ロッカールームから明日を殺せ 目に刺さるような夜の蛍光灯は、つい俺の鼻先にあるように思えた。疲れた、と弱音を吐くことも良しとすれば、だいぶ俺の世界は変わっていただろうか。無論、悪い方向にだけど。 深爪ぎみだな、と思った。
「起きろ、ユニんまま閉め出すぞ」 「……寒いの嫌ッス」 「ふん、三分だけ待ってやる」 「大佐……!」
茶番してる暇あったら早く着替えろ、とデコピンの姿勢を崩さないセンパイは、俺にネクタイを投げて寄越した。一歩間違えればバルスだったわけだ。危ない。
「他の部員は?」 「もう帰った。てめぇが気持ち良さそうに熟睡してッから、起こすの嫌だったんだろ。中村に感謝しろよ」 「まじスか」 「部活終わってから来たから、よくわかんねえけど」
少し藍色に染まった彼の瞳の奥の何かが、涙の膜に浮かされて溶け出ているようだった。俺はワイシャツを羽織りながら、笠松センパイの格好を観察する。制服のままだった。ご丁寧にカーディガンまで着ている。
「センパイ、バスケは?」 「フリースローだけやった。おら、口動かしてないで手動かせ」 「はいッス!」
あと一ヶ月後には、センパイたちはこの学校からいなくなる。 きっと見慣れないお洒落な私服を来て、見知らぬ友達と街を闊歩するのだ。俺はその人たちとのんだくれているセンパイに、高校でこんなアホな後輩がいたんだ、と話の種にされるかもしれない。 寂しい、なんて、何回言っただろうか。数えてないからわからないけど、三人合わせたらきっと星の数ほど言ってるんだろう。きっと。 つまり俺の言いたいことは、センパイの卒業が不変の事実である、ということである。
「腹減ったッス」 「んな遅くまで部室残ってるからだろうが」 「んな遅くまで、俺を待っててくれたんスね。センパイ」 「……早川と中村に頼まれちゃしゃあねえだろ」 「入試、迫ってるのに?」
主人の言う通り手を動かしながら答えると、彼はふいと俺から顔を背けて「悪いかよ」と濁した。あーあ、明日早川先輩に訊いてみよっと。
「ニヤニヤすんな気持ち悪い」 「へへ、でもデフォルトこんなんッスよ俺。特にセンパイの前でひぐぁッ」 「着替えたんなら帰るぞ馬鹿……?」
現役の時と変わらない速さで飛んできた蹴りが仕舞われていくのを、ただ見ていることなんて出来なかった。
「おい、おい黄瀬」 「センパイ」 「黄瀬、お前何やって」 「言っちゃ、やだ」
我ながらガキ臭いと思う。高校生同士のじゃれあい、という前提があって、はじめて成立する行為なのだと思った。でも今は俺からセンパイへ一方的にやってることであって、じゃれあいとは程遠いむしろ嫌がらせに近いものだった。 必死こいて笠松センパイの足にすがりつきながら、馬鹿みたいに緩み続ける涙腺を抑え込んで、声だけが先走っている気がする。握力も腕力もそれなりにあるから、力づくでは振りほどけないだろう。
「……アホ? アホか」 「だってえ」 「ってお前やっぱ泣いてんじゃねえか。だっせーなおい」 「や、見ないでくださいますか」 「お断りいたします。あとどこにも行きませんから足離せコノヤロウが」
その言葉覚えてろよ、と俺が口に含んだのを、あろうことかセンパイは全部もっていきやがった。仕方なく目を閉じたら、言葉のかわりに目から雫が溢れて溢れて、最早自分が寝っ転がってるのか、座ってるのかもわからない。 唇がそっと離れた後、すぐ笠松センパイの愉快に笑う声が聞こえた。おっかしいの、と。やられっぱなしなのが悔しいばかりで無理やり目を開けると、なんてことない、そこには鏡があるだけだったのだ。
(三月一日が旅に出た)
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