05

大き目の桶いっぱいに汲んだ水が歩く度にちゃぷちゃぷと小気味良い音をたてた。対してディエゴの持つ桶は静かで、ちょっと待てどうしてだと一瞬頭を捻ったものの、彼の背中を見て謎が解ける。ははあ、ディエゴは体の軸がぶれていないんだ、大股で歩いていても殆ど上半身が動かない。なるほど。

「ねえ、ディエゴ」
「なんだ?」

上半身を左に反らせて彼が振り返る。長めに揃えられた金色の前髪が少しだけ彼の右目を覆った。綺麗だと思った。男であるディエゴに対してこんなこと思うのは可笑しな話だけど、綺麗になったよ、あなた。振る舞いには品があるし身なりだって整ってる。あなた、って言うほどには心を知らないような気分になる、汚れた厩で仕事をしていたディエゴとは、どこか違う人みたいに感じる。

「その、結婚生活はどうだったのかな、って」
「片付いたときに手紙を遣ったろ。俺の思い違いか?」
「ああ、そりゃあ、貰ったけどさ…」
「半年ぽっちでも結婚生活なんて呼べるのか?」
「80歳のお婆ちゃんって聞いて、長くはないなって思ったけど……あ、あんまり宜しくない発言だった。変な意味じゃないんだよ」
「ぶっ……死んだ婆さんに気を使ってどうするんだよ」
「……」

仮にも妻だった人が亡くなった事実を"片付いた"なんて言ってしまうのが実にディエゴらしいというか、なんというか。容姿端麗で当時20歳だった彼が枯れて萎れきった裕福な老婆と結婚するというニュースはアメリカの下らない社交パーティーにまで影響を及ぼして、彼は老婆の遺産相続目当てできっとそのうちあの皺皺の首根っこを締め上げるだろう、だなんて噂がまことしやかに囁かれていたものだから私は少なからず不愉快な気分になったものだけど、それから半年もしないうちに老婆が亡くなったという知らせに、文面からありありと喜びが読み取れるディエゴの書簡ときた。まあ十中八九、彼の仕業だろうと思う。それに対して侮蔑の念も嫌悪も抱きはしないけど。

「お陰で俺は上等な乗馬履を履いていられるし彼女も生涯の最期に俺みたいな若い男を侍らせて幸せだったと思うぜ。ギブアンドテイクだ、誰も損しちゃいないさ」

確かに、そうかも。ディエゴの言葉にひとりごちたところでザザザと大きな音が耳に入って、それがきた方向を反射的に目で追う。シルバーバレットに比べればくすんではいるものの滑らかな毛を持った白馬は相も変わらず随分な暴れようで、彼に付けられた手綱にしがみついて危なっかしく引き摺られるジョニィを見て溜息が漏れた。

「なんて無茶なことを……あんなことしてたら死んでもおかしくない」
「全くだ。本当にあれがあのジョニィ・ジョースターなのか?随分な落ちぶれようだな」
「やめて、私の前で」

いくらディエゴだからといっても、兄のことをそんな風に貶されて良い気分はしない。反射的に遮ってしまったところで我に返ってディエゴを見ると、彼は特に気を悪くした様子もなく私を見ていた。ああ、良かった、折角水を分けてくれたのに怒らせてしまったかと。きみも好きものだな、とディエゴが言う。そりゃあ兄だから好きに決まってるじゃないと言おうとしたとき、私の背後から聞き慣れない声がして思わず桶から指が離れる、しまった、と思ったときには私より二歩は前に居たディエゴがいつの間にかそれを手にしていた。うわ、早い。

「まったく、そそっかしいやつだな」
「……ごめんなさい、ありがと」
「おい、あんたもあんただぜ。いきなり後ろから近付くな」

ディエゴが見る先、つまり声がした私の背後を振り返ると、背の高い男が腰に手を当てて私達を見ていた。鍔の広い帽子を目深に被った長髪のその男は、私の前に立ったディエゴを見て一種特殊な発音をした。いまのは笑ったのだろうか、へんなひと。ニョホ、と男はまた笑った。

