蔵庫の中には冷凍された肉などはあったけれど野菜が無かった。持ってきて欲しいとレトルトのご飯を頼まれたということは日本の白米を食べたかったのだろう。だから、カレーを作ろうと材料を揃えた。したのは良かった。
地下鉄を使って最寄りの駅に帰ってきたはいいが、どうやらバス停を乗り間違えたらしい。3番に乗ればいいと足立さんが教えてくれた通りに乗ったはずなのだが、一向にアパートに着く様子は無い。所謂迷子というやつだ。
考えれば降りた駅が昨日降りた風景と違ったような気もする。日本でいう南口、北口というものだろう。もう少し周囲を見ていたら良かったというのは後悔先に立たずだ。
「……どうしよう」
何も変わらないのは考えなくても理解できていたのにそんな呟きが出た。俺の今使う日本の言葉では解決など不可能だ。誰かに頼らなければならない。
足立さんに教えてもらった電話にかけるのは気が引けた。携帯を足立さんの家に忘れてきたことも後悔の一つだ。自分はなんてドジなのだろう。「君なら何事もないと思うけど」そう信頼を寄せた言葉を裏切りたくはなかった。今日は一日中仕事だと言っていたから、迷惑もかけたくはない。一人で帰ることが出来ればいいのだけれど、きょろきょろと周囲を見渡しても、英字だらけで頭が痛い。人も日本人らしき人は一人も見当たらない。なんとかしなければ。そう思う度に焦燥感が募る。肩にかけたトートバッグがずしりと重みを増すような感覚を覚えた。俺が動かなければ、なんとか──

「大丈夫?」
「……ひッ、……?」
上手く声に出せなかった。肩に触れられ、思い切り身体が跳ねる。振り返れば親切そうな男性が心配の色を浮かべていた。そして、男性が何かを尋ねている。
しかし、俺の口からは何の言葉も出なかった。問いかけられている。ニュアンス的にはどうしたの?と言う感じ。頭が真っ白になる。困っていて、此処は何処で、何の通りなのか。と尋ねるのはどんな英語だっただろう。でも、何か言わなければ伝わらない。考えれば考える程地面がぐらぐらとする。
「……、と、すみません。ここはどこですか?」
なんとかぎこちない言葉を吐き出す。目の前の男性は納得したように大きく頷き、独り言のようにロストなんとかと呟いた。そして、早口に何かを喋る。
ここはどこか。間違っていなければそう訪ねているはずだ。教えてくれているのだろうけれど、如何せんついていけない。話し終わったのか男性は口を閉じたが、何一つ分からなかった。
「……この紙に書いてくれませんか?」
アドレス?と紙とボールペンを渡された男性は首をかしげてみせた。addressは確か住所だ。ここの住所を書いてくれるなら有難い。ここの場所が分かりさえすれば、何とかなるかもしれない。足立さんに力を借りるにせよ、ここの場所が分かれば負担は少ないだろうと、頷いた。
「ええ、お願いします」
そうして暫くして紙とペンを返される。ありがとうと礼をすると恐らくどういたしまして、もう大丈夫か?という旨であろうものが男性の口から発せられた。頷き、平気だと伝えると男性はにこりと笑い手を振って去っていく。俺もそれに対して手を振り、男性が見えなくなったところで溜息を吐いた。何とかなった。という安堵の溜息だ。これで足立さんに電話を掛けてもそれ程迷惑はかからないだろう。

「……あれ」

鞄に手を入れて中身を掻き回す。じわり、と嫌な予感が全身を包んでいた。携帯が無い。やってしまった。こういう時にどうして嫌な事は重なるんだろう。家を出る前は携帯を触っていたはずだったのだけれど、テーブルに置き忘れただろうか。ダメかもしれない。どうしたらいい? 流石にこんなところで一人ぼっちになってそのままにはならないはずだ。
頭が痛い。焦りが募る。でも、突っ立っているわけにはいかない。わかっている。少し歩いてみたら何か変わるかもしれない。思い切って通りの角を曲がると、少し広い通りが広がった。少し離れたところに赤いボックスの公衆電話がある。イギリスの公衆電話はどういった使い方だろう。わからない。通りを歩くとパン屋の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。お腹がすいたな。と少しだけ考える余裕ができた。もう英語は懲り懲りだ。
公衆電話に滑り込むと、日本の公衆電話とはあまり変わらないようだった。表示もされていて電話の掛け方も理解出来た。どうやら支払いは後でらしい。短いコール音のあと、電話が繋がる。

