10. 薬指にキス




 一度目の別れは、カミュの死だった。
聖闘士になった瞬間、死への覚悟はできていたつもりだった。だが、それは予期していた聖戦よりも早く唐突に訪れ、カミュが死んだその夜、ミロは天蠍宮で一人きりで涙を流した。
 二度目は、二人一緒だった。冥界の厚い壁を次代の子らに開いてやるために、自らの命をぶつけて、散った。



 黄金の踵で踏み締める階段は、いったいどれだけの聖戦に耐え、どれだけの人の死を見てきたのだろう。
 あちらこちらにヒビが入り角が欠けた一段一段を、ミロはゆっくりと降りていく。
 双魚宮の主は留守だった。微かに薔薇の香りの小宇宙が残っている。出掛けたばかりだろうか。それを辿るように双魚宮をまっすぐ抜けて、また階段を降りる。天蠍宮よりも高い位置から見下ろす聖域は広く、見上げた星は少しだけミロに近い。この星も、ここで繰り返される幾多の聖戦を見下ろしてきたのだろうか。
 ふと、少し下の宝瓶宮からよく知った小宇宙がふわりと流れてきてミロは視線を前に戻した。階段の先から見上げるカミュの表情は暗がりでよく見えないが、黄金色の水瓶座ではなく厚手のニットを纏った薄い肩は、震えているように見えた。

「ミロ、出発は」
「明朝。夜明けと同時に」
「そうか」

 ミロが教皇から任務を命じられて来るのを、ずっと待っていたのだろうか。近付いて触れた肩は冷たい。手の中で羊皮紙がくしゃりと音をたてた。

「ひと月くらいかかる」

 任務の内容はただの視察らしいが、ギリシャからいくつか国境を越える。カミュが遠慮がちに口の端をぴくりと震わすのを遮ってミロは羊皮紙に記された任務の期間を告げたが、カミュの唇はまだ震えていた。

「・・・荷造りは」
「まだ」
「では、」
「それよりも、俺はまだカミュと話したい」

 天蠍宮に戻ったら、荷造りをして発たなければならない。しかし月は高く、夜明けにはまだ少し時間がある。背を押そうとするカミュの手を掴んでミロは蠍座の踵を鳴らした。

「ミロ」
「ただの視察だ」
「・・・わかっている」
「もう聖戦じゃない。危険なこともないだろう」
「それもわかっているが」

 任務くらいでカミュがぐずるのは珍しいことだった。やはり、ひと月という期間が気に食わないのだろうかと冷たい手を強く握ってミロは横目で泣きそうなルビーを見た。カミュはいつの間にこんなに弱くなってしまったのか。いや、カミュだけではない。羊皮紙を握る自分の手も、僅かに震えていることにミロは気付いた。

「・・・話とはなんだ」
「話?」
「私と話したいのだろう」

 崖の間を吹き抜けてきた冷たい風が赤い髪を揺らして、泣きそうなカミュの横顔が見えなくなる。

「・・・そうだ。携帯は使えるようになったか」
「ああ・・・うん、まあまあだな」
「そうか。・・・帰ったらメールのやり方を教えてやる」
「助かる。氷河がメールをしたいとうるさいのだ」
「氷河か。しばらく会っていないな」
「次にこちらに来たときは天蠍宮にも寄るように伝えておこう」
「そうしてくれ。うまいものを用意しておこう」

 ミロが話したいのはこんなくだらないことではないし、カミュだって他に言いたいことは山程あるはずなのに、互いにそれを口にしないのは、月がまだスターヒルよりも高いところにあるからだ。

「・・・ミロ、中へ入ろう。ここは冷える」

 顔を上げたカミュの瞳は、やはり泣きそうに揺れていた。冷たい風がまたその瞳を隠してしまう前に、ミロは自らの手のひらで薄い瞼を覆った。

「・・・離せ」
「・・・たったのひと月だ。カミュ」

 手の中でカミュの瞼が震える。それが止まるようにと願いながら、ミロは自らの指にキスをした。

「俺たちは生きている。ひと月なんて、すぐだ」

 カミュは返事をしない。

「必ず戻る。約束しよう」

 黙ったままのカミュの瞼が、じんわりと熱を持った。ミロはそれをカミュの返事と思うことにして、そっとカミュから離れた。

「行ってくる」

 蠍座の踵で古い石段を鳴らして、ミロはまだ高い月と俯くカミュに背を向けた。







 明け方。ギリシャの気温はひと月前とあまり変わっていなかった。太陽の端が地平線から顔を出し、空が白んでいく。蠍座の踵が音をたてないように細心の注意を払いながらミロは宝瓶宮に忍び込んだ。
 寝室に鍵はかかっていない。呼吸に合わせて上下する毛布から赤い毛先がはみ出している。

「・・・カミュ」

 ひと月ぶりの名前を呼ぶ声は、掠れた。ぴく、と毛布が動いて、中から長い指先が音もなく伸ばされた。掴んで引くと、半開きのルビーがミロを映して綻ぶ。

「おかえり」
「ただいま」
「ありがとう。約束を守ってくれて」
「守らないわけがないだろう」

 引いた指の付け根に、ミロはキスを落とした。ひと月前に、カミュの瞼を隠した自らの指と同じ場所だった。ああ、とミロは得心して、その指を撫でた。

「ふふ。おはよう、ミロ」
「ああ・・・おはよう、カミュ」

 まだ一日は始まったばかりだ。今日はずっとここにいようと決めて、ミロは起き抜けの恋人の唇におはようのキスをした。



END




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