お前はやっと授かれた私たちの子なのよ。 たったひとりの、大事な大事な子なのよ。 大切な大切な、家族なのよ。 母さまのお言葉がしんしんと頭に積もっていきます。 ゆっくりと降ってきて、優しく地面に赤を敷き詰めていきます。 私は上を見ています。 薄い氷を張ったような空を見ています。 そこから剥がれるように落ちる赤は、赤子の手のひらのようです。 泣きながら縋る、幼子のようです。 「つねわかまる」 母はお前を愛することができたでしょうか。 母さまのように、私はお前を愛することができたでしょうか。 ゆっくりと辺りを覆う赤が、そっと私の目を覆いました。 「つねもとさま」 ――経基様。 あなたは私を、愛してはいなかったのですね。 ならばあの女ごと呪い殺してやれば良かった。 【紅葉狩、壱】 「呉葉」 母の声が聞こえた。いつにもまして沈んだ声であった。襖の隙間から滑り込んでくる風は、まるで蟒蛇のように肌に巻き付いては熱を奪っていく。小袖の口を握り締め、体温を逃すまいと私は身を強ばらせた。襖の向こう側に感じる母の気配が、流れ込んでくる冷えた風に震えた。 玄関が開いている。だから風が流れてくる。戸は開けっ放しだ。客人が訪れてきたのだろう。 おおよその見当はついていた。 父の困惑したような固い声が鼓膜を撫でる。 また、あの卑しい男が来たのだ。あれほど婚姻を断ったのに、また来たのだ。私は思考の片隅に冷えた感情がくすぶるのを感じた。 平々凡々たる会津の地の夫婦が、私の両親であった。土にまみれ、田畑を耕す父と母。ありきたりにしてありがちな貧しい農民であった。彼らは私を生んだという。私は彼らから生まれたという。 しかしどうにも分からない。 私には彼らが親とは、思えぬのだ。理由などない。体の奥深くに根を張る何かが、親との間に得体の知れない溝を掘っていた。どんなに優しく接してくれようと、どんなに真摯に接しようと、どうにも溝は埋まらぬのだ。私が年を取れば溝は更に深くなった。賢くあれと言ったから、賢くなったはずなのに。 医学を身に着け教養を身に着け、しかしどうにも、その為に得た知恵は煩わしい思考を鳴らしている。 懐疑ばかり植え付ける。 母は私とは似ていない。 父は私とは似ていない。 私は彼らとは似ていない。 はて、親とは斯様なものなのだろうか。 老いてゆく親に時折哀しげに瞼を伏せるたび、母は私にこう言った。 「こんな所はお前には似合うまい。都へ上がりなさい」 言われるたび、私は普通であろうと首を横に振った。此処でいい。此処で充分だ。たとえ溝を感じようと、私は両親を愛している。両親は私を愛している。その事実だけで充分だった。 だが、そろそろ潮時なのだろう。 濁声が響き、母の悲鳴が後を追って藺草の匂いに融けた。目の前の襖が開く。小綺麗な着物に身を包んだ男が目の前に現れた。いっそう大きく飲み込むように肌を包む冷気に、私は眉をひそめる。目の前にふてぶてしく仁王立ちをする豪農の息子に視線を向けた。 この男が私にしつこく求婚を始めたのは、去年の暮れからだ。父も母も、迷惑をしている。何度断ってもやってくる。まるで蟒蛇のような執着心だ。 私ももちろんそのようなものに興味はない。卑下な男のものになってたまるか。だがどうにもここらが限界である。 どうすればよいだろうか。 ――男の顔の部品を見つめる。 賢いのなら考えねばならない。 ――どんぐりのような眼だ。 策を探さねばならぬ。 ――分厚い唇。 見つけねばならぬ。 ――浅黒い肌。 すべを。 ――煌びやかな衣などに合わぬ汚らしさだ。 ――術を。 そう。 私が嫁ぐことが事態をおさめる容易なこと。 しかしそれは解決ではない。 私であって私でないもの。 私の代わりが。 そうだ。 身代わりを。 代わりを用意すれば良いのだ。 私の代わりを作ってあてがえば良いだろう。 嗚呼、良い考えだ。 「わかりました」 「!」 「婚礼は、十日後にいたしましょう」 「呉葉!」 母が悲痛な声を上げる。目の前の醜い男は、卑しい笑みを貼り付けた。まるで蝦蟇のようだ。男は満足そうに出直すと言っては踵を返す。父も母も私の言葉に、ただただ呆然と宙を見つめるだけだった。 そんな2人に、私はまるで悟りを開いたような清々しさで語りかける。 「父さま、母さま」 「呉葉、何故あのようなことを」 「さあ、都へ参りましょう」 「?」 「私は私の代わりを用意いたしますゆえ、さあ、ここを離れてしまいましょう」 怪訝な顔をする父と母に私は笑みをいっそう深くした。 この程度のこと、造作もありませんわ。 私は賢く強くあるあなた方の子ですもの。 十日後、彼の豪農の家には私の傀儡が嫁いだ。 それを見届け、私たちは都に向かった。 これが私たちの倖せなのだ。 20120211 |