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毎晩不安で不安で泣いてしまう。
夜にこっそり、暖かいベッドの中で泣く。
周りの音が聞こえないように。
周りに聞こえないように。
ひとしきり泣いて、耳を塞ぐと、鼓動が聞こえた。
真っ暗で、暖かくて、ただただ低い地鳴りと鼓動の音を聞く。
きっと、生まれる前はこんな世界にいたのだろう。
そういえば昔、赤ん坊はこの世界に生まれたことに絶望して泣くのだと聞いた。
今なら少しだけその気持ちが分かった。
このまま眠り続けて、朝なんて来なければいいのに。




玄関を開けて瞬間真っ先に耳についた「おはよう」という言葉に身体が強張る。
ドラマか何かのワンシーンのような笑顔が目の前にあった。
表情筋が引きつる。
私の日常にはない絵だった。
必要ないし、欲しくもない。

「なんか昨日はお節介焼いちゃったみたいで、謝ろうと思って」
「き、気にしてないです」
「学校近く? 途中まで一緒に行かない?」

そんなことしたら、噂されてしまう。
万が一知り合いに見られでもしたら、変な噂を流される。
できればこの現場だって見られたくない。
私みたいな人間には何もなくていいんだ。
私みたいな人間のことは、誰も知らなくていいんだ。

「ああ、人目気にしてる? 疾しいことなんてないんだから大丈夫でしょ」
「……」
「あのさ、俺、大学行く途中で結構見かけたりしてるんだけどさ、周りはそんなに気にしてないよ」
「え……」
「悪い意味じゃなくてね。君を悪く思ってる人間はいないよって」
「何言って」
「最近はあの子、友達でしょ? アキちゃん、あの子ともあまり一緒にいないみたいだから」
「!」
「アキちゃんとは君と話す前に何度かここで会って話したことがあるんだよ。ほら、先月くらいまで一緒に学校行ってたでしょ? アキちゃんが君を迎えに来てさ」

最近見ないけど。
そう彼が付け足した。
それもそうだ。
アキは彼氏ができて、私なんか相手にしてる暇がない。
アキだって、私みたいなのとあまり一緒にいたら暗い人間だとか、そんな風に、よく見られないかもしれない。
アキは優しい子だ。
明るい子だ。
大きな目がいつもキラキラしてて、可愛くて、良い子だ。
私とは違う良い子。
ちょっとしたわがままとか、愚痴とか、そういうものを全部聞いてあげたくなる。
私みたいに卑屈じゃない。
アキは、私みたいな隅っこじゃなくて、もっと中心にいるような、そんなところに行くべき人間だ。
アキは、良い子だから。

「アキちゃん、君のこと心配してたよ」
「!」
「最近避けられてる気がするって。距離置いた方がいいのかなって」
「なんで……そんな……」
「案外気づかないもんだよ。避けられてるんじゃなくて、避けてるってことにはさ。当事者たちは尚更ね」
「……」

ああ、そうか。
彼の口から繰り返し紡がれる「アキ」の名前に、ふと、気が付いた。
もっと早く気付くべきだった。
こんな簡単なこと。
このひとはきっとアキと話がしたいんだ。
私をそのパイプ役に選ぼうとしてるんだ。
ただ近所に住んでいるだけだ。
アキに彼氏ができたなんて知らない。
私からアキのことを聴きたいだけだ。
アキは可愛いから。
良い子だから。
私といなければ人気者だ。
みんなアキを気にしてる。
私はその影に隠れて、誰にも気づかれないような人間だ。
ちょうど良かったんじゃないか。
アキが、本来の場所に戻れるなら。
そう思った途端に、胃の底が熱くなった。
怒りとも呆れともつかない感情が喉から這い出てきた。
だけどそれを言葉にしては駄目だと知っている。
私はわかっている。
唇を噛むと、熱が目蓋に集中した。

「なんて、会って2回の人間に言われたら腹立つよね。ごめんね」
「別に……気にしてなんか……」
「君、自分で思ってる以上に繊細だよ。強がってばっかじゃいつか崩れちゃうよ」
「……」
「はい、これあげる。一日を元気に頑張れるカフェオレ。突然でびっくりするだろうけど心配はしないで。そこの自販機で買ったやつだから。俺、毎朝そこでカフェオレ飲んでかないと一日の調子が出ないんだよね」
「……」
「それじゃあまた明日。気をつけていってらっしゃい」

半ば押し付けるようにして渡された缶コーヒーに呆然と玄関に立ち尽くした。
彼は軽い足取りで背を向け走り出す。
私がいつも利用している駅がある方向だった。




それから彼はほとんど毎朝ここに来た。
私がわざと家を出る時間をずらすと、カフェオレだけ玄関の前に、手紙と一緒に置いてあることすらあった。
そんなにアキとの接点が欲しいなら、大学で情報を集めればいいだけだ。
方向から考えて、同じ大学だろう。
学部は違うだろうが、見つけること自体は難しくないはずだ。
そうすれば私になんか構わなくてすむ。
いや、それとも、外堀から固めていきたいのだろうか。
別にアキは私がどうだとか、そういう他人の顔色を見ながら、他人の機嫌を取りながら合わせていく、なんて臆病なことはしない。
彼女は自分の意志で強く生きてる。
私がいなくても彼女は平気だ。
彼女は強くて優しくて可愛くて綺麗な良い子だ。
私も、そんな人間になりたかった。

