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7歳までは、神様の子なのだそうだ。

祖母が言っていた。
嗄れ声と枯れ木のような腕を覚えている。
痩せ細った手が私の頭を撫でていた。
あれは、確か、私が小学生になる前だったか。
肺を患った彼女を見舞いに行った、春の午後のことだ。
桜の蕾も今にもこぼれそうなほどに丸々と膨らんでいた。
温かい日差しの中で、白いカーテンの薄い影に隠れた祖母が小さく笑っていた。
目元に深く刻まれた皺の影さらに濃くなる。
私は少しだけ、その明暗が怖かった。

祖母は再度「7歳までは神様の子なんだよ」と繰り返した。
だからたくさん食べて、たくさん寝て、たくさんの事を知って、私の「中身」をいっぱいにしておかないと、神様の指にひょいと摘ままれて天に戻されてしまうのだそうだ。
昔話で、黄泉の国へ行った神様が、戻ってくることができなかったように。
その世界の食べ物を口にし続けるということは、その世界の住人になるということだ。
その世界のもので身体をいっぱいに満たしておかないと、身体があっという間に軽くなって風に吹かれて空に戻されてしまう。
それはとても恐ろしいことなのだそうだ。
祖母はそう言っていたが、私はそう感じなかった。
家族に愛され、神様に愛され、ここにいられなくなっても、帰る場所があるのだ。
それはとても幸福なことではないのだろうか。
自分がどうなったとしても「家」は必ず存在する。
世界は安心と信頼を約束されていて、私たちは守られている。

その話を私にして祖母は間もなく亡くなった。
私は寂しかったけれど、悲しくはなかった。
祖母もきっと帰ったのだ。
彼女は痩せ細っていたから、きっと神様の指に摘ままれて天に戻されてしまったのだ。
たくさん食べてたくさん寝て大きくなって、しっかりとこの世界で生きなさいと言った祖母は、食事の量が減り、痩せていき、一日のほとんどを寝て過ごしているうちに、ひょいと神様に連れて行かれてしまった。
でもそれは悲しいことではない。
それもひとつの「帰宅」であるから。

私たちには帰る家がある。
安心と、暖かさと、優しさと、信頼を約束されている。
私には父も母もいる。
祖父母は幼いころに他界してしまったが、私を可愛がってくれた。
優しくてしっかりものの友人のシイちゃんもいる。
頼りになるケイさんもいる。
私は、自分で言うのもなんだけれど、とても恵まれた環境に生まれたと思う。
私はみんなが大好きだから、みんなも私を大好きだと疑わなかった。
世界はどこまでも優しくて、暖かくて、キラキラしてた。
頑張ればそれは結果に出たし、継続したことはなんでも自分の力になった。
意地悪されても、シイちゃんは味方だった。
悲しいことがあっても、それを越える嬉しいことがたくさんあった。
神様は乗り越えられる試練しか与えないって言葉をどこかで聞いたけど、その通りだと思ってた。
それを乗り越えれば、私はもっと良い人間になれるんだって。
私は良い子なんだって。

――馬鹿正直に、生きてきたんだ。




「あの子のお家は特殊でしょう」

母がそんなことを言ったのは、私が中学の時だった。
シイちゃんの姿が曲がり角を曲がって見えなくなったところで、母さんはどこか憐れむように言ったのだ。

その日も、いつもと変わらずシイちゃんと一緒にいた。
確か、学校で中間テストの勉強をしてから帰ったのだ。
シイちゃんとは私が小学校からの付き合いだった。
家が近くて、クラスが一緒で、優しくて、頭が良くて、面倒見も良くて、いつだって私の味方の自慢の友達だった。
ただ、シイちゃんはあまり自分のことを話したがらなかった。
シイちゃんが何かに悩んでいることは知ってる。
でも何に悩んでいるのかは知らなかった。
シイちゃんは私の話は何でも聞いてくれる。
だけどシイちゃんは私に話す話題にはいつも慎重になってる。
話してもいいこと、話さないこと、その線引きをしている。
彼女にとっての私は幼馴染みで友達だけれど、それは私とは違った感覚と価値のもとにあることを、私は時間と共に理解していた。

彼女の家の事情を知ったのは、中学の時だった。
母の放った「特殊でしょう」という言葉がきっかけだった気がする。
「そういう話題」は、みんな好きだから、耳を澄ませば簡単に入ってくるのだそうだ。
他人の不幸は蜜の味、という言葉の通り、他人の話題ほど面白おかしく話せることはない。
他人の不幸や悪い話を共有することが、まるで「仲良し」の証みたいに口をする。
お菓子を配るみたいに、機嫌を取るように、そんな話題の提供と共有で繋がりを作っている。
……大人にもなって恥ずかしくないのかな。
小学校のクラスの、人間関係の縮図が、そのまま周りの人間だけ変えて繰り返してる。
何が特殊なのか、では私は普通なのか、その差はなんなのか、違うことすら受容できないのか。
彼女が少数派に分類される人間だとして、私に何の影響があるのか。
得体の知れない隔たりを前に、私は少しの不満と、不平等さを実感した。

