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 その日も雨が降っていた。
 傘を差しながら、学校に向かっていた。
 義兄の「いってらっしゃい」という言葉と、姉の怒鳴り声を背に家を後にした。
 学校は、家の近くのバス停からバスに乗って15分のところにあった。私が入学する2年ほど前に校舎が新築され、その隣には古びた木材で固められた旧校舎がある。
 旧校舎は、そのうち取り壊されるのだろうが、今現在は民間の施設のような扱いでそこに置かれている。この間はそこでボランティア団体が講演会か何かをしていた気がする。
 その日も、確か、どこかの画家の個展があった。名前も聞いたことがないような、そんなひっそりとした無名の現代画家だった。
 だから旧校舎を覗いてみようと思ったのは、ほんの好奇心からだった。友達がバイトや塾で校舎から出ていく背中を見送りながら、雨で帰るのも億劫で、気まぐれでその個展が行われている旧校舎の1階の教室に足を向けた。作品が展示されているのは、確か1年2組の教室だ。
 ぎしぎしと軋みを上げる床板を踏みしめながら、上履きに履き替えて廊下を進んだ。人の気配はない。無名の画家だから、誰も興味はないのだろうか。高校生でそういったものに興味があるのは、美術部くらいか。
 昇降口から入って、廊下を右に曲がる。するとすぐに「1-2」と書かれた表札と、そのドアの前には展覧会の名前が書かれてある。
 廊下はしんとしている。外から思い出したかのように雨音が響く。古びた校舎の木材の匂いに鼻の奥がつんとした。……違う、校舎の匂いではない。美術室を連想させる。絵具の匂い?
旧校舎に入るのは初めてではない。なのに、その空間は奇妙なまでに外と切り離されて見えた。雨で湿った空気が、そこだけ切り取ったかのように浮いている。ふと、ここまで来て更に先へ進むことが躊躇われた。

「どうぞ」
「!」

 雨の音が膜のように包む空間で、その声は波紋するように響いた。
 びくりと肩を震わせると、教室の入り口に女性が立っている。
 20代後半くらいだろうか。ジーパンにシャツというラフな格好だった。緩くウェーブのかかった髪をひとつに束ね、肩に流している。
 こちらを見て弓なりに細められた瞳に、とっさに反応できなかった。そっと手招きされ、ぎこちない足取りでそちらに向かう。

「良かった。初日に美術部の子が来てくれただけだったから」

 その言葉を聞きながら、敷居を跨ぐ。絵具の匂いがぐっと濃くなった。同時に、くすんだ色に満ちていた視界が、急に色づく。空気がひやりと肌に張り付いた。

「ゆっくり見ていってね。……ああ、私ね、ここの絵の作者。本当はちゃんとした案内の人つけるんだろうけど、ごめんね、そこまで有名じゃないから」
「あの……」
「なあに」
「いえ、ひとりで、ずっとここにいるんですか」

 どうしてそんな問いが出てきたのかはわからない。ただ、何か言葉を返さなくてはと必死だった。このまま黙っていては、きっと絵具の色に飲みこまれてしまう。ここにある、絵画の1つ1つになってしまう。そんな気がしたのだ。
 自分を手繰り寄せるように、自分の存在を確認するように、その言葉を吐いたのだ。

「ちゃんと休憩はありますよ。だた、開いてる間は誰かいないと」

 私しかいないんだけどね。
 ひどく楽しそうに、その人は笑った。
 それから、他愛のない話をしながら、彼女の絵を見ていたと思う。
 彼女の絵は、風景画や静物画がほとんどだ。ただただ、じっとそこにあるものを額縁に押込めたような絵だった。何度も塗り込められた絵具の分厚さや、筆の軌跡、そこから漂う絵具の匂いに、ひとつひとつ時間を止めた絵画たちが個性を宿してこちらを見つめている。彼女は絵画の説明――といっても、どこで描いたとか、その時モデルに使用した林檎は実は傷んでいたとかだったが――をしながら、私の3歩前を歩いて言葉を紡いでいた。スリッパの音と、彼女の声が擦れて耳に馴染んでいく。

「あの」
「なあに」

 先ほどと同じように、問いに対して楽しげな声が返ってくる。
 それに対し、静物画や風景画が多いこの空間の疑問を問うた。

「じ、人物画とかは、描かないんですか?」
「私、そっちの才能ないみたいで。昔描いたらすごく嫌がられちゃった」
「嫌がられた……」
「うん。下手なの。単純にね。人の顔って、上手く描けないのよ」
「そうなんですか。結婚とかは、してるんですか? この時間に、こうやって仕事してると夕飯とか……」
「ああ、去年離婚しちゃった」
「! ご、ごめんなさ」
「謝らないで、謝らないで。むしろすっきりしてる。ひとりが楽なの。私は、存外ひとりでも平気みたい」

