The dear devil was found. It is destiny to love it if it is destiny to fight again. Oh, you are my fallen angel.
大奥─幽玄─ act.6
その夜。飛影はなかなか眠れずにいた。昼間の鴉の姿が頭から離れ得なかったからである。
幾度目かのため息の後、隣から声をかけられた。
「寝つけぬのか飛影」
「すまん、起こしたか凍矢」
「なに、俺も寝つけなかっただけだ」
明らかに嘘を云っていることに気づき、飛影は凍矢の優しさにホッと息をつく。
「立ち合いのことを気にしているのか」
「・・・、いや」
「クスクス。お前は嘘が下手だな」
「・・・」
「寝つけぬのなら、少しばかり俺の身の上話しに付き合ってくれ」
凍矢は仰向けになると、なにもない天井に向かい静かに語り出した。暗闇の中でもはっきりと判るほど、その青い瞳は切なげに揺れ、どこか遠い彼方を見ていた。その様は、無くしたなにかを欲しているかのようにひどく儚げでもあった。
「俺の実家は後家人だった。しかも、後家人のなかでも最低の禄高。俺の家はお前の家と違って、金の為に毎晩毎晩息子に客をとらせるような親だった。14の時から毎晩、だ。際中に焼けた火箸を押しつけてくるようなのや病気もちの女もいた。18で婿に行った時、やっとこの闇から脱け出せるのだと心から喜んだ。・・・、ところが、婿に行った先で子供が生まれなくてな。結果、俺には“種”がないということになり離縁された。最後には食事も水さえもろくに与えられず追い出された」
「・・・」
「もとより実家には今更帰れる筈もなく、あてもなく街をさ迷っていた時、“さる方”に拾われた。その家中の者たちが猛反発したにも関わらず、みすぼらしい俺に、飯をくれ、寝床をもくれ、仕事をもくれた。その時、この方にこの身を一生捧げようと誓った。だが、その矢先、そのお方が婿に行くことになってな。その家には居づらくなった。そのお方の力添えだけが頼りの俺は、すがった。みっともなくな。クスクス、それからどうなったと思う?この大奥奉公をすすめられた、その方に、な。なんの曇りもない優しい笑顔で。行くあてもない俺を気遣い、大奥になんのツテもないにも関わらず、その方は必死になって奔走してくれた。たった1つの紹介状を得る為だけに。紹介状を得られたと教えに来てくださった時の笑顔は、きっと生涯忘れられぬであろう。まるで、自分のことのように喜んでくださった」
「・・・、凍矢、まさか」
飛影はその情景を思い浮かべると共に凍矢の心情を悟らざるを得ず、自分自身でも気づかぬうちに困惑の表情を造っていた。凍矢もそれに気づいていたが、敢えて気づかぬ風を装い語りを止めなかった。
「それで、ここに1番格下の御半下として入った。町人たちに混じって力仕事や水仕事、古参の者たちに手込めにされることも、別にどうとも思わなかった。なあ、飛影。お前にはここはただただ病んで穢れた場所に見えるかも知れぬが、ここでしか生きてはゆけない者たちもいる」
「・・・」
「しかし、時に思ってしまう。そんな俺たちに、光りはあるのだろうか、と」
やがて隣から穏やかな寝息が聴こえてきた。
どことなく淋しげに見えた凍矢。その理由を今知り得、飛影のなかにも凍矢のその淋しさが伝染した。まるで空っぽになってしまったかのようなを心を裡に見出し、飛影の顔が悲しげに歪んだ。そして、否応なしに蔵馬が思い出された。凍矢は片恋の相手にすすめられ、己は片恋の相手を棄てここに入った。はたして、どちらがより優しさに近い行動だったのだろうか。はたして、どちらがより無意識に相手を傷つけてしまったのだろうか、・・・
永遠に解けそうもない題に、飛影はただただ胸が締めつけられるだけであった。
結局、飛影はその夜一睡も眠れぬまま朝日を迎えることとなる。
※ ※ ※
「大変だ!」
遅い昼食中、御三の間に慌てふためきながら白虎が入ってきた。
「い、今聴いたんだが、鴉様が亡くなったらしい」
その名を耳にした飛影は箸が止まった。いつもであるならば関わり合いを避ける輩。しかし、飛影はその者たちの会話をそっと聴く。どうやら鴉様は、朝食の後、突然血を吐いて倒れたらしい。昨日の今日ということもあり、飛影は眉をしかめた。その様子を見ていた凍矢は飛影に言葉をかけた。
「飛影。なにもお前が気にやむことはなかろう」
「しかし」
2人の間に沈黙が流れる。それに反するように、朱雀たちの会話が耳へと流れてくる。
「どうも、前々から胸を患われていたとかで」
「最近寒暖の差が激しかったからな。それが仇となったか」
「しかし、これで運気が巡ってきたではありませんか朱雀様」
「うむ」
「次に私こそが御中臈に抜擢されるやも知れぬ」
「そうなられた暁には、我々をお引き立て願います、朱雀様」
それを聴き、飛影は渇と躰が熱くなった。
「鴉殿の死を悼む気持ちはないのか貴様ら!」
他者を愚弄し陥れ、強者に対してのみ媚びへつらうその様が気に入らなかった。
「飛影、落ちつけ!」
凍矢が間に止めに入らければ、そのまま乱闘騒ぎになっていたであろう。
その日の夜。飛影のもとへ運命の足音が近づいた。本人さえも知り得ぬままに。
夕食を終え、辺りの景色は夜の帳を迎えようとしていた。
「飛影と申す者はいるか」
御三の間の扉を開けたのは思いもよらない人物、樹であった。訝しみながら返事を返す。
「私ですが」
樹は飛影の顔を一撫でする、その瞳に何故か気圧された。なにも映っていない、空虚がそこにはあった。冷たい訳でもない、ましてや温かみもなかったが、なんの感情もその瞳には反映されてはいなかった。能面のような無機質さがそこにはあった。
「黄泉様がお呼びである。お部屋へと向かえ」
黄泉、様?何故、この大奥の最高権力者が。その疑問を反芻するより速く樹は更に命じた。
「それから、凍矢と申す者は」
「はっ、私でございますが」
「そなたは私の部屋へと」
飛影と凍矢は、互いに困惑した顔を見合せた。
案内人のもと黄泉の部屋へと入る。なかの薄暗い景色が、黄泉の心を反映している。穿ち過ぎとも思うが、間違ってはいないようにも飛影には思われた。
意外過ぎる命に、飛影でなくとも驚愕したであろう。
「私、を、御中臈に?」
「不服か」
「・・・。いえ」
「お主なら皆納得しよう。先日の立ち合いは見事だった。なに、深く考えずともよい。その褒美と思えばよいのじゃ。近頃はお主のような武士らしい男がめっきり減った。実に淋しいものよ。それに、あの鴉に打ち勝った者を冷遇する訳にもゆかぬのでな。それだけのことよ」
「・・・」
「お主の為の部屋も用意した。そちらへと移り、明日からお勤めに励め」
次の日から飛影の周囲ががらりと代わった。飛影自身が代わった訳ではないのだが、見る周囲の目が否応なしに代わらざるを得なかったのである。
突然の昇格。そこに、嫉視反感がつきまとうのは無理からぬことであった。いつしか尾びれや背びれが噂を華やかなものへと変質していた。曰く、飛影は黄泉様と念者となり出世を勝ち取った、と。しかし、当の本人は否定も肯定もせず、毅然とした態度を貫いていた。それが、却って噂に真実味を加えているのではないか。あの日以来、飛影の部屋付きとなった凍矢はそう心配していた。
「心配性だなお前は」
「“旦那様”が無頓着なのです」
部屋を与えられる上級職になると、呼称が旦那様へと代わる。しかし、飛影はそれを煩わしいものだと一笑する。この時も、
「2人きりの時は飛影でいいって云っただろう凍矢」
「そういう訳には参りません。誰の耳があるかも判らないのですから」
ちらり、と背後に目配せをし、周囲に誰も居ないことを確認した凍矢は、それ迄にない真剣な眼差しで飛影に詰め寄った。飛影にだけに聴こえるように小声で問いかけ始めた。
「お前がそういう奴ではないと判ってる。だが、もう少し保身というものを学べ。でなければ、ここでは生きてゆけないぞ」
「保身、ね。興味がない」
あまりにも飛影らしく苦笑しかけて、思いとどまる。今は、少しでも飛影に自分の立場を判ってもらう必要性を感じたからであった。