――いや、そんなものは建前だ。
しっくりこない感情の免罪符だ。
少しずつ、無意識に、確実に、理解していた。
埃が降り積もるように、鉄が錆びるように。
私だってシイちゃんをそういう目で見てた。
そういう自分に気づきたくなかっただけだ。
一緒にいて楽しい、なんて子供のころ抱いていた純粋な感情はとっくの昔に濁って沈殿していた。
私は彼女といて優越感に浸っていただけだ。
そうだ。
最低なんだ。
ボランティアでもしているような感覚だった。
彼女は可哀想な子だから。
彼女は不幸な子だから。
私が支えになってあげてるんだ。
私が友達でいてあげてるんだ。
私が彼女がひとりで苦しまないように傍にいてあげてるんだ。
そんな風に、見下していた。

――いつからだろう。
いつからそんなにひどいことを考えるようになったんだろう。
そんな自分に嫌気がさして、彼女と距離を置いた。
いつも一緒に通学していたのを止めて、大学で一緒にいる時間も最低限で、話も取り留めのないことばかりだった。
少しずつ、何か、自分と彼女との間にある何かが薄れていくのを感じた。
薄い膜ができて、それがどんどん曇っていって、彼女の顔が見えなくなっていく。
自分で作ったその距離に、何故だか怖くなった。
朝、登校する時、彼女はどうやって登校するんだろう。
寂しそうな顔をしているのだろうか。
不安そうな顔をしているのだろうか。
でも、シイちゃんは強い子だから、なんとも思わないだろうか。
シイちゃんは、私がいなくても平気なんだろう。
だって強い子だから。
そうやって、不平等と、自分と他人と、非力さを痛感する現実を噛みしめて、毎日を過ごす。

昔はあんなにキラキラしてた毎日は、今の私にとってはどこまでも重くて息が詰まるような現実だった。
何が変わってこんな気持ちになってしまったのだろう。
何が違ってこんなに世界が暗く見えるのだろう。
それとも世界は最初から真っ暗だったのだろうか。
汚くて、暗くて、息苦しくて、重い。

祖母が言っていた神様の子供でなくると、世界はこんなにも残酷で冷たくなってしまうのだろうか。




偶然だった。
駅から自宅に帰る途中、男の人と歩いてるシイちゃんを見かけた。
……私も何度か話したことがある。
確か、シイちゃんのお隣さんに下宿している人だ。
仲がいいのかな。
もしかして、付き合ってたりするのかな。
今まで彼女の隣を歩いていたのはいつも私だけだったから、なんだかひどく不思議な気分だった。
ただ、男の人は少しだけ歩いてすぐ彼女のもとを去ってしまった。

今だ。
そう思う自分がいた。
偶然会ったんだ。
久しぶりに一緒に帰ろう。
そう声をかけたかった。
しかしそれよりも先に彼女は走り出した。
正直ひどく驚いた。
だって顔が泣きそうだった。
何があったのだろう。
あの人が無神経なことでも言ったのだろうか。
反射的にそれを追う自分がいた。
待って、と声に出して言えればよかったのに、走るので精いっぱいだった。

彼女は走って家の中へと飛び込み、玄関のドアを荒々しく締めた。
私が追ってきていることには気づいていないようだった。
一度玄関の前で息を整え、インターホンを鳴らす。
慰めたいとか、話を聞いてあげようとか、そんな算段があったわけじゃない。
ただ、放っておいたらいけない気がした。

中から返事はない。
だけど、ドアの向こう側から啜り泣くような声が聞こえた。
ドア越しに確かにいる。
焦りにも似た不安がふつふつと胸の内にわいてくる。
もう一度インターホンを鳴らす。
しかし結果は先ほどと同じだ。
反応を返してはもらえない。
だが、泣いているのだからシイちゃん本人が反応するはずがない。
……シイちゃんのお母さんとお父さんも今日は家にいないのだろうか。

「シイちゃん」

声が喉に絡みついて、たどたどしく言葉がこぼれた。
聞こえただろうか。
ドアを中指の骨で叩きながら、もう一度「シイちゃん」と呼んだ。
ドアの向こう側でカタン、と何かが動く音がした。
続いて鼻を啜るような音が聞こえた。

「シイちゃん」
「ごめん、ちょっと、今……」

ドアの向こうから声が響いた。
無視して私が去るのを待てばいいのに、律儀に返事をしてくれる。
……彼女のそういうところが、私は好きだった。
私なら、きっと無視するのに。

「ごめん、ほんとに……せっかく来てくれたんだけど、今、ちょっと……」
「シイちゃん、私、私は」

私は、彼女に何を言いたいんだろう。
何故、追いかけてきたんだろう。
彼女にかけるべき言葉など持っていない。
「なんでも言って」だとか「聞くだけならできるよ」だとか、そんな自己満足じみた言葉が頭の中で吹き出ては霧散する。
違う。
そんな言葉が欲しいんじゃない。
本当に辛い時に、欲しいものはそんなものじゃない。
自己満足の押し売りに、付き合わせたいんじゃない。
私は。

