愛していたのです。 愛していただけなのです。 ただそれだけだったのです。 それすら罪だとおっしゃるのですか。 「ええ、それは利己です」 利己を貫いた結果です。 因果応報なのです。 【紅葉狩、伍】 「こうして紅葉は命を落としました。紅葉が真っ赤に染まる季節。以来水無瀬は鬼女が去った地、鬼無里と呼ばれるようになったのです」 「……」 女の言葉に、俺は一瞬だけ呼吸を止めた。鬼無里――それは俺が生まれ育った里だからだ。 心臓を冷えた手のひらに鷲掴みにされるような不安感に、息を呑む。すると能面のような無機質な表情を携えた女が、俺の様子に僅かに笑んだ気がした。 得体の知れない恐怖が背筋を這い上がる。 一体この女は何者なのか。何故こんな話をするのか。俺を誰と勘違いしているのか。 まさか、あれを知っているわけではあるまい。 冷え切った指先を叱責するようにきつく握り締めた。 「雨が」 「!」 「やみましたね」 「あ……ああ」 途端に変わる話題に俺は何故か身構える。同時にこれでここから解放されるのだと悟った。捻った足の痛みも落ち着いてきている。まるで何かに急かされるように、ぞんざいな礼を口にして俺は立ち上がった。――出口は、確かこの障子を明け右に進んだところだ。早く帰ろう。 いつの間にか立ち上がり、俺の背後に立っていた女に僅かに肩が震えた。女は薄い唇の間からお歯黒を見せ、不気味な笑みを浮かべてこう続けた。 「道中お気をつけて。業は、廻るものでございます」 * 一体なんだったのだろう。 ようやく獣道を抜け出したところで、大きく息を吐いた。辺りは沈みかかった日に照らされ、真っ赤だ。視界を赤一色に染める夕焼けは、無意識にあの女の話を思い出させた。 そうしていつの間にか足の痛みも忘れて、山の麓まで降りてきた。ここまで来れば、家はすぐそこだ。僅かに乱れた呼吸を整えるようにゆっくりと深呼吸を繰り返した。 ――同時だった。 「圭太」 「!」 聞き慣れた声が耳朶を撫でる。俺は心臓が凍り付く思いがした。深く息を吸い、呼吸を止める。振り返った先には、見慣れた柄の小袖を纏う若い女がいた。 ――呉乃。あの女、やはり呉乃と。 俺は一歩、後ずさる。 呉乃とはかつて恋仲であった。しかしそれは昔のことである。今の俺には伴侶がいる。呉乃はそれを機に村を出ていったと聞いた。だというのに、女の執念とは甚だ醜い。眉を寄せ呉乃を睨むと、彼女は僅かに痛みに耐えるように笑んだ。 「圭太、私、圭太を許すわ」 一歩、彼女はこちらに歩み寄った。どこか覚束ない足取りが、無意識に不安を掻き立てた。 「やや子も、やっぱりダメだったの」 「!」 「ごめんなさい」 二歩、三歩、四歩。 「でも、私頑張ったのよ、頑張った、のよ」 五歩、六歩、七歩。 「あ、ああ、あい、していたの、ほんと、ほんとなの」 八、九、十。 「愛していただけなのに」 距離が無くなる。 呉乃はその細い肢体をすり寄せてきた。そして枯れ枝のような腕を俺の背中に回した。驚くほど強い力だった。 「あなたが私を裏切るから」 背中に冷たさが突き立てられる。それはスッと背中から胸を貫通した。次いで焼け付くような激痛が全身を巡る。目を見開き、呉乃を見た。 「くれ……の、お前……」 「私の腹を殴って、余所の女を選んだあなたを許すにはこれしかなかったの」 「……!」 「やや子は流れてしまった。私たちより先に極楽にいるわ。だから、行きましょう。私たちも。謝りましょう。そして」 背中に突き刺さった何かが抜かれる。出刃包丁だ。真っ赤に染まった出刃包丁は、再度確認するように俺の腹に突き刺された。肉を裂き、内臓を抉り、大量の赤が吹き出される。体を支配する激痛に耐えきれずに倒れ込む。 「かぞくで、しあわせに、なるのよ」 口内いっぱいに広がる生臭さと鉄の匂いに咳き込んだ。喉の奥からせり上がってきた熱を舌で押し出す。血の塊が地面に散らばった。眼球だけを動かし、未だに目の前に立っている呉乃を見やる。彼女をこちらを見ては薄気味悪い笑みを浮かべ、再び刃を構えた。 「しあわせに――」 呉乃が、己の喉に出刃包丁を突き刺した。視界が赤一色に染め上げられる。血管から噴き出した血は、辺りに紅葉のように舞った。 すぐ目の前に落下してきた彼女の顔に、俺は絶命していく心音を耳にした。 辺りは、真っ赤だ。 紅葉狩/了 20120224 |