 そう言った彼女に、姉の「ひとりじゃ生きられないでしょう」という言葉がよぎった。ふつりと沸いた小さな熱に、頭の奥がくらりとする。

「どうかした?」
「いえ、ここの個展、いつまでですか?」
「来週まで。良かったら、今度はお友達も連れてきてね」
「はい」

 その日から、私は毎日のように彼女を訪れた。
 いつもいつも、旧校舎にも、1年2組の教室にも、人の気配はない。彼女がひとり、多くの絵画に囲まれてひっそりとそこにいる。乾いた絵画の匂いと、旧校舎の寂れた匂いに囲まれて、しんと冷えた空間に彼女はいつでもいる。まるで絵画の群れに仲間外れにされたように、ぽつりと教室の中心に佇んでいる。寂しくはないのだろうか。話に聞く限り、彼女はこの旧校舎を開けている時間、開ける時の手続きと帰りの際の声かけ以外で人と接していないと聞く。……もちろん、それはこの仕事中という切り取られた時間のみだが、なんとなく、その切り取られた時間の彼女しか知らない私には、彼女が途方のない孤独を抱えているように見えて仕方なかった。そしてその出口のない孤独を、屈託なく楽しんでいるように見えた。
 訪問の回数を重ねていくに連れ、一方的でも親近感と距離の縮まりを感じていた。少しずつ口数が増える。質問の回数が増える。自分のことを話す機会が増える。彼女は、その全てを楽しそうに聞いていた。
ひとりでも平気な人は、誰かといても楽しそうにできるのだろうか。そんなつまらない疑問が沸いては消えていった。
 そして6度目の訪問の時、彼女は「今日は特別」と言った後に隣の教室へと移動し、そこで自前のものなのか、珈琲を淹れてくれた。適当に引っぱりだした机を二つ向かい合わせにし、椅子を用意して、向き合って座る。
 手元へと差し出された珈琲からは、白く透明な湯気が立ち上っていた。

「いいですか、こんな、誰か来るかもしれないのに」
「誰も来ないよ」

 ふふ、とおかしそうに笑いながら彼女は言った。一体どこにそれをしまっていたのか、紙袋を取りだし、中から透明なセロハンの袋に詰め込まれたクッキーを取り出す。がざがざと尖った音を立てながら、彼女は取り出したクッキーを、ハンカチを広げてその上に並べた。
 細く白い指が、流れるような動作でクッキーを並べてく。丸く細長い爪はピンクのマニキュアに覆われていた。なめらかに、ムラなく爪の表面を覆うそれは、まるで爪が最初からその色をしていると感じさせるほど、指先に馴染んでいた。
 この白い指が、この空間を多く色とりどりな絵画を描いてきたのか。
 そう思うと、不思議な気分になった。

「いつもありがとうね。あなたが来てくれなかったら、私、すっかりここにいることに飽きてた」
「いえ、そんな。どうせ部活とかやってないし、家帰っても、特に何をするわけでもないし……」
「お姉さん夫婦と暮らしてるんだっけ?」
「はい」
「いいなあ。私もお姉さん欲しかったかも」
「そんな、全然いいものじゃないですよ。……ああ、いえ、私の姉はっていう話なんですけど」
「喧嘩しちゃうのね?」
「……いえ、姉は、たぶん、私の事なんか、何とも思ってないと思うんです」
「どうして?」
「いつも、いつも、あの人は気分で私に対する対応を変えるし、私のことなんか全然見てないし、何も知らないし、何も、解ってない」

 ――わかってない。
 あの日、両親の葬儀のあと、突き刺すように差し出された手を思い出す。
 『あなたひとり人じゃ生きていけないでしょう』
 そう告げられた言葉の先の意味を、思い出しては奥歯で噛み潰した。あの人は何も知らない。いつもいつも、他人に頼っては甘えて、自分の感情を吐き散らすことしか知らない子どものような人だ。そんな人に、わかるはずがない。上辺しか見ない人にわかるはずがない。
 私がどれだけ我慢してきたか、私がどれだけ本音を抑えてきたか、私がどれだけ怒りも苛立ちも殺してきたか。それでどれだけ姉が自由に振る舞えたか、甘えを恥ずかしげなく表に出せたか、どれだけ思うように生きてこられたか。
 私の中で燻る小さな不満が、如何に限りなく悪意へと近づいた感情か。
 『だって』
 私の中で育っていった感情が、如何に泥ついて濁っているか。
 『あなたは』
 私の中に居座る認識の翳りが如何に暗く不透明なものか。
 『自分ひとりじゃ』
 私の中で鎌首を擡げた不安が、如何に分厚く曖昧で幼稚なものか。
 『自分のこと、なにひとつ決められなかったじゃない』
 ――違う。違う。違う。
 決められないんじゃない。我慢して譲ってきたんだ。決定権を譲ってやったんだ。それであんたがどれだけ自由に振る舞えたと思ってるんだ。そんなことも知らずに勝手に決めつけるな。私のことを。私のことを。
 突き刺すように伸ばされた手を思い出す。
 雨の音がうるさかった。
 雨音に自分の声も言葉も全てかき消されていく気がした。
 何も残らず消えていく気がした。意味がない気がした。
 私はひどく苛立っていた。失望していた。自尊心も何もかもを軽率に踏みつけていく姉の言葉にひどい嫌悪と羞恥を感じていた。
 私は。
 私は――。

「悲しかったのね」

 ぽつりと、彼女は呟いた。
 その言葉は、真っ暗な暗闇にすとんと沈んで、ぴたりと馴染んでいく。

「我慢が臆病さととらえられてしまうことも、謙虚さが消極ととらえられてしまうことも、その献身を全て、当たり前のように、相手に自己主張の欠如ととらえられてしまうことも。とても、悲しいことよね」
「……」
「私たちは、決してそんな場所にいないのにね」

 決定的な齟齬を見せつけられて、得体の知れない差異を抱かずにはいられなかった。
 何ひとつ違った方向に進んでいる。間違っている。そっちじゃない。
 私の足元から伸びた影法師を踏みつけて、それが私だと思わないで。

「私、離婚してるって言ったでしょ? 私もたぶん、あなたと似てると思うの。彼が見てた私と、私が見てほしかった姿って、全然一致しないの。笑っちゃう」
「……」
「私たち、何が違うんだろう? 何を間違ってるんだろう? そんな途方のないこと考えてるうちに、ああ、きっと、そういう心の深い部分に触れさせたくない人と結婚したんだって思う事にしたの。そして別れちゃった。別れるとね、結構すっきりするの。そうして好きな絵を好きなだけ描いて、自由に振る舞ってたら、肩の力が自然と抜けてきて、なんだかそういう他人との違いに興味失くしちゃって、でも、昔よりは、息が楽になったかなって」

 さくり、と、クッキーを砕く音が静かに耳に染み込んでいく。彼女はそっと笑んで、スティックシュガーを2本、取り出しては私の手元へと机の上をスライドさせた。

「だから、あなたの幸福な門出を祈っているよ」

 砂糖はいつもいつも、姉の前では珈琲にも紅茶にも入れたくなかった。入れると、いつも彼女に子ども扱いされるようで――見下されるようで、なんだか嫌だった。
 本当は、珈琲も紅茶もミルクや砂糖を入れて飲みたい。好きなだけ自由に砂糖やミルクを入れて、とろりとした甘さに身を委ねてしまいたい。
 彼女が差し出した砂糖を受け取り、珈琲へと落とし込む。さらさらと透明な音を立てて、それは真っ暗なカップの中に跡形もなく沈んでいく。口にしたその甘さに、どうしようもなく泣きたい気分になった。

「今日で個展が終わりなの。これは、いつも見に来てくれた、最後の訪問者であるあなたへのちょっとしたお礼」

 そっと、綺麗な指先に挟まれた透明な袋が机の上に置かれる。どこにでもある、スーパーのレジ袋のような形で、それよりも少し小さめだった。半透明の白いビニール袋で、内側にある青や緑の色が漏れ出している。持ち手を指先に引っ掻けて持ち上げると、驚くほど軽い。何か、おそらく画用紙を丸めたもの入っていて、それが袋をふっくらと膨らませていた。ただ、袋に底に重心が寄っている。小さな小瓶の影が見えた。マニキュアの小瓶にも見える。
 これは? と首を傾げると、彼女は嬉しそうに笑って私を指さした。


「今日までありがとう。さようなら」


 その日の帰り、雨が降っていた。
 学校を出た時に、重たく分厚い雨雲が頭上を覆っていたので予感はしてたが、バスを降りた途端にそれはついに泣き出した。
 ざあざあと途切れない音のベールが鼓膜を覆っている。
 透明な雨が細く長く尾を引きながら地面に向かって一斉に伸びている。
 地面は白く煙っていた。
 バッグの中に手を忍び込ませるが、折り畳み傘はない。
 そういえば、先日雨が降った時に外で干しておいたのを家の中に取り込んでそのままだった。
 手首にかけた、彼女からもらった袋が濡れないよう胸に抱える。
 同時に、ふと、遠くから名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
 一瞬気のせいかとも思ったが、どうやらそうでもなかったらしい。

 傘を2本持った姉が、走りながらこちらに向かってくる。
 その姿に、妙に嬉しくなっている自分がいた。
 雨に濡れたアスファルトから冷たい匂いが立ち上る。
 行き違う傘の色が視界の端で点滅するようにくるくる変わる。
傘を叩く雨の奏でる忙しない音が鼓膜を叩く。
白く透き通る視界の先にいる姉のもとへ、傘も差さずに走り出した。


【end】