「俺がこんなに心配するには訳がある」
「訳?」
「お前があの日黄泉様に呼ばれた日、俺は樹様に呼ばれただろう」
そういえば。
「あの日、樹様に、お前の言動を逐一知らせよと、命じられた」
「なんの為に?」
「判らない。でも、・・・」
「でも?」
凍矢は一瞬云うのを躊躇うかのように顔を歪めた。しかし、知らせておいた方がやはり善いと判断した。
「鴉様が亡くなって日も明けきらないうちに昇格。鴉様の代わりと聴こえはよいが、幾らなんでも速すぎはしないか?」
「まあ、俺も最初はそれに疑問を持ったが」
その疑問は自分自身の部屋だと案内されたこの部屋に通され、いっそう強くなったが。何故ならば、調度品など全てが飛影用に仕立てられていた。短期間でこれだけを用意出来るものであろうか。作為的なものを感じたのは確かだった。
「それに。樹様は黄泉様と念者の関係だ」
「え!?まさか」
「やはり知らなかったのだな」
樹様は仙水様と。確かにこの目で見た。あのただならぬ雰囲気は、それ以外に考えられない。
「ああ、お前の見たことも事実だ。つまり、樹様は仙水様と組んで、黄泉様を大奥から追放し、自身たちがそれにとって代わる野望を抱いていらっしゃるんじゃないかと、俺は睨んでる」
「フッ、壮大な野望だな」
「笑ってる場合か」
噂では、黄泉様と仙水様が樹様を間にし、惚れた腫れたの三角関係だと面白おかしく話されているが。ただそれだけには留まらない、裏があるのではないか、そう、凍矢は常々思っていたのである。あの3人が、ただ恋に現をついているうつけものには到底見えない。時として、ぞっとする眼差しを交わし合っていた。牽制、あるいはそれに準ずるなにかがそこには含まれていた。事実は全くの逆かも知れない。黄泉の方こそが2人を利用し、動かしているのかも知れない。何れにしても、そんな覇権闘争に飛影が巻き込まれればならない理由はない筈である。
「しかし、ならば問うが、俺が御中臈になって誰か特をしたか?逆は?」
飛影のそれらの言葉に、今度は凍矢が次なる言葉を捜しあぐねた。今居る御中臈の誰よりも身分が低く、ここに入るのもなんの後ろ楯も持たない飛影。誰かに怨恨を買う余地もなかった。無論、この為他の御中臈たちからも無害と見なされ敵視されずにいる。
「・・・、確かに」
「今いる御中臈の間で、次期将軍に決まったという躯公の側室候補を決めるらしいと噂だが、それだって、筆頭はその樹様だろう。家柄も容姿も申し分ない。その点は黄泉様と仙水様は一致した意見だと思うぞ。他の候補者なんか考えられん。そんななかに、俺みたいなのが今更1匹混じっても大差ない、そもそも対抗馬にさえもなれない。俺の云ってること間違ってるか」
「・・・。だが、不安が拭えないんだ」
もやもやしたものの説明が巧く出来ない。もっと暗いなにかが飛影を取り囲んでいるようで、・・・
「・・・」
「ありがとう。しかし、クスクス、お前もお人好しだな。樹様に俺を見張れと命じられたのに、それを俺に教えていたんじゃ意味があるまい」
「そうだが」
「俺は充分だと思ってる。今の地位につけたことで、実家への仕送りも増えた。結果、妹の結婚も予想していたよりずっと速めてやれたしな」
先日届いた手紙には、婚礼の日取りも決まったことなど書かれていた。もう、思い残すことはなに1つない。
「それで、お前はよいのか」
「いいもなにも。・・・、もとよりここに入る際、好いた思いは封じた。いつか云っていたな、俺たちは囲われた金魚だと。いいさ、目的は達せられた、あとは大人しく金魚様になってやるさ」
封じた、か。忘れたと云えない、いや、云えないのであろうその飛影の心情を誰よりも凍矢は察しられた。そして、思うのだった。飛影に対し始めからなにか惹かれるものがあった、それが、自分自身の心の投影からくるからではないか、と。飛影も、自分も、ここ、大奥にはない者を求めてやまない。そして、その者たちの足枷になりたくはない。だからこそ、鎖に自ら繋がれる選択をしているのではないか、と。
2012/11/17
prev | next