外に出しておいても埒があかないため、とりあえず俺はあんたの知り合いだからとだけ伝えて家の中に押し入れた。まああいつは俺のことを知らないと言っているのだから、知り合いというよりは、俺が一方的に相手を知っているようだった。
母さんにはあいつのことをはなしていないけれど、やはり母親とは順応する能力も高いもので、なにも言わずにシチューを皿に盛ってNに出してくれた。

「そんな薄着じゃ、寒かったでしょ。食べなさい」
「あ、ありがとう・・・ございます」

Nは少し照れくさそうに母さんを見て、少しずつ喉にシチューを流し込んでいく。

「どうかしら?」
「美味しい、です」
「あら、ありがとう」

母さんはにこりと微笑んでNのもさもさとしたミント色の髪をなでた後、キッチンを片しに戻った。Nはさっきよりも頬を朱くして俯きながらシチューをどんどん食べた。俺はNの前に座って、片ひじを突きながらその姿を眺めていたら、ポケモンに餌付けをしている気分になって少し笑ってしまった。
そういえば、Nには母親がいるのだろうか。そもそもゲーチスが父親かどうかも危ういのに、あまりNの家庭環境については踏み込めない。俺自身も母子家庭で踏み込んできて欲しくはないところがあるから、まあ聴かないことにした。怠惰したままでNにもう一度俺が誰だか分かるか、と聴いた。

「全く分からないんだ、ごめん」
「別にいいんだけど、さ。あんたにそうやって言われると腹が立つ」
「あ、ごめん」
「謝ったって仕方ないだろ」

ごめんとNは繰り返した。俺と話している間、一回もNは俺と顔を会わせようとはしなかった。

「ブラック、ブラック。おい、僕だ。寒いから早く開けてくれ」

どんどんドアが叩かれて、俺は弾かれるようにイスから立ち上がった。
ドアを開けると、くせっ毛を風になびかせているチェレンと鼻を赤くしてとびきりの笑顔で手を振るベルが立っていた。
後ろから母さんの、いらっしゃあい、という声も響いた。チェレンもベルも勝手知ったる家だったので、お邪魔しますの一言で踏み込んだ。ベルは、ケーキの箱を母さんに手渡していた。チェレンはいつも遊びに来るときに座る定位置に座ってほっと一息入れている。年末はこうして俺の家に幼なじみ三人で集まるのがいつの間にか決まりになっていた。

「あ、・・・チェレン」
「なんだ、君どこかに行ったと思ったら。ブラックの家に着てたのか」

チェレンはどこかトゲトゲとした態度でNに返答した。いや、待てよ。なぜだかチェレンのことは知っているじゃないか。やっぱりこいつ、ふざけていたのか。かあっ、と頭に登りかけた熱を払拭してベルのことを指差して、誰だか分かる、とNに問うた。

「ベルだろう。うん、キミは随分と成長、したみたいだね」
「えへへ、ありがとうございます」
「ベル、こんなやつとはなすな。こいつはプラズマ団に荷担していた奴だぞ」
「そうだけど・・・。Nさんは前とは違う顔をしているようにわたしには見えるけどなあ」
「まったく。ベルは簡単に気を許しすぎだよ」
「そうだ。キミたちに聴きたいことがあるのだけれど、いいかな」
「はい、わたしに答えられることだったら!」
「ボクの目の前に座っている、彼が誰なのか教えてくれないかな」

しん、と部屋が静まり返った。とりあえず、今のところ俺のことだけ認識できていないらしい。俺のことだけ断片的に忘れているのだろうか。

「君のことは、前から気に入らないと思っていたけど、これは錯覚じゃないらしいね。今この気持ちが確信に変わったよ」
「ボクは彼のことがなにひとつ分からないんだ」
「じゃあなんで、ブラックの家にお前がいるんだよ」
「それもよく分からないんだ」
「ふうん」

チェレンはめんどくさそうに相づちを打った。ベルは悲しそうに目を伏せている。

「Nさん、本当に全部ですか」
「うん、」
「記憶喪失ってやつかな。かなり断片的で、しかもブラックのことだけぽっかり忘れるなんて。お前の頭はどうなってるんだ」

チェレンは目を怒らせてため息をつく。なるほど、記憶喪失か。でも、なぜだろう。記憶を喪失するのはなんらかのショックが与えられたときだ。原因も、実態もなにひとつ分からない。しかし、俺はなぜこうまでして焦っているんだろうか。自分のことを思い出してもらえないというもやもや感とともに、怒りや悲しみやいろいろな感情が生まれてきて頭が割れそうだった。今あいつと口を利いたら、多分当たってしまうだろう。このどろどろとしか意味が分からない感情を持て余しながら、どんな言葉をかけたらいいだとか、妥当なことが何一つとしてあがらなかった。

「ブラックは悲しくないの」
「別に、なんともない」

なんともない顔なんてしてないよお、とベルの顔は暗む。

「僕たちじゃあ解決できないかもしれないけど、アデクさんならなにか助言をくれるかもしれない」

チェレンはチャンピオンとして健在であるアデクを師としている。自らの強さの固定観念を根底から覆すような言葉を与えてくれたその人を今もなお尊敬しているようで、たまに勝負をしているらしい。この前は修行だと言って山にふたりして籠もっていたらしいことも小耳に挟んだ。

「そうだねえ!アデクさんだったらなにか知っているかもしれないね」
「試しに聴いてみたらどうかな、ブラック。君もこのままじゃ気に入らないだろう」
「俺は別に気にしてないし」

ベルが頬を膨らませているのが見えた。どうも怒っているようだった。

「チャンピオン、彼は強くなったかな」
「アデクさんのことも覚えてるのか。やっぱりブラックのことだけ忘れてしまってる」
「だから、いいって言ってるだろ。俺、別に気にしてないし、あんたに忘れられたって構わないし―――」
「ブラック!」

ベルが叫んだ。輪を描いたような叫声が肌にぶつかってきたようだった。ぶるりと肌を震わせる。

「ブラックはもっと自分を大切にしなくちゃだめだよ。忘れられたら悲しいの。わたしだって悲しいよ、Nさんに忘れられたら。ブラックとNさんは友達なんだよ」
「・・・トモダチ?」
「うん、友達。だから、相談しにいこうよ」

ベルは目を細めて俺の手を取りながら、片眉をへにゃりとさせてほろ苦く笑った。
俺も彼女のように正直になれたらと、床とにらめっこした。




美しき標本(眩しい標本)

つづく
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