Nが先をいく砂浜は広々と雄大だった。砂も昼間とは違い冷えていて、足の裏に伝わるのは砂一粒一粒のじゃりじゃりと硬質な感覚と薄い足の皮の裏に転がるくすぐったい感覚だった。靴の中に砂が入ると面倒だからと片手でまとめて脱いだそれを持って軽やかに走り始めたNはこどものようだった。そもそも中身からして幼いNであったが、幼い時に年齢相応の生活をしてこなかったことが要因のひとつにあると思う。波打ち際の湿った砂に足を混じらせていたNは、突然海へと向かって歩き出した。それ以上行くと危ないと言っても聞かなかったから、砂に持って行かれそうな足を引きずりながらNに近づいた。
「ねえ、これはなんだろう」
Nの両手に握られていたのは古びた瓶だった。さぞかし長い長い旅をしてきたのだろう。瓶のあちこちが小さく欠けていた。コルクで閉められたその瓶は古めかしくとも鮮やかなエメラルド色をしていて、俺は少しだけNの髪色に似ているなと思った(まあ、似ても似つかないと言っても正しいことなのかもしれない。どちらかと言えばミントに近いのだから)。そんなことを思ったら、無性にそれに触れたくなった。触れたらNの髪はざらついていた。海風にさらわれたミント色はとげとげしくて、俺に触るな、と言っているようだった。
「ブラックは、これがなんだか知ってる?」
月の光に反射して一筋眩い線が砂浜に引かれる。
「瓶だろ、瓶。どこかの誰かが落としたか投げたかしたんだろ」
「瓶のことを聴いているんじゃないよ。瓶の中身のはなし」
瓶の中?ってなにがだ、と疑問を解くために、その瓶をNから受け取った。片手で持つと少し不安になるくらいの重さだった。エメラルド色を主張するそれの奥をのぞき込むと向かいに達Nがきれいに歪んだ。じゃなくて、中には紙切れが入っていた。古びた紙の端はぼろぼろで、コルクを瓶からはずして中から取り出そうとしても、今にも破けてしまいそうだった。迂闊に手が出せない状態の俺を見てか、Nはかして、と一言いい俺の手の中から瓶をひょいと奪った。なんだよ、あんたがなにかわからな言っていったから俺が折角それに付き合ってやったのに。
「キミは不器用だから」
コルクを片手でぎゅっと握ると音もなくそれは俺の手によって圧縮した。あんたに不器用って言われるのは心外だな、むかつく。
「なに拗ねてるの」
「うるさい」
「キミってよく分かんない」
「ばか、うるさい、だまれ」
「口が悪いなあ」
Nは目を細くして笑った。こいつの顔は月夜に映えるもんだなあと思うとかさりと音がした。波に時折のまれる足首のひんやりした感覚に鳥肌が立っていた。
「なんだ、ただの古びた用紙だったよ」
Nの至極残念そうな顔が瓶にありありと映っていた。しかしぴったりとその用紙は折り重なっていたようで、Nは丁寧に端からぱりぱりと乾いた音を響かせてそれの大きさを倍にした。何段にも及ぶ罫線の中に達筆で文字が刻まれているのが見て取れた。
海が先程よりも大きく波打ち、真珠のようにきらきら光った水の粒を見つめる。Nはもうその用紙に夢中で俺が髪をひっぱっても気にもかけずにいた。相手にされなければされなければで、なんだか気分が悪くなる。普段は相手にされるのが面倒で一言二言返事であしらう。
しかし今はどうだ。こいつの行動に感情が縛られているではないか。海の水が地球から一生離れることがないように、俺の感情も誰かと一生つながっていくのだなあと改めて感じた。こんなにきれいなもんは持ち合わせてはないにしろ、常に誰かを必要としているのは確かで、確かであるが故に今こいつと時間を共有しているのだ。多分、・・・相手が誰でもいいだとか頭では思っているが、どうにもこいつのとなりは居心地がいいと体が覚えているらしい。それだからか、俺たちは幾度となく様々な場所で顔をつきあわす。
「これ、誰か宛ての手紙みたい」
ぴらぴら風に用紙をなびかせてNは言った。
「ふうん、なんて書いてあるんだ」
「それが読めないんだ。塩で紙がくっついてただろう。あれをはがしたら文字まで剥がれてしまったみたい」
「なんか残念だな」
「そうだね。なんて書いてあったんだろう」
「なんだろうなあ。海に流すくらいだから秘密のことかもな」
「ボクたちに見られそうになったのだから、意味がないね」
「あんたって理論立てしないと物事が考えられないのか。何処かへ、この手紙の思いを届けたかったのかもしれないだろ」
「非科学的なことだね。ニンゲンはどうにも回りくどい」
「あんたもその人間のくせに」
「ふふ、どうだろうね」
ただの生身の人間であるNに、Nが人間であると脳が発信したのは誤算だった。俺はNをNとだけしか見たことがなかったわけだから、人間という枠に留めてしまい、どうにも気に入らなかった。しかし、よく考えてみればNを何故人間と意識していなかったのだろう。
消え入りそうな存在とは裏腹に、くっきりと明瞭でいて純粋な正義が重なっていたNはアンバランスであった。だから人間として他人に意識させにくいのかもしれない。俺は足に当たる硬質な砂をもう一度感触を確かめるようになぜた。
どんな不安定で消え入りそうな存在であろうと、確かにあいつはここにいて同じように呼吸している。それでいいじゃないか。
「お、俺」
俺、あんたを忘れたりなんかしない。
「俺、あんたに手紙、書くよ。いつ届けられるのか分からないけど、俺、絶対書くから」
いついなくなってしまうか分からないような奴にこんなことを言っても仕方がないことであろうが、伝えようのない意志を崩れかけたことばにのせた。
Nは困ったように笑い、深い深い海へと足を進めて瓶を空のまま流した。
「うん、待ってるね」
海水の冷たさに、こいつの冷たい声音が深い闇に混沌としてある俺の耳に丁度よかった。
うそはあたたかい
110120