「もしもし? 足立さん? あの……っ、」
『───?』
「え? あ、…………、」
息を呑んだ。電話の向こうでは俺を心配する声なのであろうものが響いて来る。少なくとも足立さんではないみたいだった。仕事場の電話だったのだろう。さっきまで英語漬けだったからまた会話をこなさなければいけないことに眩暈を覚える。電話の対応はどうだったか。痛む頭で思考する。

「ええと、こんにちは。……足立さんに代わっていただけますか」
『アダチ……?』
「足立透さんです。……彼は、いますか?」
『ああ! トール? 少し待ってて』
「……ありがとうございます」

お礼を言うと気にしないで。と優しげな声が聞こえて、それから保留の音楽が流れる。
ようやく足立さんに代わってもらえる。なんだかここまで来るのに長かった気がして疲れがどっと寄せてきた。
……帰ったらカレー、作らなきゃ。少し憂鬱だけれど、俺がしたくてすることだからそれはいい。……足立さん、喜んでくれたらいいけど。
そう考えていると保留の音楽が止む。受話器越しに聞こえる声は間違う事は無い。

『もしもし。足立です。どちらさまで?』
「もしもし? 足立さん。すみません、仕事中に……俺、」
『ああ、君か……どうかしたの?』
「……助けてください。ここが何処だかわからないんです」
『……何それ、悪い人に捕まった?』
「いや、まぁ、悪い人に捕まっているのは実際そうかもしれないですけど……そうではなくて、ただどうやって家に帰ればいいのかわからないというか……、その……」
もごもごと、お茶を濁す。迷子になった。などと言葉にするのは躊躇われた。実際に迷子なのは確かだけど、認めたくないような。そんな感じだ。
『携帯は? 地図とかGPSで……』
「それが、家に置いてきてしまって……」
『要するに公衆電話から掛けてるのか。ドジだな、君は。一旦私用の電話にかけ直して貰っていい?』
「ええ、番号だけ教えてください」

伝えられた番号をメモして一旦受話器を置く。緊張の糸がするりと解けたようだった。教えて貰った通りの電話番号をかけるとすぐに繋がる。もしもし。と受け取る声は足立さん以外の何者でもない。朝送り出す時に言葉を交わしたばかりなのに久しぶりのようだ。

『……君、つまりは迷子って訳だよね』
「そう……ですね。恥ずかしながら。ああ、でも、ここの通りの名前とか住所は教えてもらいました」
『本当? ちょっと読み上げてみせて』
「よく分からないのでメモを代わりに……、……んん、?」
メモを取り出し、読もうとした俺の言葉が止まる。ここはイギリスのはずだ。黙り込んだ俺に足立さんは待ちきれないように早く。と急かす。
「あの、……ええと……か、カナダ?」
『カナダ? 今朝会った君は生霊? その人になんて言ったのさ』
「ここがどこかって聞いて、聞き取れなかったのでこの紙に書いて欲しいって言ったんです。addressって住所ですよね?」
『それ多分聞いた相手の住所じゃないかな。相手が何を思ったのかは知らないけど』
はぁ、と足立さんが息を吐く。溜息を吐きたいのはこちらも同じだ。今日はついていない日だ。振り出しに戻ってここがどこかという事からのスタートだ。
「……あの、……すみません」
『いいよ、僕の言う通りにバスに乗って降りたなら見当はつく。その通りに何がある?』
「パン屋がありました。いい匂いがしてましたね。パンがそろそろ焼けるのかも。赤い屋根です。それと近くに靴屋があって……」
赤の電話ボックスからきょろきょろと視線を回して辺りを見る。店の名前、屋根の色、分かる限りの情報を伝えると足立さんは相槌を打ち、俺の言葉を幾らか繰り返すと、分かったかも。と言った。
「本当ですか?」
『多分行ける。すぐに行く』
「えっ、……お仕事は?」
『事情を話したらさっさと帰れだってさ。ついでに明後日も休みになった。あと十五分くらいかかるからパン見ててもいいよ』
「いや……ここで待ってます。そういうのは足立さんが来てからでいいですから」
『分かった』
電話は足立さんの方が先に切った。十五分など大したことはない。と思うのはスコールが降るまでの話だったけど。


あれから数分。空が少し傾き、陽が沈み始めていた時。ぽたり、と自分の頭の上に水が一滴落ちてきたと感じた途端、一気に降り始めた。傘は──これまた忘れてきたので無い。イギリスは天候が変わりやすいのをすっかり忘れていたのもある。雨宿りするにもあまり動くと足立さんに会えない可能性があるからほんの少し出ているパン屋の軒下をお借りしている状態だ。ほとんど意味もなく、服は半分くらい濡れてしまっている。
雨足はまだ引かないようで、傘を持って俺の前を行き来する人達をトートバッグの中身が濡れないように抱えて眺めるしかない。足立さんはどっちから来るんだろう。と通りの先を見ると黒い折り畳み傘を差した人が駆け寄ってきた。見間違えなどしない。するはずがない。

