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__ 差し出す夜はすきとおる(足主)

5月。
桜の花はすっかり散って青々とした葉が茂り、サワサワと音を立てている。梅雨が近づいている為かそうではないのか今日の霧の濃度はいつもより濃い。濃いけれど、俺の視界は良好だ。理由は簡単。この時期の霧の濃い日は眼鏡をかけるようにしているから。
しかし、この世の中はこの霧のせいで玉突き事故、電車の遅延と交通機関にちょっとした不都合が出ていた。流石にそれは俺にもどうしようもなく、巻き込まれて帰るのが遅くなってしまった。今日は足立さんの方が帰るのが遅い予定だが、先に帰っているかもしれない。そう考えると自然に早足になる。スーパーの袋がしゃかしゃかと俺のスラックスに擦れて音を立てる。
マンション前の緑道の桜が咲いていた頃は本当に綺麗だった。霧がない日は。の話だけど。

「……あれ、」
ぽつり、と道端に立つスーツでふよふよとした髪、後ろ姿だけでわかる。足立さんだ。
声が聞こえたのか油の切れた機械のようなぎこちなさで足立さんはこちらを向いた。目を細めている。俺は眼鏡をかけているから足立さんの表情はよく見えるけど足立さんにはわからないようだ。足立さんが見えるように近付いてみると、嫌なところで会ってしまったというそんな顔をしていた。
「……あ、ああ、君? 丁度良かった。僕のことマンションまで背負って連れて行ってよ」
いつもならへらりと笑い「奇遇だね」とか何とかで肩を並べて帰るというのに口から出たものがどうしてか拒絶の色を含んでいる。そのくせに、背負えなんて。
「どうかしたんですか?」
「足が棒になった」
「……ええと、要はお疲れなんですね」
「うん。お疲れだから背負って。マンションの前までいい。代わりにその荷物は持つ」
足が棒になったというのを再現でもするように足立さんはずりずりと靴底をアスファルトにすりつけながら数歩俺に近付いた。それからスーパーの袋を取り上げ、袋の中身を見れば「さては手抜きだな?」と目だけで俺を責めてくる。中身は惣菜の切り干し大根とパックに入った唐揚げだ。俺だって面倒な時もある。明日も早いし。ご飯を作るのは交代制だけど足立さんは冷凍食品だとかレトルトだとかにしてるんだから、別にいい。(まぁ、足立さんは料理が上手くないからおあいことはいかないのだけれど)

「ほら、帰りますよ」
「…………」
足立さんの手首を掴んで歩く。が、いい顔はやはりしていないように見えた。下を向いているせいで顔色はよくわからないけど、ほとんどずりずりと引きずられるように俺に従っている。革靴の踵が擦れるのも気にしないのはおかしいような気がした。いや、背負えという時点でおかしいか。
兎にも角にも家には帰らなければならない。俺はお腹がすいているし、足立さんもそうだろうから。後ろで引きずられる足立さんとは反するようにキリキリと歩いていると足の裏に違和感を感じた。思わず足を止める。下を見ていた足立さんはそのまま俺の背にぶつかった。
「……足立さん」
「なに」
振り返れば鼻を押さえて不服そうな声を出す。思わず笑いがこみ上げてくる。
本当、この人は可愛い。
「もしかして、毛虫のせいでこの道を通れなかったんですか?」
毛虫が出てきたのはここ2、3日のことだ。マンションを選んだのはまだ桜の時期じゃなかったから知らなかったし、毛虫の事は考えていなかった。
「…………さっき踏んだよ」
「俺も今一匹踏んじゃいました」
成程、そういうことか。先程の様子にも合点がいった。今苦い顔をしている足立さんは大の虫嫌いだ。大人の癖に。というのは叔父までもが被害を被るので言えないことだ。俺だってグリンピースとか舞茸とかが食べられないし。
そういえば前に足立さんは黒光りする例のアレが出たとき、俺が来るまで真冬だというのに家の前で待ってたことがあった。カフェで待っていたらいいのに。と言ったらそういえばそうか。というような今更気付いた顔をしていたのは本当に面白かった。馬鹿にしてるって? お互い様だ。