それすら口に出すことができず、彼は毎朝私を訪れる。
カフェオレを片手に登校する。
たまに帰りが一緒になることもあった。
そんなことをひと月繰り返す頃には、一般的な会話もできるようになっていたと思う。
好きなアーティスト、趣味、学部の話、友人の話、天気の話。
興味なんて、ないだろうに。
自分のことを話して、私の話を聞いてくれた。
視線を合わせるタイミングや、頷きの頻度や、声のトーンが、本当に関心を持って聞いてくれるみたいで、嬉しかった。
……最近は父と母も落ち着いてきて、人と普通に話せる機会も増えてきた。
少しずつ、元に「戻って」きている。
そんな気がした。
戻る場所なんて、ないだろうに。

「レポートの提出期限が来週なのに全然進まなくてさ」
「字数指定とか、されてるの?」
「テーマが厄介で資料が見つからないんだ」
「ああ、あるよね、そういうの」
「実は授業もたまにサボってたからさ、ちゃんと全部出ておけば良かったなあ」
「ノートとか、友達に借りればいいのに」
「アイツ、俺より不真面目だから」
「まあ、頑張って」
「頑張る頑張る」

可笑しそうに笑いながら、彼はピタリと立ち止まる。
家まではまだ程遠い。
駅から少し離れた街の中だった。

「今日ちょっと友達と約束してるから、俺はここで」
「うん。お疲れ様」

手を軽く振って彼は人混みの中に消えていく。
ぼんやりとその背中を眺めながら、彼が笑顔で数名の青年の輪の中に溶けていった。

派手な集団ではない。
だからといって、地味な集まりでもなかった。
ごく自然な、明るくて、元気な青年たち。
社会的に好ましいとされるような人たち。
誰からも好かれて、中心にして、頼りにされる。
必要とされる人たちだ。

ふと、その集団のひとりと目が合う。
彼がそれにつられるように私に視線を向けた。
何故か目を合わせるのがどうしようもなく気まずくて、とっさに逸らした。
……私とは違う。
そうだ、違うのだ。
不意にきりきりと胃のあたりに熱がこもる。
違う。
そう思うと、何故だかひどくいたたまれない気分になった。
恥ずかしくなった。
顔が熱い。
私は勘違いをしていたのかもしれない。
心臓が鈍くどくどくと鳴っている。
罪悪感が頭の片隅で燻る。
鼻の奥がつんとした。
そうだ。私は勘違いをしていたんだ。

彼と私は住む世界が違う。
その世界の差異に、今さら気付くなんて。
少し考えればわかるはずだった。
だって彼が好きなものなんか私は何ひとつわからなかった。
ブランドも、ロックバンドも、カフェも、初めて知るものが多かった。
知ってるからこそ盛り上がる話も、私では知らないから盛り上がらせることができない。
きっと、詰まらなかったろう。
詰まらないのに、それでも話しかけてくれる理由を知らない。
いや、わかってる。
彼は優しいのだ。
本当に優しい人なのだ。
私みたいな人間に声をかけてくれるほど、他者に受容的で、寛大で、優しいのだ。
きっと困ってる人がいたらすぐさま声をかける。
悲しんでいる人がいたら無条件でそばにいる。
そうあるのが彼にとって当たり前で、私は、彼にとって「困っていた人」なんだ。
理由なんてないのだろう。
ただ、それだけなのだから。

その日、走って家に帰った。

ひとりになりたかった。
いや、始めからひとりだったか。
人間なんて皆ひとりだ。
私はひとりだ。
勝手に勘違いをして、心のどこかで舞い上がっていた。
莫迦だ。
私は、ひとりだ。
彼は、私のものではないのに。
彼にとって私なんて、消えても差しさわりのない存在だ。
彼の世界はそういうもので構成されている。
私の世界とは違う。

世界は自分に見合ったもので構成される。
私にとって大きすぎた彼の存在に対し、私の存在は彼にとって小さすぎた。
そういうものだ。

玄関のドアを閉める。
荷物が足元に崩れるように落ちた。
顔の熱が目蓋の裏に集中する。
大きく息を吐き出した。
途端にぼろぼろと網膜から熱がこぼれ出す。
喉が引きつる。
押し寄せてくる感情の波に、とっさに下唇を噛んだ。

この顔だけは、絶対に彼に見せちゃだめだ。
見せては駄目。
両手で顔を覆う。
耐えきれず嗚咽が漏れた。
こんな顔見せたら、彼はきっとずっと私のそばにいてくれる。
だって困った人を放ってはおけないから。
私のために、彼を消耗させてしまう。
そんなことは駄目だ。
私は良い子だから。
聞き分けの良い子だから。
誰かを困らせては駄目。
せめて、彼の前でも良い子でいたい。
私にそのそばにいる権利はなくても。
駄目だ。
私は。
厭な人間なんだ。
それを彼に知られたくない。
私は彼の前でも良い子だって、恰好つけていたい。
私は。
私は。

彼が、きっと好きなんだ。

自分に見合わないものを求めるなんて、莫迦だと思った。



20140413