細い指先が細い筆を動かすと、赤く柔らかそうな液体がゆっくりと爪を染める。鼻をつく独特の匂いが広がる。いかにも身体に悪そうなこの匂いをミロははじめは嫌がったが、もう慣れた。
 中心にまっすぐひと塗り、それを伸ばすように両側にも筆を運び、爪本来の薄桃色が全て隠れたらそっと息を吹きかける。同じ手順で、指先がひとつずつ彩られていく。

「他の色は塗らないのか?青とか」
「赤しか持っていない」

 赤い指先を見つめる視線は赤い。その視線をいまにも遮ってしまいそうに流れ落ちる髪も赤い。カミュには赤がよく似合う。そう思っているのに、無駄とも言える質問をわざわざしたのは、どうにも手持ち無沙汰だったからだ。爪を染めているカミュに余計なちょっかいをかけたら容赦無く氷漬けにされることはわかっていた。

 五本の指を全て塗り終えると、筆を小瓶に戻してカミュはその手を窓に向けてかざしてみる。塗りムラがないか確認をして、満足そうな瞳がチラリと光った。

「そっちの手は終わりか?」
「ああ。乾いたらな」

 爪に乗った赤はまだ瑞々しく光っている。それをカーテンに付けてしまわないように注意しながらカミュが窓を開けた。弱い風が通る。

「気付かなくてすまなかった。・・・臭うか?」

 もう気にならなくなっていたエナメルの匂いが風に乗って出ていく。ミロは首を横に振りながらカミュの腕を掴んで引き寄せた。

「それよりも。こっちの手は俺がやりたい」



「そんなに削がなくていい。もっとたっぷり・・・ああ、そのくらいだ」

 カミュに言われるまま、ミロの指先が慎重に筆を動かして小指の先に塗料を乗せた。正直言って、ミロはちまちまと細かい作業が得意ではない。では何故こんなことをしているのかというと、暇で、手持ち無沙汰で、相手がカミュだからである。
 小さな筆に塗料を多めに乗せて、垂れないように爪に移す。中心から両側へと均等に伸ばして、全てが赤く染まったら息を吹いて乾かす。皮膚にはみ出してしまった部分はカミュが笑いながら自分で拭き取った。

「・・・どうだ?カミュ」

 たっぷり時間をかけて全ての指先を染めて、ミロは先程カミュがしたのと同じようにその手をとって明かりに透かしてみた。慎重にやったつもりだったが、筆が通ったあとが筋になってデコボコになっているのが目立つし、拭き取るのが間に合わず皮膚にはみ出たままになっているところもある。自覚していた以上の不器用さを思い知らされ、ミロの高揚していた気持ちは空気の抜けた風船のようにフニャンとしぼんでしまった。

「あー・・・カミュ?」

 カミュは黙ったまま、指先を見ている。呆れて声も出ないのだろうか。ミロは掴んでいた手をそっと離して、ついでに身体ごとカミュから離れた。

「・・・どこへ行くのだ、ミロ」
「う・・・」

 僅かにではあるが、部屋の温度が下がる。ミロはびくりと立ち止まった。カミュの小宇宙が少しだけ高まったのを背中で感じる。

「ミロ?」

 ミロは咄嗟に近くにあったカミュのベッドに飛び込んでいた。さすがに自分のベッドごと親友を氷漬けにはできないだろう。冷静になって考えてみればせこい手ではあるが、その時のミロには冷静さなど欠片も無かった。いくら連日暑さが続いているといっても、さすがに氷の棺の中で夏を乗り切りたくはない。

 だがシーツにくるまったミロの頭上から落ちてきた声は、穏やかなものだった。

「・・・え、カミュ?」
「寒かったか?」

 恐る恐るシーツと巻き髪の隙間からミロが覗き見たのは、自らの凍気を器用に操って指先に纏わりつかせている上機嫌なカミュの姿だった。

「・・・何してるんだ」
「こうすれば早く乾くかと思ったのだが」

 カミュの指先で氷の粒がくるくると回る。窓から射す光に反射してとても綺麗な、だがちょっとおかしな光景である。

「怒っていないのか」
「どうして怒る必要がある」
「それ・・・汚くしてしまったから・・・」

 ああ、とカミュはミロが染めた爪を見て微笑んだ。氷が楽しげに弾む。

「お前がわたしのためにやってくれたことを、怒るわけがないだろう」

 ふわりとシーツが捲り上げられて赤い指先がミロの頬を包んだ。氷の粒はいつの間にかなくなっていて、どうやらエナメルは綺麗に乾いたらしい。

「次からこちらの手はミロに頼むことにしよう。利き手だからやりづらかったのだ」

 ―勿論、引き受けてくれるだろう?

 返事の代わりにミロはシーツを引っ張ってカミュごと抱きしめた。

「青いのも用意しておこうか」
「いや。カミュには赤がいい」

 赤い指先にキスをしたら、カミュの頬まで赤く染まった。やっぱりカミュには赤が一番似合うと、ミロは満足そうに笑った。



END





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