▽9 オレを責めたいだけだったのか。それとも、婚約の相手に彼女の本心を伝えたくないだけだったのか。彼女の母親の本心などわからない。 唯一はっきりしていることは、彼女はまるでそれが当たり前であるかのように亡くなったことだ。 日記には取り立てて不幸な事実も悲劇も書かれていない。 ただ、彼女が日常に埋没していっただけだった。 生きることに、疲れていただけだった。 穏やかに、その精神が荒廃していっただけだ。 勝者か敗者かと問われれば、オレは間違いなく前者だ。 だから後者である彼女の気持ちなどわかるはずがない。こんなもの、渡されるだけで迷惑だ。 読み終わったノートを乱雑に床に投げ捨てる。パサリと乾いた音を立て、そこに横たわる彼女の意志は、ひどく陳腐なものだった。 ――あの時、すれ違った時に声をかけなかったオレを糾弾したいのか。電話に出なかったオレを責めたいのか。それとも彼女がオレに好意を寄せていたことを、慰めとばかりに伝えたかったのか。オレに何を望んでいる。嘘でも死体に「愛している」などと戯言を吐いて欲しいのか。 違う。 ――「夕飯できたよ」 「! ……ああ」 ドア一枚隔てたところから、ケイの声が響く。我に返り、ベッドから身を起こした。ふと、意味のない罪悪感がふつりと湧き上がる。 違う。おそらく誰も何も望んでなどいない。望んでもいないのに応えようとするから、精神を磨耗するんだ。 言い聞かせるように頭の中で繰り返し、良心の呵責を握り潰した。 オレは、倖せなのだろうか。 キッチンにいる妻の横顔に、得体の知れない虚無感が発露した。 以来、オレが彼女を思い出すことは、決してなかった。 ▽0 倖せなんてない。 彼女の遺体を前にオレは結論を見つけた。 お互いに実ること無い恋に日々を消耗する燃費の悪い精神の持ち主だった。だから彼女とならやっていける気がした。昔亡くした恋人のことも、もしかしたら割り切れる気がしたのだ。 オレたちは似ている。 だから何が足りないのかわかっている。そこを互いに補い合える。そう信じていた。 しかし彼女は、呆気なく逝ってしまった。 前日に会った日はあんなにも来月を楽しみにしていると笑っていたのに、逝ってしまった。 当日に来た「シンは悪くないから自分を責めないでね。倖せになろう。本当にありがとう」という短いメールにもっと敏感になるべきだった。 彼女はそのメールを送った直後、自室で首を吊った。 彼女の母が見つけたらしい。すぐに救急車を呼んだが手遅れだった。彼女は傷ひとつない躯を真っ白な箱の中に花と共に隠し、穏やかに目を閉じてしまったのだ。 「ミトリ」 呼びかける。聲は頭の中で延々と響いていた。叶うなら、跡を追いたい。置いていかないでくれ。 ――だが、俺には死ぬ勇気がなかった。たった一歩、その一瞬ですべてを捨てる覚悟もなかった。 彼女は、こんな恐ろしい一歩を容易に選べるほど強かったのか。あるいは、この一歩を止めるためらいもないほど、もう、擦り減って、消えてなくなってしまっていたのか。明日へとつながる日常に、それほどまでに怯えていたのか。 俺はそれにすら気づけなかったのか。 オレたちの倖せは、彼女が眠る小さな棺の中に永遠に閉じてしまった。 20121120 20170415修正 |