なんで、彼女を選んだんだろう。 ふと、仏壇を前によぎる疑問は、薄く尾を引きながら宙に霧散する。 小さな枠の中で笑う彼女は、何年もその表情を崩すことはない。 彼女が生きた30にも満たない年月は、その表情一つで物語られてしまう。 遺影というものは、ほんの一瞬でその人間の人生を塗り固めてしまうものだ。 彼女が苦しんだ日々も、悲しんだ時間も、泣いた聲も、全てあったはずのものに蓋をして、「幸せな生涯だった」と、遺された者たちへの自己満足で片付けられてしまう。 人なんて、死んでしまえばお終いだ。 空から見守るだとか、星になったとか、風になったとか、目に見えないモノに例えて消えてしまった誰かを恋う。 それは、母の所在を探す赤子をなだめるのと何ら変わりないのではないのだろうか。 いないものはいない。 何かに例えようと、置き換えようと、二度と彼らが帰ってくることはない。 誰もが皆、誰かに置いて行かれる。 そして何時かは置いていく側の立場になるのだ。 それは誰しもが通る道だ。 置いて行かなければならないこと。 置いて行かれなければならないこと。 幼いころに見た絵本。 子供のころに好きだった映画、小説、漫画。 それらがシミを残すように、頭の中に、諦念にも似た考え方を滲ませていく。 仕方がない。 時間の問題なのだ。 俺は、それが少し人より早かった。 それだけだ。 父が亡くなった時も、母が亡くなった日も、彼女を喪った時でさえ、そんな諦めを感じていた。 それらは避けては通れないライフイベントに過ぎない。 俺は人よりそれが少し早かった。 それだけだ。 涙を流して悲しむことも、声を上げて嘆くことも、無駄だとは思わないが、俺はそれに沿って生きられるほど、器用ではないらしい。 だから手持ちのものは、できるだけ捨てられるときに捨ててしまおう。 なんにしたって、荷物は少ない方が楽だ。 遺すべきものは、少ない方がいい。 ▽ 「おじさん、大学行くついでに俺がゴミ出ししておくから」 「ああ、助かる」 アヤメにかけられた声に我に返った。 蛇口から流れっぱなしの水を止め、声の方へと視線を向ける。 萎れたゴミ袋を両手にぶら下げたアヤメは、いってきますと屈託なく笑ってみせた。 今年大学生になったばかりの親戚の青年は、未だ少年らしさが抜けきっていない。 扱いが難しい年頃ともいえる青年期だが、アヤメは思いのほか手のかからない子供だと思った。 彼の両親の育て方が良かったのか、彼自身の気質なのか。 素直な良い子だと、親戚の人間は口をそろえて言った。 だからこそ、そんな彼の両親が、彼の高校卒業を目前に不運の事故で亡くなったことは悔やまれる。 何の前触れもなく彼に降りかかった不幸は、彼にとってどれだけの重みがあったのだろう。 親戚も知り合いも、幸せな家庭が劇的な崩壊を遂げた悲劇を、まるでフィクションを堪能するように騒ぎ立てた。 人間は他人の不幸が好きな生き物なのだと常々思う。 実際、高校卒業を直前にアヤメは、児童養護施設にも孤児院にも入りたがらなかった。 そんな彼を引き取りたいと言った親戚はひとりもいなかった。 ただ無為にその悲劇を嘆き、涙し、一方的に感情を発散させては自己満足で片付けてしまっていた。 「力になるからね」 「なんでも相談してね」 「頑張るのよ」 「お父さんとお母さんの分まで生きるのよ」 そんな上辺だけの偽善を振りまきながら、彼に手を差し伸べた人間はいなかったのだ。 彼自身も、もう子供ではないのだと、大人になるのだからと、そう言い張って誰の援助もなしにひとりでどうにかしようと考えてたらしい。 そんな彼を親戚は「偉いわ」と囃し立てた。 その心意気でいてくれ。弱音なんて吐かないでくれ。そんなことをしたら面倒をみなくてはいけないから。 助けをこちらに求めるなと、暗に拒絶を示しているようだった。 悲劇に触れた人間はどこまでも演技的だ。 慰めも、励ましも、悲しみも、どこか間接的、心からその痛みを感じることなんて当事者でなければとうていできない。 それでも体裁のために悲しみに触れたふりをするのだろう。 