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1890年、長い夏も漸く終わろうかと思われた9月23日、愛馬のフレデリックを屋敷の裏の草原で走らせたあと冷たいシャワーで汗を流し終えるとまるで見計らったように電話のベルが鳴った。交換手はサンディエゴからだと告げる。サンディエゴ?はて、サンディエゴに知り合いなんて居ただろうか?相手に切り替わるのを待ち構えていると、久方ぶりに耳にした男の声が酷く切羽詰まった様子で話し始めた。その間にも微かな夏の風が僅かに開けられた窓を吹き抜けて私の頬を掠めていった。

『ああ、なまえ、僕だ。暫く会ってもいないのに悪いんだが頼みごとがあるんだ、お願いだから頼まれてくれ。一生に一度のチャンスなんだ、僕の人生が変わろうとしてるんだ__』
「ちょっと、ジョニィ、落ち着いてよ。私があなたのお願い事を断るわけないでしょう?逃げやしないからゆっくり話してよ」

突然の電話に驚く暇も無く私がジョニィの頼み事を聞き届けようと身構えている間に、何時の間にか部屋の中へと紛れ込んだ蜜蜂が驚くべき執念深さで整然と生けられた山査子の花の周りを飛び巡っている。

『馬が一頭欲しいんだ、いますぐにだ。金ならもちろん払うけどいまは手持ちが無いんだよ、頼む、あと二日しか時間がないんだ。いま君もアメリカに居るんだろう?父さんの別荘だろ?』
「そうだけど、なんだって馬が要るの?私だって群れを引き連れてるわけじゃないんだからあげられそうな馬なんて一頭くらいしかいないけど。でもその馬も11歳だからスタミナはあんまり期待できないと思うよ、しかも気難しくて……ちょっと待って、ジョニィ、あと二日しかない、って言ったの?」

二日後といえば。毎朝のように新聞の一面を飾っている、あのレース。そして馬。一瞬ですべてが繋がって、驚愕のあとには混乱だけが残った。そんな馬鹿な、ジョニィは下半身不随なんだ、まさか、まさか!

「まさか違うとは思うけどジョニィ、まさか、スティールボールランレースに、」
『そうだ、なんとしてでも出なくちゃあならないんだ!なあなまえ、無理だとか無茶だとか言わないでくれ、そんなことは僕が一番感じてることなんだから!僕はもう決めたんだ、頼む、暴れ馬でも構わないから譲ってくれ。君が駄目だって言うんなら誰か他の__』
「ちょっと待って!待ってよ、ジョナサン!」

昔からそうだと言ってしまえばそれまでかもしれない、ジョニィは無茶をしすぎる、しかも今回の話は無茶とかいうレベルを超えてる、生死に関わる__6000キロを一頭の馬で走るなんて、そんなレース今まで聞いたこともない、そもそも下半身不随の人間が乗馬をすること自体危険すぎるのに。止まっている状態から落馬したって首の骨が折れて死亡することは充分あり得るんだ、それをあの気難しい暴れ馬で、しかもレースをするなんて!不可能だ、いったい、

「いったいなんのために?」
『僕の人生のためだ、僕はまた歩き出せるかもしれないんだ、口では説明できないけど、ああ、なまえ、分かってくれとは言わないが馬がどうしても必要なんだ』
「…………」

サンディエゴビーチからニューヨークまで、6000キロの人類史上初の乗馬による北米横断レースが二日後に開催、優勝者には__。ちらりと新聞を見遣るとこれまでにない大きい字体でスティールボールランレースについての記事が掲載されている。昔からそうだ、ジョニィは止めても聞かない。いつだってそうだった、父さんに口答えして殴られたときも、明らかに性悪な女の子と遊びまわってるときも、私は止めたけど聞かなかった。その結果がいま現在で、それは彼自身が一番身にしみて分かっていることだろう。結果的に口答えしたジョニィは父さんにぶたれたし、女の子と遊んでる最中に下半身の感覚を失った。私のせいでもあるんだ、止めるだけでなにもしなかったから、こうなった。

「……いいよ、馬はあげる。お金も要らない。ただし」
『……』

これ以上失敗を繰り返すわけにはいかない。ジョニィの命が掛かってるんだから。私にできることはなんでもするべきだ。……我ながらなんて兄思いの妹なのかと溜息が出る。つくづく、そんな性格だ。

「私も着いて行く。妥協案は受け付けないから。それが嫌なら誰か他を当たって」
『そんな、なにを言い出すんだ!僕の可愛い妹、そんなことはやめてくれ、きみを巻き込みたいわけじゃあないんだ!』
「仕様のないひとだな、じゃあこれでどう?"私は最初からこのレースに出るつもりだった"。納得した?あなたも良い加減頑固だけど、私だって負けないくらい頑固なの忘れたの」



……斯くして恐らく私の人生の中で最も危険な旅になるであろう80日間は幕を開けることになってしまったのだ。




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