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大急ぎでサンディエゴへと駆けつけたものの、なんていうか、人の多いこと多いこと!私の予想を軽く五、六倍上回る人間と馬がビーチを見渡す限り占拠していた。割り当てられた参加者のための簡易居住区でジョニィを探すだけでもそれはそれは骨が折れて、痺れを切らした彼に馬を引ったくられてからはその後を見守る暇もなく必需品を買い揃えにビーチへと繰り出した。参加者目当ての商人が山のようにここへ押し寄せていることは新聞で確認済みだったから、取り敢えず金を集められるだけ集めて大急ぎで飛び出してきたのだ。当然、このレースに参加することは父さんには秘密だ。娘の私に対して、目に入れても痛くないというのが口癖の父さんがこんなことを許すわけがないから。今年いっぱいは別荘で好き勝手する予定だったから、当座はばれやしないだろう。最終的にはばれるだろうけど、まあ、そのときはお説教に甘んじるしかない。

兎にも角にも、6000キロと言うんだからこれは生半可なレースではないはずだ。もちろん手綱や鞍は持ってるけど、換えのものを用意しておかなければゴールどころか生きて帰ることが出来るのかも怪しくなる。三時間後に始まるファーストステージは15キロしかないからまだ良いけど、セカンドステージは砂漠……その次は山脈を越えなければいけないし……。鞍はよっぽど大丈夫だと思うけど手綱は案外簡単に切れてしまうし、切れないまでも摩耗すると手が滑って馬を操りにくくなる。手綱は有り余るくらいが丁度いいかもしれない。あとはグローブ、指が出ているものが良い。サイズが合うものがなければ換えは諦めるしかないけど。



「あの、ねえ、ちょっと!これ欲しいんだけど、そう、3セット、ああもう、お釣りは良いよ、とっといて!」

要らない誤解を解くために言っておくと、釣り銭が要らないわけではない、それほど私は湯水のように金を使う人間ではない。では何故かと言うと、人が多すぎて受け取ることができないのだ。グローブを受け取るので精一杯、釣りを受け取る時に限って商人の腕があまり伸びてこないのは気のせいか?まあ良い、チップにしては高すぎるけど、くれてやる。これで入り用な荷物は全て整ったんだし、文句は言うまい。いまの最優先事項はこの殺人的な人混みを抜け出して参加者専用居住地に帰ること。出発する前にフレデリックにブラシをかけてやりたい。水も飲ませてやらなきゃ……。ここからなら、帰る途中に水汲み場があったような、ジョニィの分も汲んで行ってやろうか。あの暴れ馬に乗るのにもたいそう手間取ってたし……まったく、ほんとうに頑固な兄だ、レースが始まるまでは好きにさせてやろう、開始時刻までにあの馬に乗れなければそれまで。私の買い物も無駄になるかもしれないけど、まあ致し方ない。
荷物を肩から降ろして井戸に垂れ下がった綱を引く。きいきいと小気味良い音を聞きながら少し後ろに仰け反る、漸く上がってきた桶を石造りの井戸の淵に置いたとき気付いた。何と言うか、手渡してもらったプレゼントをその場で落として壊してしまったような気分だ。私は水を持ち運ぶための桶を持ってきていないのだ。はあ、まったく、もう……何だったのかいまの努力は。さっきの商人は桶も売っていたっけ?いまのところ水を汲みにこちらに来ている人間は居ないし、水はこのままひとっ走り桶を買って来て良いだろうか、せっかく汲み上げたのをザバーっとやるのは……どうも……。精神衛生上良くない。良し、行くか。ああ、でも、桶を地面に置くのはだめだな、果たしてこの桶、ひとりで淵に取り残しても大丈夫か?バランスとれるのだろうか、あれ、ちょっと無理か?いや、いけるな……

「なあ、遊んでるんなら先に汲ませて欲しいんだが」
「わっ、いえあの、これは……いや、どうぞお先に」
「ん……?」
「えっ?」

いきなり背後から声をかけられて危うく井戸に落っこちそうになる。流石にそんな事態は免れたものの水の入った桶は暗闇に消えて行ってしまった。なんだこいつ、驚かせるなよ……くそ、また組み上げなきゃいけないのか。間が悪いときに来る男だな、しかも遊んでたんじゃないし。いや、確かに私は邪魔だったかもしれないけど、そんなにじろじろ見るのは、失礼と言うものじゃないのか?早く汲んで帰れば良いのに。わざわざ腰を曲げて顔を覗き込んでくるこの男、そんなに珍しいか?確かに女の参加者は多くないけど、ここまでじろじろ見る必要はないだろう。私が一歩下がると男はご丁寧に一歩近付いて来る。

「……あの、お先にどうぞ、と言ったんですが。私の顔になにか」

ついてますか、と言おうとしたのだけれど、言い切る手前で私の思考は弾かれた。目の前の男が、目深に被っていたヘルメットを取ったあと口を開いて、

「なあ、まさかとは思うが、きみ、なまえか?」

紛うことなく私の名前を呼んだからだ。




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