「足立さん……!」
そう、名前を呼んで駆け寄ると、息を切らした足立さんが何ともないか。と俺を上から下まで確認するように眺めた。
「はい。大丈夫です。びしょ濡れになった以外は。……でも、あの」
「なに?」
「……いや、やっぱりいいです」
怖かった。とは言えなかった。足立さんは深く追求しない。ただ、傘の中に招き入れ、それじゃあ、行こうか。と利き手から折り畳み傘を持ち替え、俺の左の手の甲に右手の甲を擦り付けた。意図を汲み取って手のひらを重ねると固く握り締められ、肩が触れ合うくらいまで密着する。アパートに帰るまでそれは続いた。





「……悪かったよ」
カレーをスプーンですくい上げて足立さんはそう言った。
カレーの出来栄えはそれはもう美味しかった。自画自賛という訳では無い。……いや、そうともなってしまうのかもしれないけれど、足立さんが手伝ってくれたことや一緒に食事を食べている相乗効果というやつでより美味しかった。あの通りのパン屋で買ったフランスパンにつけて食べるのも、出来たてが買えたからだろうか、いくらでも食べれるような気がした。
「どうして謝るんですか? 迷ったのは俺で、携帯を忘れたのも迷惑を掛けたのは何もかも俺のせいなのに」
「……いや、そうじゃなくて。僕がイギリスになんて行かなければ良かったなって。そうしたらこんな事にならなかったし。あの時、君と僕じゃあ釣り合わない。君にはもっと幸せな人生がある。とか考えてたんだ。だから君がついてこれないように電話で行き先も告げなかった。……ま、空港で我慢出来なくなっちゃったけどさ」
「あの電話、嬉しかったですよ。あの後泣いちゃうくらい」
「本当?」
「本当です」

なんだか言っていて恥ずかしくなった。それから、ほんの少し無言が続いて食器とスプーンがぶつかる音だけが響く。お互い気まずいような空気だった。
泣いたのは嘘ではない。あの後、足立さんから電話が来た後のこと。俺はデッキで泣いた。理由は電話が来て嬉しかった。それだけだ。あの時点で俺は薄々と知っていたのだと思う。足立さんがイギリスに行く理由も、なにもかも。そうじゃなきゃ、ここまで来ない。足立さんが呟く。

「……君には何を返したらいいのかなっていつも不安になるよ」
「……何故?」
「君には何かをしてもらってばかりだ。イギリスに来てもらったし、稲羽でもそうだったけど、ご飯を作ってもらった。いくら払ったら良いんだろうって」
この人は分かってないんだな。と瞬間的に思う。別にものだけが成立するわけじゃない。それに、これは貸し借りの問題でもないだろう。好きな人に会いに行くのも、食事を作るのも当たり前だ。見返りなんて欲しいわけじゃない。
「足立さんがいてくれれば、もうそれで俺は充分です」
そんなのでいいの?と言いたげな顔を足立さんはしてみせる。やっぱりわかってないみたいだ。
食べ終わった自分の皿を重ねると足立さんは俺の真似をして皿を重ね、揃ってキッチンへ向かう。稲羽の時はしてくれなかったのになぁ。と思うけれど、深く推測するのはやめておく。
足立さんに食器を洗うのを任せ、コーヒーをいれる為にお湯を沸かしにかかる。
「君はあと二週間くらいしかここに居られないだろ。僕はまだ一年半イギリスに居なきゃいけない。君とずっとはいてあげられないよ」
「いいえ、離れていても繋がっている」
「……君の大好きな絆ってやつか」
足立さんは馬鹿馬鹿しいと嘲笑した。その絆はもう足立さんと幾らかの人としか残ってない。
「ええ。その代わり、イギリスから帰ってきたら俺の隣にいてください。会わなかった分はそれでチャラです」
二人分のコーヒーを作ってソファまで持ち運ぶ。やはりこのソファは座り心地が良い。足立さんも昨日のように隣に深く座る。
「君って本当平然と恥ずかしいことを言うよね」
「そうですか?」
「……まぁ、いいや。一緒に住むくらい、なんてことない。明日は何がしたい?」
「観光……と言いたいところですが、英語はしばらく聞きたくないです」
「何処に居ても僕らは出不精なのかな」
「一緒にしないでください。明後日は観光しますよ?」
「……さぁ、どうだかね」



[back]


「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -