死んでしまいたいとは思わない。 ただ、消えてしまいたいとは思う。 生きていたいとは思わない。 でも、自分の死については考えたこともない。 遺すものもない。 失うものも、たぶん、ない。 色彩のないモノクロの映画を見るように現実は淡々としていて、現実味がなかった。 奇妙な離人感だけが脳裏にこびり付いている。 そうやって逃げてきたのだろう。 ▽ 「行ってきまーす」 間延びした声を出しながら、アヤメがドアを閉める音を聞いた。 がさがさと乾いた音をせわしなく立てている手を止め、「いってらっしゃい」と答える。 ドアの向こう側に気配が消えていくのを感じながら、いっぱいになったゴミ袋の口をきつく締めた。 部屋の隅にはゴミ袋が2つ、手元のものを合わせると3つある。 それを除くと、自室は驚くほど殺風景なものだった。 ベッドとテーブルと椅子しかない。 本棚も、そこにあった本も、もう読まないので捨ててしまった。 ベッドの下の収納スペースにしまいっぱなしだった、妻が読んでいた雑誌や、彼女の服や、旅行でお土産に買ってきた雑貨の数々。 今思うと、何故使いもしないそれらを捨てずに今日まで取っておいたんだろう。 彼女が生きていたころは、もちろん彼女がそれらを大切そうに持っていたからだ。 だから捨ててしまっては困るだろうと思った。 使いもしないものを、部屋に置いておくことに関して特に言及するほど神経質でもない。 ただ、今は、その持ち主がいなくなってしまった。 それだけの話だ。 埃っぽい空気が喉をザラリと撫でる。 軽く咳をする。 丸々と太ったゴミ袋を、両手で引きずるように持ち上げる。 明日は、タンスの中でも綺麗にしよう。 まだ、彼女の服がそこに残っていた気がする。 タンスも、捨ててしまっていいだろうか。 あれは確か、彼女の嫁入り道具にと、彼女の両親が与えてくれたものだった。 ……いや、それでは彼女の両親に申し訳ないだろうか。 しかし俺はもう使う機会もない。 アヤメは使うだろうか。 年頃の青年だ。 自分の身なりや外見や服には関心があるだろう。 あの子と年代の差はあれど、今の若者らしい服を違和感なく着こなしていることくらいわかる。 服のセンスはいいのだ。 あの子に自由に使っていいと、今日帰ってきた時にでも声をかけよう。 それまでには、中のものを出してしまわないといけない。 そんなことを考えながら、ゴミ袋を一度玄関へと運んだ。 タンスの片付けは、昼過ぎにしよう。 キッチンに向かい、インスタントのコーヒーを探した。 ▽ 「リョウちゃん、何に対しても無頓着でしょ。そういう私と真逆なところも好きだったんだと思う」 いつだったか、彼女がそんなことを呟くように言った。 あれは、確か、親族の葬儀に参列した時だったか。 ……こうも思い出せる記憶が「葬式」に纏わるものばかりということに、皮肉を感じずにいられない。 俺はそれに対してどんな答えを返したのか覚えてはいない。 何か、無難な言葉を返した気もするし、曖昧に笑って返した気がする。 彼女は、俺の言葉におかしいそうに笑っていた。 「私は、やっぱり、私が死んだときにリョウちゃんには悲しんでほしいな」 「でないと、まるで私がいてもいなくても関係なかったみたいで寂しいもの」 「私がいなくなったら、悲しんで、伝えきれなかった言葉とか、寂しさとか、悔やんでほしいかな」 「誰がいなくなってもあなたは平気そうだから、私だけは、せめて、そのくらい特別になりたい」 「このくらいの贅沢なら、許されるでしょう?」 無邪気に笑いながら、いたずらっぽく彼女は言った。 本心からなのか、ほんの言葉の文のつもりだったのかはわからない。 しかしそんなことを言った彼女は、何の前触れもなく、唐突に、消えてしまった。 まるでその言葉を実行に移させるように、さっぱり綺麗に去ってしまった。 彼女だけではない。 父も母もそうだ。 みんな、みんな、驚くほどその命の在りようはあっけなかった。 生きていたことが嘘のように、彼らのいない日々は生々しく、現実味に欠けていた。 悲しんでほしいと、彼女は言っていた。 自分がいなくなったら悲しんでほしいと言っていた。 しかし皆同じように消えていく現実を前に、抗うような気は起きなかった。 ――彼女がいなくなったって、現実は素知らぬ顔で次に進む。 悲しんで立ち止まれるほど、俺は感情を巧く表出できないらしい。 時間の経過で喪失感が癒されるほど、器用に毎日を過ごすこともできなかった。 俺にできたのは、せめて押し殺すことくらいだ。 それは今も変わることはない。 お前は、知らないだろう。 俺はひどく不器用で、失った悲しみすら、どう表現すればいいのかわからない人間だと、知らないだろう。 そんな女々しいことを秘めているなど、気づかなかっただろう。 知らないだろう。 お前が消えて、俺は――。 ――「!」 不意に、釣り針で引き上げられるように、意識は覚醒した。 視界には、馴染んだリビングの風景が広がっている。 どうやらうたた寝していたらしい。 ソファーで寝てしまっていた。 テーブルには飲みかけの珈琲が佇んでいる。 もう冷め切ってしまっているだろう。 残りを飲む気にはならなかった。 だらしなく背もたれに身を預け、崩れた体勢のまま、ぼんやりと考えた。 久しぶりに懐かしい夢を見た。 眼球の奥が鉛を詰められたように重い。 目蓋を手の平で押すように揉み、痛みに近いその感覚をほぐす。 ……寝不足、ということはない。 最近は仕事もあまり入ってこない。 というより、入れていない。 もちろん自分自身と学生ひとりを養うことを甘く見ているわけではない。 来週には撮影の依頼が来ている。 ……高校の時の友人が就任した小学校で、イベントがあるらしい。 その撮影だ。 その子たちの卒業アルバムに入れる写真を撮ってほしいとのことだった。 フリーのカメラマンになってからは、友人の就職先の依頼を受けることが多い。 知人を経由することもあり、昔よりも仕事がしやすくなった。 裕福ではないが、贅沢を望まなければ生活は苦しくない。 抑揚にかけた平坦な毎日に嫌気がさすわけでもない。 この仕事も嫌いではない。 これでいいと思っている。 ゆっくり立ち上がりながら、タンスの片づけをしようとしていたことを思い出す。 ソファーで寝ていたせいか、関節が軋み、鈍い痛みが走る。 それをやり過ごしながら、飲みかけの珈琲の片づけも兼ねて立ち上がった。 キッチンで適当にカップを洗いリビングを出る。 緩慢な動作で移動しながら、部屋を移動した。 久しく使っていない部屋はかすかに埃の匂いがする。 タンスの上部や引手には薄く埃が積もっている。 それをあらかじめ用意していた雑巾で拭きながら、中のものをひとつひとつ出していく。 タンスはもともと彼女が使っていたものだ。 中にあるものは、必然的に彼女のものになる。 ひとつの段に入っている量は少ない。 思えば彼女はそこまで自分を着飾ることに関心を持ってはいなかった。 いや、彼女は、俺の生活に合わせていたのだろう。 贅沢もわがままも、全て我慢させてしまった。 俺がそういったものを望まないから、彼女も望むこともやめてしまったのだろう。 何かがあるわけでもない、平坦で詰まらない日々だったと思う。 それでも、傍にいてくれることを選んでくれた。 俺は彼女に、何をしてやれただろう。 「……」 どさりと鈍い音をたてて衣服が袋に沈む。 彼女が好きだった色、気に入っていたワンピース、シャツ、スカート。 全て袋に詰め込む。 初めてデートをしたときに着ていた服や、稀の外出で着ていた服、全て、なかったことにするように袋の奥へと押しつぶす。 目の奥が、眼球の裏側が、妙に重い。 1つ目の袋をきつく閉ざし、換気のために開けた窓のそばに置く。 ……意識して外を見ていたわけではいが、ふと、そこから隣の家の玄関が見えた。 ――隣の家の、お嬢さんだろう。 妙に急いた様子で家へと飛び込み、その後を追うようにもうひとり、女性が現れる。 2人は、よく見かける。 仲の良い女性だ。 隣の家のお嬢さんに関しては、最近アヤメが親睦を深めてもいるらしい。 俺が妻と出会ったのも、あのくらいの年齢だったか。 そんなことを思いながら、残りも処分してしまおうと止めていた手に意識を戻いした。 大きめのごみ袋を三つ用意していたが、思いのほかそれは少なかった。 2つめの袋でも充分余裕があった。 残るは一番下のタンスだけだった。 引手は思いのほか軽く、開けたそこには衣服はなかった。 あったのは、どこか見覚えのある缶だ。 おそらくクッキーか何か、お菓子が入っていた缶だろう。 手に取り持ち上げると中からかさかさと乾いた音が響いた。 空ではない。 勝手に見てしまうということに、多少の躊躇いを感じながらも、そっと蓋を開ける。 中に入っていたのは数枚の写真だった。 驚いた。 タンスにこんなものをしまっていたなんてまるで気づかなかった。 どれもこれも俺が撮った彼女の写真だった。 笑っているもの、夕飯の献立に悩んでいたり雨の日続きで洗濯物が乾かず困っていたりするもの、ソファーで眠そうに雑誌を読んでいるものなど、妙に生々しい表情ばかりだ。 俺は、そういう日常を好んで彼女を撮っていた。 彼女も、俺が写真を撮ることに関しては笑って許してくれた。 だが、「あまり恥ずかしいから表情ができてるものにしてほしい」と言われたこともある。 いや、写真を現像して渡すたびに言っていたか。 (どれも律儀にしまっておいたんだな……) 恥ずかしいと言っていたから、てっきり捨ててしまったのかと思っていた。 不意打ちなそれらに、驚きながらも一枚一枚目を通す。 遺影のものより若い写真も多くあった。 出会って間もない頃。 結婚してすぐの頃。 この家での日常。 亡くなってしまう直前のもの。 そうとは知らずに笑っている写真が、皮肉に思えてならなかった。 交通事故なんて、誰も予想できはしない。 仕方がない。 誰を恨んでも、何を憎んでも、何一つこの手に戻りはしないのだ。 深く息を吐き出しながら、缶の一番下にある最後の1枚を手に取った。 「!」 一目で俺が撮った写真ではないとわかった。 被写体は彼女ではなく、俺自身だったからだ。 いつの間に取ったのだろう。 彼女がカメラを手に取ることはほとんどない。 それと同時に、俺はこんな顔をしているのかと、奇妙な感覚にも襲われた。 いつも誰かを撮ることで他者を見ることはあっても、自分自身をカメラ越しに見ることはない。 写真の俺は、自分で思うのもなんだが随分と穏やかな顔をしていた。 写っているのは俺だけだった。 これは、いつの写真だろう。 背景の壁の色から自宅のリビングだとわかる。 衣服から考えると季節は秋から冬にかけてだろう。 この時期にあるものは、これは、確か。 窓から滑り込んできた風に指先で摘まんだ写真が煽られる。 窓の向こう側から、大きな泣き声が聞こえた。 先ほどの女性たちが、喧嘩でもしたのだろうか。 ふと、めくれたその裏側に何か書かれていた。 写真を裏返す。 懐かしい、彼女の筆跡が一言「私の宝物」と綴っていた。 手元にあった写真が、風で部屋中に舞う。 どの写真の彼女も幸せそうだった。 洗濯物が乾かなくたって、夕飯の献立が決まらなくたって、ソファーでうとうととしていたって、彼女はいつだって、そうだった。 ――だから俺はそれを写真に収めたくて。 そうだ。 失われるものだと諦めていたのに、ひどく未練がましいことだ。 何かしら形が欲しかった。 何一つ手元に残らないと分かったつもりになって、それでも何かが手元にあったという証が欲しかった。 せめて、痕跡だけでも欲しかった。 父の写真も、母の写真も、ほとんどなかったのだ。 だからせめて、何か、自分の手元に残す手段を求めて、その結果この職に就いたのかもしれない。 自分の人生を悲観したことはない。 むしろ恵まれていた。 幸福だった。 ただ、それがすでに過去の話になってしまっただけだ。 「……なんで、今更」 そうだ、これは、俺の誕生日に撮った写真だ。 こんなもの、宝物にするなんて。 外から聞こえる泣き声に、きっとつられてしまったのだ。 鈍く重い眼窩から、ふつりとこみ上げた熱がこぼれる。 それを指先で拭う。 写真の裏に書かれた丸みを帯びた「宝物」の文字に、どうしようもなく可笑しくなって、何故だか意味もなく笑えた。 その日、大学から帰宅したアヤメを墓参りに誘った。 仕事以外の外出なんて珍しいと彼は揶揄するように笑う。 「でも、墓参りって誰の」 彼はわざとらしく首を傾げる。 しかしどこか動揺や不安を孕んだ色を目に宿しているのはわかった。 「俺とお前の家族だよ」 「!」 アヤメは一瞬だけ目を見開いた後、どこかバツが悪そうに視線を逸らした。 「リョウタロウさん、なんかあったの?」 彼が俺を「父」として呼ぶ、ほんのひとつきほど前の話だ。 20140501 |