「そいつは済まなかった、おたくらレースに出るのか?ああ、いや、あんたのことは知ってるさ。"優勝候補"、英国競馬界の天才ジョッキー、ディエゴ・ブランドーだろ?」
「……」

ああ、これは……。苛ついてるな、ディエゴ。こういう馴れ馴れしい人間を彼が昔から嫌ってるのは良く知っているし"優勝できるわけがない"とでも思っていそうなこの言い方。面倒なのは嫌なんだけどなぁ……。
ディエゴを見ると彼と目が合う。知り合いか、とでも言いたげな面持ちに肩をすくめる。知り合いだったら驚いたりしないし。てっきりディエゴの知り合いかと。

「で、そこのお嬢ちゃんも出るのか?まさかだけどな。いや、お見送りかな」
「……身体の割に中身は随分老いぼれてるらしいな。年寄りのお話相手になるのは訳あって飽き飽きしてるんだ、悪いが他をあたってくれ」
「どういう意味だい、それは?」
「ここは仲良く世間話をするところじゃあない、と言っている。無駄話がしたいなら年寄りの寄合にでも行けよ。俺もこいつもレースを控えている、そんなに暇じゃあないんでな」
「ちょっと、やめなさいってば、ディエゴ…そんな言い方することないでしょ」
「良いんだ、気にしないでくれお嬢ちゃん。俺も悪かった」

著しく不満気なディエゴの胸板を軽く叩いて男に向き合うと、気前良く微笑むその口元からズラリと金歯が見え隠れした。うわあ、なんだこのひと…全部金歯とか…。でもなんだか、悪いひとではないような気がした。一般的に言えばディエゴや私よりも、ずっと。

「私はみょうじなまえ。このレースに女は珍しいんだろうけど、参加するの」
「それは失礼したな、いや別に、お嬢ちゃんを侮辱する気は無かったんだが。俺はジャイロ・ツェペリだ、覚えておいてくれ」
「気にしてないから大丈夫……私は優勝目当てに参加するってわけでも無いし」
「優勝は要らない?賞金はブッたまげるほどの大金なのにか?随分と変わってるお嬢ちゃんだな」
「まあ、色々あってね……ほら、昨日からあそこで粘ってる彼、居るでしょ?兄なの」

ああ、とジョニィを見遣ってジャイロ・ツェペリが呟く。あいつの妹なのか、と。なんだ、ジョニィの知り合いなのか?彼に異国の友人なんて居ないと思ってたけど。

「なんだ、彼の知り合い?」
「あー…いや、そうだな。一昨日から、だが」

それはまた出来たてほやほやの友人ですこと。一昨日っていうと…ああ、ジョニィが凄い勢いで電話を寄越して来た日か、つまり……ん?ということはまさか。

「あの、まさかだけど……あなたジョニィに、」
「おいなまえ、好い加減にしておけよ。いつまで俺を待たせるつもりだ」

ジャイロ・ツェペリに詰め寄ろうと一歩前へ踏み出しかけた私の首に後ろからディエゴが腕を引っ掛けた、思わず変な声がでる。ぐえ…。

「心配しなくてもゴール地点で話したきゃ話せるさ。まあ、そいつがリタイアしなかったら、の話だが」
「嫌味な野郎だ、お嬢ちゃんに愛想つかされても慰めてやらないぜ」
「あのさぁ……そんなに歪み合わなくても良いじゃない」
「どうだかな……とにかくレース開始まで40分しかないんだ。なまえ、行くぞ」

きっとディエゴは私がジャイロ・ツェッペリの肩を持つのが気に入らないんだ、彼は友人が多い方ではないから……というか、彼にとっての友人が私以外に居るのかも疑わしい。私自身、子供のときに彼と出会っていなかったら友人として認められる自信がないし。
吐き捨てるように大きく鼻で笑いながらフレディの元へ行ってしまったディエゴを追う。去り際にジャイロ・ツェペリに別れを告げると、じゃあまたなお嬢ちゃん、と彼が言った。きみの兄上はたぶん馬に乗れると思うぜ、と。



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