* 父が残した砂時計を返す。 彼自身の時間を刻んでいた唯一の時計は、今時間を止めた。飾られている時計同様、二度と動くことはない。置いていくなど、あまりに酷い仕打ちだ。結局彼は「男」ではなく「父」だった。そうあり続けることで、亡くなった妻を繋ぎ止めようとしたのだろう。別に、私だけがそういう感情を抱いていたわけではない。他の娼婦となった孤児たちもまたそれを抱いていた。ただ、私はそれを行動に移す勇気がなかっただけだ。中には一糸纏わぬ姿であの人の寝室に行った娘もいるらしい。――馬鹿な話だ。 彼には、妻の姿以外映らないのに。私たちの姿などほとんど見えなかったに違いない。もう、先の病で視力はほとんど失われていた。声真似が得意なら、多少は違っただろうか。どちらにせよ、彼は既に亡くなった父という存在以外の何者でもない。 足下で大きく円を描くように回る秒針に、歩を進めた。白く発光するそれは、月や星の明かりを受け輝きを増す。目を細めれば、手の甲に深く刻まれた皺が消えていく。 進みすぎていた時間は巻き戻され、体は本来の年齢へと戻された。濃く深い藍に染まる空は白み、最後の時間を告げていた。 「もう、これ以上輪廻など繰り返さぬよう」 秒針が私の体を乗せ、動き出す。すると背後で音が響いた。時計塔の屋上の扉が開く。その向こう側に、懐かしい姿が見えた。 * 夜気にひんやりと冷えた扉をゆっくりと押す。その向こう側の景色など、予想もしてない。ただ、彼女がいるという確信はあった。肺腑を満たす冷気を噛み砕き、その向こう側へと歩を進める。途端に視界は大きく変わった。 上空を覆う冷えた星と、青ざめた月。藍色の幕に張り付くそれらは、僅かに身を震わせこちらを見下す。 「来たの」 「!」 凛と響いた声は、若い女性のものだった。だが、そこに存在しているのは絡繰師以外の何者でもない。相変わらずフードの下に隠れた貌はわからない。だが、それが彼女であることは一目でわかった。彼女は塔の中心から縁に伸びる、秒針のような足場に立っていた。ボクが立っている場所が、ちょうど秒針の中心のようだ。手のひらの中にある懐中時計が、カチリと音を立てて動き出した。 「ボクは」 「思い出した」 「え――」 「わけでは、ないのね」 それはそうだ。と彼女は自嘲にも似た笑い声を漏らした。疼痛のように、その胸中には理解し難い思いが鼓動を打つ。 ――ボクは、知っているはずだった。 知らないのは、消してしまっているからだ。忘れてしてしまっているから、知らないことになってしまう。 「ボクは、君を知っているはずだった」 「もういいのよ」 「思い出さなきゃ。でないと、ボクはこの街から出られないんだろ?」 「もう、いいの」 「夜も明けない。この街は」 「もう充分苦しんだ」 「……!」 「あとは、わたしに任せてくれればいいの」 ガコン、と鈍い音が足元から響いた。彼女の立つ場所へと繋がる秒針のような足場が、仄白く発光する。同時にゆっくりと回りだした。彼女を乗せ、止まっていた針が動き出す。 「教えて。君は誰なの。ボクは……それにあの時計屋や、帽子屋は」 「……」 彼女はゆっくりと首を振る。それが問に対する答えなのか。何故、答えてはくれないのだろう。閉ざされた唇が僅かに震えた。自分ばかりが知らない現実に、どうしようもなく息苦しくなる。自分を。彼女を。彼を。彼らを。何故、辿り着くことができないのだろう。 彼女の貌を覆っていたフードが風圧に外れる。中から現れた顔に、息を飲んだ。頭のどこかではわかっていた。だが、動揺を隠しきれない。頭に鋭い痛みが走った。 ――そうだ。一緒に。 一緒に、行くはずだった。 「これ以上、繰り返す必要はないよ」 「!」 「お父さんは時間を解いたから。君がわたしを助けるまで、なんて、そんなことが叶うまで幾度となく輪廻する必要はないから」 「父、さ……」 「だから、もう、おやすみ」 彼女の体が朝焼けの色に灯る。透き通るその肌に、ボクは反射的に走り出していた。 細い秒針の足場を一気に駆けていく。彼女を先端に乗せてくるくると回る針は、容赦なく朝日を呼んだ。近付いた距離に手を伸ばす。彼女が目を見開いた。初めて、そんな顔を見る。バランスを崩し、体が傾いた。伸ばした指先が宙を掻く。 ――落ちる。 針の下は底のない闇が口を開けていた。落ちたら、また繰り返してしまう。また振り出しだ。彼女を忘れて、彼を忘れて、彼らを忘れて、またやり直しだ。やり直し。やり、直し。 『やっと、見つけた』 「!」 『独りでは、あまりに可哀想でしょう』 大きな手のひらが手首を掴んだ。彼女のものではない。もっと、もっと懐かしいものだ。視界に映る赤い瞳に、心臓が跳ねる。その力に引かれ、体は彼女の方へと導かれた。途端にその手の主は消える。穏やかな父の顔が、網膜に焼き付いた。 目の前に佇む彼女に、不意に熱がこみ上げる。 「本当に、最後の最後まであの人は『父親』ね」 「!」 「ううん、わたしが単に望み過ぎていたのかもしれない。あの人は、最後の最期に解放した」 夜風に髪が大きくうねる。彼女の白い頬が、朝焼けに染まって透けた。彼女の手を取り、握り締める。静かに景色を映す彼女は、どこか泣き出しそうな表情で笑んだ。 「また、会えるよ」 「!」 「朝は来るから」 「わかってる」 「……」 「わかってるよ」 その体を抱き締め、震える吐息を吐く。徐々に粒子となって霧散していく細い体に、喉の奥がギュッと締め付けられた。温度が少しずつ光に溶けていく。肌に触れる体温が、ジワリと朝日に滲んだ。 「だから」 「……」 「おやすみ……」 頑張ったねと、本来の姿に戻った彼女を撫でる。腕の中にある体は消え、暁が訪れた。藍色の空は赤く染まり、日は姿を現す。時計等は再び大きく鐘を鳴らした。彼女の姿はない。 その日、終わらない夜が終わりを告げた。 20110721 |