「ちょっとじっとしててください」
足立さんの両脇に腕を通して抱える。言葉通りじっとしていた足立さんは容易に俺の腕に収まる。所謂お姫様抱っこ。
「馬鹿、背負えって言っただろ。上の部屋のカップルに見られたらどうするの。猫を飼ってる隣の部屋の一人暮らしの女の人とかさぁ」
そう言う足立さんは腹の辺りにスーパーの袋を乗せ、俺の首に腕を回した。言葉と真逆の事をしている。余程嫌なのだろう。回された腕が首筋が擽ったく、ひやひやとした感覚が巡る。でも嫌じゃない。
「足を捻ったと言えばいいんです。というか、……太りました?」
「概ね君のせいだ。……霧がひどくなければこんなことにならなかったのに。失敗したな、マンションに面した道が桜並木なんて」
「でも近くに美味しい寿司屋があります。あと、パスタのお店も」
「あー、まぁね。わざわざ出掛けなくともベランダでお花見できたし、君の作ってる野菜も美味しいし。……っていうか、君、もしかして踏んでる……?」
「え? ……まぁ。しょうがないでしょう。足元見えないですし、踏んでおけば明日足立さんが困らないかと。それに、俺も蛾好きじゃないので」
言っていて鳥肌が立つ。毛虫を踏んでいるからじゃない。虫は平気だけれど、蛾だけは苦手な虫だ。翅に描かれた目のような模様が俺を見透されるような気分になる。黄土色の翅から鱗粉が飛ぶ様も好きではないし、似たような色をした木製の柱に止まっているのに気付いた時のぞわりとする感覚も嫌だ。時々、ものとモノの隙間にびっしり蛾が居るのではないかとよくわからない妄想が過ぎったこともあった。夢で一度見た事があったから。……まぁ、これは少し病的かもしれない。考えすぎというものだ。
君、と呼ばれて視線を少し下に下ろすと、頬に足立さんの呼気が当たる。俺の胸の音も聞こえてしまっているのかもしれない。
「帰ったらちゃんと靴の裏洗ってね。僕のも」
「わかってますよ」


マンションの手前で足立さんを下ろす。もうこの辺りには毛虫はいない。流石に手が痺れてしまった。成人男性を抱えるのはやはり厳しいみたいだ。
「いつからあそこに?」
「……10分くらい。人は誰も通らなかったし、別に。霧が晴れるまで待ってた」
当たり障りの無い答えに同じく当たり障りの無い答えを返す。俺を待っていたの間違いだろう。というのは言わないことにした。抱えている間足立さんの耳は赤みが指していたし、終始きょろきょろとしていたからもう恥をかくのは御免だろう。それと、後が怖い。
「明日から一緒に帰りますか?」
「時間が合わないからダメだ」
「じゃあ、これあげますよ。魔法の眼鏡」
眼鏡を外して手渡す。黒縁で仲間の印のような弦にカラフルな線が入っている。5年経って傷は少しついたがまだ機能としては使えるものだ。それを足立さんが受け取り、掛ける。眼鏡の縁を軽く押さえて、さして長くない睫毛がぱしぱしと瞬きを繰り替えふ。見慣れない足立さんの眼鏡姿だ。似合っているというよりは違和感の方が大きい。
「君こんなの持ってたの。すごいな、霧が晴れて見える」
「凄いでしょう? これなら一人で帰れます」隣で階段を登る足立さんは外をしきりに見回している。俺達の住む階層は3階だ。7階立てのこのマンションはエレベーターはあるけれど使うのには微妙なところだ。太ったと聞いたのが気に触ったのか今日は階段を選んだ。
「……なんか、そういうのに使うものじゃないんだとは何となくわかるけどね。くれるの?」
「足立さん運転とかもしますから使ってくれた方がいいです」
「じゃ、有り難く。……なんかいい匂いがする」
すん、と鼻を鳴らして足立さんが言う。俺もさっきから思っていたことだ。肉の焼ける音と白煙が見え、子供のはしゃぐ声が聞こえる。唐揚げだけじゃ足りなかったかもしれない。冷蔵庫に卵があったような気がしたから、適当にもう一品作ろうか。
「お隣の親子が焼肉をやっているんだと思います。父親が帰ってくる日いつもそうですから」
「へぇ、いいなぁ。僕らは惣菜なのに」
「明日は足立さんの番ですよ。魚でも焼いたらどうですか?」
「……炭にしてもいいなら?」
「それは困ります」
苦い笑みを浮かべて鍵をドアノブに差し込んで、回す。足立さんはよくわからないけど面白そうだからで料理を作りがちだ。見よう見まねでフランベと勘違いしたのか何なのかワインを大量に入れてみたりとかなんだりで、よそ見もよくする。つまみ食いも。レシピ通りにすればいいものをつまらないとかで失敗もする。
「なら明日はシェフの気まぐれ豚肉と季節の野菜オイスターソース炒めにしよう」
「……それ、ただの野菜炒めですよね?」
「そうとも言うね」



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