2012 氷河誕





 まだ年端もいかない少年が失ったものはあまりに多く、そのどれもが少年にとってとても大切で、尊いものだった。星の運命なのだ、きっと。少年は言った。
少年は窓枠に切り取られた空を見上げた。少年の母親、少年を聖闘士に育てた師、共に育った兄弟子。彼らはこの星のどれかになったのだろうか。
 瞬は窓にかかるカーテンを黙って引いた。氷河、と掠れそうな声で少年を呼ぶと、ブロンドを揺らして少年は窓から視線を外した。

「すまない。寒かっただろうか」

 振り返った氷河のむき出しの腕が、柔らかい綿のストールを掛けた瞬の肩にそっと触れた。寒さに強い彼だが、そういえば氷の棺で凍死しかけた彼を温めて起こしてやったことがあったっけと瞬は比較的新しい記憶を辿る。だが、瞬がカーテンを閉めたのは寒さのせいではなかった。外の風よりも氷河の手のほうがよっぽど冷たい。古い時計がコチコチと秒針を動かす音が妙に大きく響いている気がした。

「氷河、見て。きみの誕生日になったよ。おめでとう」
「ああ・・・ありがとう」

 広い寝室には大きな照明が付いていたが、瞬が灯したのはベッドの側の小さなランプひとつだけだった。オレンジの薄明かりを映した氷河の青い瞳から、表情は読めない。

「あまり嬉しそうじゃないね」
「・・・嬉しい」
「そう・・・」

 瞬は氷河の瞳を見るのをやめた。その奥にいるのは自分ではないからだ。瞬は肩に置かれた冷たい手を掴んで外し、力の抜けた身体を抱き締めた。瞬のほうがいくらか身体が小さかったが、それでもぎゅうと強く氷河を抱いた。

「カミュが」
「うん」
「ケーキはないけれど、おめでとうと」
「うん」

 耳元で淡々と紡がれる話がいつの記憶なのか、もう彼にしかわからない。彼の言うカミュはもういないのだから。コチコチ。文字盤の天辺を指していた針が少しずつ右に落ちていく。

「アイザックも」
「うん」
「夕食のあとに木苺を二粒くれた」
「そう」

 カーテンを揺らした夜風が、瞬の肩に引っ掛かっていたストールを音もなく落とした。

「カミュが教えてくれた。誕生日は、母に感謝をする日だと」
「へぇ」
「生んでくれてありがとうと」
「氷河」

 瞬は、氷河が泣き出してしまうのではないかと懸念して抱き締める腕に少しばかり力を込めた。彼は意外に泣き虫だからだ。言葉数は決して多くないくせに、すぐに泣く。悲しくて泣く。悔しくて泣く。友のために泣く。
瞳の青から涙が零れていく様は、まるで湖が溢れたような、晴天の空から雨が降っているような、そんな景色を瞬に想像させた。そして瞬は氷河の涙を見る度、その涙を凍らせてしまえればいいのにと願った。凍らせたら綺麗な箱か瓶に入れて、どこかに隠してしまえたら。それほどに彼の涙はいつも哀しい色をしていた。
 だが、腕の中の氷河は泣かなかった。

「ふふ。おかしな話だ」
「どうして」

 泣かないどころか自嘲するように笑ったので、瞬は面食らってしまう。

「運命とはこうも簡単に受け入れられるものなのか」

 これまでずっと氷河の声に適当に相槌を打っていた瞬は、初めて返事をするのを躊躇った。運命。瞬がここにいるのも、氷河が大切な人を自らの手によって失ってしまったのも、全てそれぞれの星の運命なのだ。また夜風がカーテンを揺らして、腕の中の氷河がぴくりと動いた。氷河を抱き締めたまま瞬は窓を振り返って、彼の視線を追う。地平線近くまで下りてしまった白鳥の一等星は、庭の木に隠れて見えない。瞬はゆっくりと氷河に向き直り、一等星を探して震える瞼を指先で撫でた。

「瞬、オレは」
「氷河」
「生まれてきてよかったと」
「氷河、」
「聖闘士になってよかったと、思っている」
「・・・やっぱり、泣いているじゃない」

 金色の長い糸で縁取られた瞼は、舐めると少し塩辛い味がした。湖でも雨でもなく、これは海だったのか。彼が何度も潜った海の味だろうか。きっとその海は、この夜よりも暗くてこの風よりも冷たいんだろうね。戻れないのだ、明るい世界には。星が夜の間しか生きられないのと同じで。
 瞬はそっと手を伸ばして、ランプの灯りを消した。



END





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