アヤメはそれでも、笑って感謝を述べていた。 葬儀に来てくれたこと、焼香してくれたこと、悼んでくれたこと。 彼もまた、上辺だったのだろうか。 そんなアヤメを引きとったのは、先立たれた妻との間に子供がいなかったことも理由のひとつとしてはある。 しかしアヤメは養子縁組を拒絶した。 せめてもと思い、提案したのが下宿という名目のもと、俺が面倒を見るというものだった。 「あんたらにとってはいい見世物かもしれないけど、俺にとってはこれが現実なんだよ」 涙すら失うほどの喪失感を知らない他人に干渉されたくない。 アヤメから聞いた初めての本音はそれだ。 ああ、もしかしたら俺も、こう言いたかったのかもしれない。 妻の葬儀の日、母の葬儀の日、父の葬儀の日。 涙は出なかった。 驚くほど頭の中はクリアで、現実は確かに進んでいるとわかるのに、実感だけはなかった。 この葬儀は本当に妻のものなのだろうか。 棺に横たわる妻の顔は、見たことがない。 彼女がいつも眠っているのは自宅のベッドで、家には俺と二人きりで、こんな大勢の人間の前で狭い箱の中で眠っているなんておかしな話だと思う。 そんな花に囲まれて飾り立てられては寝辛いだろう。 こんな箱では窮屈だろう。 早く家に帰って、天気の良いに干したふかふかの布団に寝せてやりたい。 色とりどりの花の香りよりも、自宅の慣れ親しんだ匂いの方が落ち着いて眠れるに決まってる。 そんなことを、当時は考えていた。 そんな妻の死の実感もないまま、アヤメの両親の葬儀に参列した。 俺が彼に声をかけたのは、自分と重ねていたからだろうか。 養子にならないかと声をかけた俺に放った言葉が、それだった。 アヤメとの生活は苦ではなかった。 子供がいなかったということもあって、接し方には戸惑う部分があった。 最初こそ警戒心の強かった彼だが、ここを自宅と認識してくれているようだった。 (最近お隣さん宅の御嬢さんと仲が良いらしいし……) あの子が普通に暮らせる場を提供できている自分に、そのくらいの価値はあったのだと思いたい。 ▽ 「最近、掃除に凝ってるみたいだけどさ」 朝食の時だったか。 アヤメは不意にそんなことを言った。 玄関には大きなゴミ袋が二つ転がっている。 トーストが齧る唇からパンくずが零れる。 彼は視線をテーブルの中央に向けたまま、無理に平静を装ったように言葉を続けた。 「ここ数カ月でなんか、一気にものを捨てすぎじゃない?」 「……そう、か?」 妻が亡くなってから、アヤメが家に来るまでまともに掃除もなにもしてなかった。 何気なく思い立っては過去のものを片付けてはいるが、そんな指摘を受けるのは不意打ちだった。 「でも確かにまだ使えるものを捨ててるかもなあ。……ああ、もし何か使いたいものがあるなら、俺のお下がりでいいなら使っていいぞ」 「いや、別にそういうつもりで言ったんじゃないんだけど」 「使わないと思ったから捨てただけだよ」 「思い入れとか、ないの」 「……さあ、どうだろう」 そんなもの、ひとつひとつ丁寧に拾い上げられるほど、俺は感受性が豊かな人間ではない。 アヤメはその回答に不服そうに眉をひそめた。 昔、彼に「アヤメという名前は女性のようだ」と何気なしに言ったことがあるが、その時も似たような反応をされた気がする。 つまり彼にとっては「ふさわしくない」回答だったということだ。 こういうところは、彼もまだ子供だ。 「そんなことより時間は大丈夫か」 「え? あ、やば」 バタバタと席を立ち家を出る準備に取りかかる背中を見届ける。 冷め切ったトーストを口の中に押し込み、ふと、先ほどあの子が言った言葉を頭の中で反芻した。 (捨てすぎ、か……) だが、どうにも、今日までの自分の人生は意図せず失うものが多くて、何が必要なのかわからない。 なら、せめて残すべきものは少ない方が良い。 父の時も、母の時も、妻の時も、片付けが大変だった。 俺の時は、そうならないようにしたい。 「……ああ、そうか」 これじゃあまるで、死ぬ準備をしている自殺志願者だな。 妙におかしくて、乾いた笑いがこぼれた。 20140425 |