01. 始まりの合図のキス




 まるで鏡のようにピカピカに磨き上げられた宝瓶宮の床を蠍の足が音も無く歩いていく。
 時刻は午前七時。せっかくの非番だというのに何故か早起きしてしまったミロは、同じく非番でまだぐっすり寝ているであろう恋人の寝込みを襲うべく宝瓶宮に忍び込んでいた。生真面目な彼は意外と寝坊すけなのだ。

 宮の奥の階段を上り勝手知ったる居住スペースをずかずか進む。
 寝室の扉をそっと開けると、案の定カミュは柔らかそうなベッドに沈んで穏やかな寝息をたてていた。
 春といえどまだ朝は肌寒いこの時期に薄いシーツを一枚かけただけで平気で寝ているのは、やはりシベリアにいた期間が長かったからだろうか。しかしシーツから僅かにはみ出した背中が思いっきり丸まっていて、なんだか寒そうに見える。
 ミロはぐるりと寝室を見渡して、ソファの背に引っ掛かっていたストールを見つけてそれをカミュの背中にかけてやった。

「ん・・・・・」

 僅かな重みに気付いたのか。横向きに寝ていたカミュは鼻から抜けるような声を出してもそりと寝返りをうった。

 仰向けになったことによって、カミュの寝顔が惜しげもなくミロの眼前に晒される。
見慣れた寝顔ではあるのだが、それでもミロの目は緩んだ目尻や枕の跡の付いた頬、そして半開きの唇に釘付けになった。

「カミュ・・・」

 思わずため息混じりの声がその名前を紡ぐ。
返事は無いが、片方の眉尻が反応するようにピクリと動いた。
 ミロはたまらなくなって柔らかいベッドに乗り上げた。

「カミュ・・・・カミュ。起きて」

 ぐ、と顔を近付け耳元に唇を寄せると、ふわりとシャンプーの香りがする。それがまたミロをたまらない気持ちにさせて、耳朶を甘噛みしながら目覚めの言葉を何度も囁いた。

「カミュってば。早く・・・・」

「う・・・・・ん。・・・ミロ?」

 ぱちりと、瞼を押し上げて真紅の瞳が開いた。
 一日の始まり、どうせ最初にその瞳に映すなら俺の顔を映せとばかりにミロは至近距離からカミュを覗き込んだ。

「ボンジュール、カミュ」

「カリメーラ、ミロ」

 互いの国の言葉で朝の挨拶を交わすのは、二人のちょっとした遊びだ。なんとなく二人の距離が縮まるような、そしてちょっと秘密っぽいこの遊びがミロは大好きで、まだとろんと寝ぼけたカミュの頬を両手で挟んだ。

「カミュ。今日の予定は?」

「そうだな・・・。まず早起きの蠍と、二度寝をする」

「それは却下」

「なぜ」

「もうおはようって言った」

 ミロは少し不機嫌に唇を尖らす。子供っぽく見えるその顔にカミュは小さく笑って、ミロの首に両腕をまわした。

「・・・では、おはようのキスをもらおうか」

「・・・・・」

「ん?どうしたミロ。お前のキスが無いと私の一日はいつまで経っても始まらないぞ?」

 寝ぼけていると思っていた瞳はしっかりと開いている。
 ミロは両手を上げた。

「・・・まったく。お前には適わないよ」

 まだカミュの頬に残る枕の跡を指先で撫でて、ミロは柔らかい唇に吸い付いた。

 朝一番に交わすキスは、穏やかな一日の始まりの合図。



END




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