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胸の底から静かに積もっていく罪悪感が、分厚く層を成していく。
自分のせいではないと、関係ないと、言い聞かせる。
そのたびに、あの時黙殺した「着信中」の文字が頭の片隅で爪を立てる。
――あれがもし、救いを求めるものだったら?
そんな恐怖がのどの奥を突き刺す。その反面、今更オレのもとにそんなものを向けるはずがないと、考え過ぎたと理性がささやく。
オレが選ばれる理由もない。心当たりもない。
今となってはわからない。
すべて、あの薄い板一枚の向こう側に、固く冷たく閉ざされてしまった言葉だ。
そしてその沈黙が、何よりもオレを責めているように思えてならなかった。


▽1

知人が亡くなったという連絡を受けたのは、昨日の昼だった。昼休みに入ろうかというタイミングで、私用の携帯電話が鳴り響いた。オフィスに響く機械じみた社員たちの声に、その呼び出し音はひどく頼りない響きでもって俺の意識に訴えかけていた。
――今思えば、このときわざわざこの電話に応えなければ、こんな陰鬱な幸福を抱えることはなかったのかもしれない。
今晩、その知人の通夜がある。喪服のネクタイをしめながら、鏡に映る黒衣の男をぼんやりと見やる。……適当に伸ばされた髪の間で、濃い疲労を宿した黒目が淀んだ。目元に居座った隈のせいか、顔色が青白く不健康に映る。いい加減髪も切りに行きたいと思いながらも、忙殺された日常にその欲求も予定も埋もれてしまう。
これでは弟や妻が心配しない方が無理な話なのかもしれない。

仕事のし過ぎだと、責めるように言葉を並べる弟の顔が脳裏に蘇る。たまには休んだ方が良いと、気を使う妻の顔が去来する。自分で言うのもなんだが、要領が悪いわけではない。ただ、時期的に忙しいだけなのだ。連日大量の書類の処理と、大企業の上役との顔合わせ、取引先との付き合い。来月になれば少しは落ち着くだろうから、もう少しの辛抱だ。部下にも家族にも恵まれている方だと自負している。今さえ乗り切れば、そう思い込むことで、自分自身を無理やり奮い立たせていた。

「兄さん」

襖を静かに開ける音が響く。その向こう側にいる、弟の懸念を宿した顔を鏡越しに確認した。

「アキトか」
「そろそろ出ないと、間に合わないよ」
「わかっているよ」

口で言いながら、その場を離れようとはしないオレにアキトは眉をひそめた。あまり気が進まない。と言うのが本音だった。
今日、通夜がある知人とは、もう8年以上顔を合わせていない。最後にまともに口をきいたのは、おそらく高校の卒業式だ。それまでは近所に住む幼なじみという認識で付き合いがあったが、進学の関係で都会に出て以来、関係は切れた。……いや、実際は何度かすれ違ったことはあった。連絡も、本当は一度だけ会った。しかしその時にはすでにオレは世帯持ちで、今さら幼なじみとはいえ関係が希薄な彼女に声をかける気分にはならなかったのだ。

――だが、今思い返すと、彼女はオレを見ていた気がする。顔も名前も知らない他人に埋もれた雑踏の中で、まるでそこにオレがいることを知っているかのようにこちらを見ていた。肖像画の被写体が、自らを描く画家を見つめるように。こちらを見ているのに見られていない気がした。肖像画を眺めるのと同じ感覚だった。あの目玉は――。

その事実に、不意に背筋が寒くなった。

「兄さん」
「わかっている。今行く」

鏡に映る窶れた自身を一瞥し、部屋を出た。



▽2

通夜も告別式も、彼女の自宅で行われる。記憶の淵には、二階建ての素朴な家が心もとなく佇んでいた。……よく目にしていた彼女の自宅がある風景は、もう、今のこの街にはない。
高校卒業まで、住んでいた街だ。進学して以来、立ちよりもしなかったそこに訪れたのは、およそ8年ぶりだった。8年も経てば高い建物の割合が街の眺望の大半を占め、かつての面影はほとんど残っていない。学校帰りに寄った駄菓子屋も、古本屋も、今ではコンビニやコインランドリーになっている。真新しい景色が、ただただ静かに立ち尽くしている。歓迎もされていない、懐古もなければ、何の感慨も抱けない。
運転は秘書の者を呼び、任せ、後部座席で流れる外の風景を眺めながら無意味な思考を巡らせていた。
もう、ここには何もない。

「ミトリさんって」
「!」
「兄さんと同級生で、近所に住んでた人だよね」

わかりきったことを尋ねるアキトに、生返事を返す。彼は助手席でバックミラー越しにこちらを見ながら、確認するように言葉を続けた。

「突然だったね。病気か何かだったのかな」
「さあな」
「でも確かに幼なじみとはいえ、どうして兄さんにそんなに通夜や告別式に参列して欲しいんだろう」
「……さあ」

彼女の――死んだミトリの遺族からの希望だった。連絡も彼女の母からだった。どうやって俺の連絡先を知ったのか――いや、私用の携帯電話そのものは、高校の時から使ってはいたか。なら、ミトリは俺の連絡先を知っていた。
しかし、たかが子供の頃の顔見知りに、何をそんなに執着するのだろう。単に参列者がいないだけなのか。名のある企業の御曹司と知り合いなのだと身内に見せしめたいのか。……前者はともかく、後者ほど気分の悪いものはない。次第に黒く淀んでいく心中に、ガラスに映る自身の顔が歪んだ。これから通夜に行くというのに、俺のほうがよほど亡霊のようだ。