「ごめん……本当に……ごめん」
「あ、謝らないで。だって、私が突然来たんだし、シイちゃんは」

何も悪くない。
悪いことは何もない。
なのに私たちの間には、大きな差があって、違いがあって、それを飲み込んで許容することは難しい。
――でも、難しいと決めつけたのは誰だ?
世間体を気にし始めたのは、違いに気づくほどに他者と比べたのは、頭の中で、見下していたのは、全部私じゃないのか。
努力ではどうにもできない差と、変えようのない他人の偏見を帯びた視線を、一途に受け止められるほど、私は純粋ではいられない。
子供のころ、全てが優しくて綺麗に見えてた。
それが今は、何もかもが、嘘で塗り潰されたみたいに見える。
心の底から笑えたあの日のように、無邪気に友情を感じることすらなくなった。
愛想笑いと社交辞令、ボランティア精神と打算的で自己満足な考え方。

世界はこんなにも汚かったのか。
私はこんなにも、醜いのか。

「なんで……」

それがひどく悔しい。
悲しい。
寂しい。
苛立たしい。

7歳までは神様の子で、それより上は人の子だ。
私たちは人の子供だ。
父と母がいて、彼らが私を選べないようにそれらを選ぶことはできない。
よく、学校の保健や道徳の授業では私たちは選ばれて、そして選んで両親の元に生まれてくるのだと綺麗ごとを言うが、そんなものただの妄想だ。
一種の宗教みたいなものだ。
そうでもしなければ、きっと家庭に価値を見いだせない人間がいるから生まれた考えなんだ。
私たちは選んでない。
彼らは選んでない。
単なる確立の問題で生まれ、そして偶然恵まれた時代に育った。
それだけだ。
其処にあった環境で育ち、其処で学び、其処で成長する。
家庭環境に差があるのだって、そんなもの個人差と変わらない。
それでも子供である私たちは、扶養されなければ生きることもできない、非力な存在なのだ。
安心なんてない。
親は私たちより先に亡くなるし、もしかしたら離婚してもっと早くに姿を消してしまうかもしれない。
信頼なんてない。
努力なんか報われない。
神様なんていない。
生きることと世界は無関係だ。
世界はずっとそこに変わらずある。
変わるのは人と周囲の環境だ。

私が、嫌な人間になっただけだ。

――それが、悔しくてたまらなかった。
昔の私なら、きっとシイちゃんに何の負い目もなく声をかけた。
言葉なんか選ばなくたって、きっと彼女の支えになれた。
今の私は。
私は。

「ごめん、顔、酷いから、見せられない。ごめん」

彼女に意味のない謝罪をさせて、それを止める言葉すら持ってない。
情けなさと悔しさに、不意に熱がカッと喉に迫ってきた。
視界がぐにゃりと滲む。
噛み締めた唇から、掠れた息が頼りなく漏れた。

「ごめん、アキ。――もう帰って」

シイちゃんの口から私の名前が紡がれる。
彼女が、どうしようもないほど遠いところに行ってしまうような不安に襲われた。
見限られたような、恐怖に襲われた。
滲んだ視界から熱が零れて頬を伝う。
置いて行かれてしまった。
そんな気がした。
こんなひどいことばかり考えるから、きっと置いて行かれてしまったんだ。
私みたいな人間では、駄目なんだ。
途端にどっと押し寄せてきた感情の波が、こらえきれずに口から溢れ出した。
必死に押し殺そうと口を塞ぐ。
しかしその意志に反して声が漏れる。
抑えようとすればするほど、堪えきれない嗚咽はどんどん大きくなって口から、目から、零れていった。

ついには大きな声すらあげて泣いた。
赤ん坊みたいに泣いた。
生まれたばかりの赤ん坊は、こんな世界に生まれたくなかった絶望から泣き叫ぶのだと聞く。
なら、きっとこんな気分なのだろう。

そして声を上げて泣く私に驚いたのだろう。
固く閉ざされていたドアが開いた。
シイちゃんがひどく困った顔で私を見ている。
そんなシイちゃんの目も、泣いた後なのだろう、真っ赤になっていた。
どこから取り出したのか、ハンドタオルを泣いている私の顔を押し当てる。
それを握りしめながら、私はいっそう声を大きくして泣いた。

「な、なんで泣くの」
「だ……って、え」
「……」
「シイちゃん、シ、シオリ、ごめ、ご、ごめんなさい」
「泣き止んで。すごく酷い顔。困っちゃうよ」

困ったように彼女は笑った。
世界はもう無条件で私を愛さない。
私はもう世界を無条件で愛さない。
それでも涙で濡れた視界は、キラキラ揺れていて、私はどうしようもなく虚しかった。



20140418