「挨拶する時には、せめてその嫌そうな顔は取り繕っておきなよ?」
「……」
「ただでさえ忙しい時期に、こんなことがあると不機嫌にもなるだろうけどさ」

アキトの言葉を半分以上聞き流しながら、適当な返事を返す。そんなことを5分もしているうちに、目的地の家が見えた。二階建ての素朴な家は、何も変わっていない。ただ、それを深い悲しみで覆うように、玄関に花輪と、喪服を着た女性が見えた。
窶れた女性はこちらを確認するなり、深く頭を下げる。車を適当な場所に停め、そちらに向かうと、彼女の母は泣き出しそうな顔で再び深く頭を下げた。



▽3

打ち覆いの向こう側にある顔には、綺麗な死に化粧がほどされていた。真っ白な肌と一切の筋の動きを止めた頬、温度のない肌。確かに生きてはいない。具体的には表現し難いが、その顔が死者のものであることだけは確かに実感した。うすら寒さすら感じる「それ」を前に、オレは指先の温度が抜け落ちていくのを感じた。
8年前より、大人びて映る顔だった。面影はある。目の前で目を閉じているのはミトリだ。しかし何故か、それが自分が全く知らない他人に思えてならなかった。その事実だけが、不気味に仏壇の前に鎮座している。

焼香を済まし、顔を見、ようやく肩の力が抜けた。部屋を変え、案内された場所でお茶を出される。しかし襖の向こう側に亡骸があると思うと、何故だか得体の知れない不安にかられたのだ。居間に通されても、アキトと一言も会話をせずにお茶を口に運んで時間が過ぎるのを待つ。それから5分程度経った時に、彼女の母が居間に戻ってきた。

「お忙しいところ、ありがとうございます」
「いえ……」
「娘もきっと、これで報われたでしょう」
「……何故、オレを」
「何も言わずにこれを受け取ってください。読んでください。そのあとは処分でも何でもして構いません。通夜と告別式も、もしお忙しかったら参列なさらなくて大丈夫です。私はこれを、渡したかっただけだから」

渡されたのは、何の絵も柄もないノートだった。どこにでも売っている安いメーカーのものだ。訝しげに顔を歪めると、彼女の母は苦痛に耐えるような顔で一言、「娘は自殺でした」と呻くように言った。



▽4

「娘は良い子でした」
「明るい子でした」
「その日も、笑っていたんです」
「娘は自殺でした」
「来月には結婚するはずだったんです」
「倖せなはずだったんです」
「でも」

彼女の母は狂った蓄音機のように、似たような言葉を吐き続けていた。オレには関係ない。真っ先に浮かんだ考えが、残酷にもそれだった。お互いに自らの進路を選んで今に至るのだ。彼女がオレの人生に干渉することもなければ、その逆も全く有り得ない。彼女の自殺とオレには何の因果関係もないはずだ。
ノートを突き返しながらそう告げると、彼女の母は、泣きながら謝罪し、そして「娘を許してやってくれ」と頭を下げた。それ以上無意味な問答を続けるつもりはなかった。仕方なしにノートは受け取り、その日は通夜に出ずに帰ることにした。アキトは何か言いたげだったが、オレの顔色を見て素直に帰宅することを選んだ。

帰宅中、終始一言も声を発さなかったオレに、アキトはひどく不安げな顔を浮かべていた。手渡されたノートは、いつでも自由に開くことができるのに、何故かそれがひどく躊躇われた。家に着くなり出迎えた妻のケイと一言だけ交わし、自室に直行する。ベッドに身を投げながら、そういえば、何故自分は今の女と結婚したのだろうとぼんやりと考え込んでしまった。
倖せなのかと問われれば、不幸ではないと答えるだろう。満足しているのかと問われれば、不満はないと答えるだろう。
では、死にたくなることはないのかと問われれば――おそらく、馬鹿馬鹿しいとはぐらかす。

「娘は自殺でした」

ふと脳内で反芻される言葉に、息を潜める。
結婚も決まっていたらしい。何か不満なことでもあったのだろうか。いや、そもそもそれだけのことで身を投げ出す必要があったのだろうか。
彼女が自殺したことと、オレに何の関係があるのか。彼女の母から渡されたノートには、オレを責め立てる呪詛でも綴られているのだろうか。

「自殺した数日前に、娘があなたに連絡を差し上げていたようだったので」

――彼女の母のその一言に、言いようのない罪悪感と息苦しさが首を絞めあげた。
俺が応えなかった電話だった。仕事の帰りで、疲れ切っていた。電車の中だった。通話に出るにも出られない状況だった。折り返し連絡するつもりだった。しかし後回しにしていた。頭のどこかで、しなくてもいいと思っていた。本当に用があるなら、またかかってくると思っていた。
彼女の優先順位はオレの中ではひどく低いものだった。
だが、オレが連絡をするより先に、彼女の死が、彼女の母より伝えられた。

おもむろに手を伸ばし、サイドテーブルに放り投げたノートを手に取る。躊躇うように表紙を見つめ、適当にページをめくっていく。
……日記のようだった。どの最初のページにも、その日の日付が書かれてあった。
いくら受け取ってくれと言われて手にしたとはいえ、他人の日記を見るのは後ろめたい。反面、彼女の自殺の理由に全く関心が無いわけではなかった。
オレを責める言葉があるかもしれないと、何がオレと関連しているのかと、恐怖と好奇が指を動かした。
一度表紙を閉じ、最初のページを開く。
罫線からはみ出る拙い字に、思わず眉をひそめた。よく見ると、文章にほとんど漢字が使われていない。それに戸惑いの念を抱きながら、羅列した平仮名に視線を滑らせた。




20121120
20170412修正